雪解けの滴の味
季節が巡った。雨とアスファルトの香りは消え、乾いた風は通り過ぎ、気がつけばツンと鼻を刺すような冷たい空気すら変わりつつあった。畦道では、つくしが顔を覗かせていた。思っていたよりも小さい机の上には、卒業アルバムが置かれていた。中学三年生になってからの約一年は、思いのほか長くて、刹那的だった。
⊗⊗⊗
一生の思い出になるという修学旅行が明けたとき、教室には当たり前のように彼がいた。どういうことだか、頬に大きな絆創膏を貼りつけているようだった。どうしたの、なんて声をかけられるはずもなく、私は新しいクラスの友達と談笑をした。それも、わざとらしいくらいにオーバーリアクションで、大きな声で。
心に靄はかかったままだ。あの日、もっとかける言葉があっただろう、とか、もっと上手く気持ちを伝えられたら、とか、考えれば止まらなかった。後悔の念は募り、それでも新しい環境にはすぐに慣れた。彼の一人くらい欠けても、体育祭も文化祭も楽しくて、まるで元からいなかったかのようだった。
けれど、それはきっと幻だ。塾の夏期講習で行けなかった、三人で約束した毎年変わらない夏祭り。二年生のときは解けなかった数学の問題。代わり映えのない帰り道。自販機に並んだ、ソーダ味の二種類のアイス。四季の中でも、夏は特に彼の色が強かった。どうしても私の心に潜んでいて、なかったことにはできなかった。じっとりとした夏の匂いには、汗とオイルの匂いが混ざっていた。
「あ……」
不釣り合いなほどに綺麗なコスモスが、独りでに咲く季節だった。大きな本屋さんを目当てにして、街の方に出たときだ。苦手意識がまだ消えない、数学の参考書を買った帰り、ある店が目に入った。ショッピングモールを過ぎて少し行ったところに、ポツンと佇んでいた。重そうな扉が締め切られた、どこか入りづらい雰囲気の店だった。
都会でも吹くらしい秋風か、またはビル風かに背中を押されるように一歩を踏み出した私は、気がつけば両手でその扉を押し開けていた。
「らっしゃい」
「……どうも」
カランカランと金属の楽器が音を奏でると、すぐに店内にいた人が私に声をかけた。サングラスをしていて、耳にはピアスがざくざく開いていて、タンクトップから覗く腕には蛇のようなタトゥー。まるでそっちの道の人かのようだった。店内の空気は涼しくて丁度良いのに、そこに混ざる香りがどうも私の肌には合わなかった。ムスクとサンダルウッドの、絶妙な香り。
どうやらそこは、アクセサリー屋らしい。それも、このガラの悪い兄ちゃん一人で経営しているという。カウンターから視線を受けながら、店内をひと通り歩くけれど、ジャラジャラとしたネックレスや、拡張ピアス。どれも厳つくて私好みのものはなかった。
「姉ちゃんがつけんのか?」
「あー……ちょっと来てみただけなんですけど」
「女の子が好きそうなやつは少ねぇかもな」
「あはは……」
意外にも話しかけてくるタイプの店だったのか、とつい目を丸くした。カウンターの奥で椅子に座って、暇だからか、片腕で頬杖をつきながら私の動向を観察してくる様はどうもやりにくい。早めに切り上げて出よう、とシェルフを横切りながらさりげなく視線を遣れば、目が惹かれるものが光って見えた。
「あ、これ……」
左右で少し形が違うピアス。正確にいえば形は同じだけれど、デザインが少しだけ異なっていた。拡張のように見えたけれど、十八ゲージのつけやすいピアス。銀色だけれど光を反射するには少し輝きが足りなくて、けれどその光沢やデザインが私を魅了した。かつて私の隣にいた彼を思い出して、ついそれに手が伸びた。いつの間にやら、店員さんが私の隣に来ていたらしく、サングラスの奥で目を細めた。嫌な匂いに、少しタバコの匂いが混ざった。
「珍しいセンスしてんな、姉ちゃん。いいと思うぜ」
「へへ、ちょっと惹かれちゃった。……これ、包んでもらえますか?」
私も、今は想像つかないけれど、彼がつけるならこれが良いと思った。シンプルなものならファーストピアスなんかを開けたときにつけることになるだろうから、少しでも奇を衒ったものの方が良いかと思った。もっとも、これを買っただけで渡せない、なんて可能性は大いにあるのだけれど。
台紙についたバーコードが読み込まれると、レジにはなかなかのお値段が表示された。確認すれば良かった、と思いながらも、ちょっと待ってください、と財布の中身を確認すれば、本当にギリギリで払えそうだった。帰りの電車賃はなくなるけれど、迎えに来てもらえばいい。安堵の息を漏らすと、金属製のカルトンに千円札を重ねた。
「彼氏かい?」
「……いえ」
店員さんが、太い腕とは反対に、細かな動きで丁寧にピアスを梱包する。隙間から見えたサングラスの奥の目は、案外優しげなものだった。
明らかに男子が好きであろうピアスを、それも少しマニアックなピアスを選んでかつ、梱包を頼んだことで彼氏へのプレゼントだと考えたのだろう。想像していたよりも柔らかな声色で訊ねられたそれに、なんて答えようか。唇を固く結んでいると、それが妙に思ったのか、手元だけを捉えていた視線がこちらを向いた。
それから、返答に迷ったのは一瞬のことだったと思う。
「親友です」
久しぶりに口にしたその言葉に、胸の奥がぞわぞわした。首裏や、頭の中にまで鳥肌が立ちそうだった。彼にとってそうではなくても、私にとってはまだ親友だった。親友であってほしかった。どこか重々しくなったその言葉を聞いた店員さんは、一度梱包の手を止めると、薄く笑みを浮かべた。
「いいね」
私の前に丁寧に包まれたピアスの箱を置くと、指輪がたくさんついた指でレジ打ちをした。すると、ディスプレイに映された数字の千の位が一少なくなった。えっ、と小さく声を漏らす前に、レシートとお釣りが私の手に渡った。
「その男は幸せだろうよ」
店員さんはまた頬杖をついてそう言うものだから、つい相好が崩れてしまった。こんなに怖い人に言われたら本当にそんな気がする、なんて、一時のおまじないだけれど。
随分前に話題の一つとして聞いた、彼の誕生日はもう三ヶ月ほど前に終わっている。誕生日プレゼントにしては遅れすぎだし、この歳にしては高価すぎだな、なんて思いつつも、見かけによらずフレンドリーに手を振る兄ちゃんに手を振っては、軽い足取りで店を出た。たったの数分で、苦手な香りは鼻に馴染んでしまった。
⊗⊗⊗
受験を無事に終えた私たちは、最後の日に、最初の席で、いつもの授業中のように雑談を交わす。いつもと変わらないのに、皆の面持ちが違った。そんな私も、スカート丈は、いつもより少し長めの膝上十センチ、欠かさずつけていたピアスだって外した。色つきリップだけは、薄く塗った。
三年間私たちの社会を担当していた担任が、提案をするように手を挙げた。普段は流し聞きする生徒は皆、背筋を伸ばしてそちらを向いた。二年生のときとほとんど変わらない席の彼は、去年よりも背が高いように見えた。
「今日は怒らないから、携帯を持ってきてる人は一旦ここに入れるように」
こほん、と咳払いをしながら、目を瞑った先生。しかし、辺りはシンと静まり、誰も教卓の方へと動く気配はなかった。私はなんだかんだ普段は持ってきていなかったけれど、今日は記念写真諸々があるだろう、と鞄の中に潜ませているのだった。
先生が目を開けても、その簡易的な段ボールでできた箱の中身は空っぽだったらしく、薄く笑みを浮かべては溜息をついた。クラスメイトがくすくすと笑う中、左右田くんは窓の外をぼうっと眺めていて、それからアルバムと並んだ卒業文集をぱらぱら捲り始めた。私も軽く中身を見たけれど、私の興味を引くのはたったの二ページしかなかった。
卒業証書授与式は、呆気なく終わった。小学校の卒業式に比べるともちろん感極まっている人は多かったのだけれど、思ったよりも単調で、短いものだった。見どころとして、隣のクラスのお調子者がわざと変な返事をしたくらい。それは予定調和といえば、この上ない予定調和だと思う。あとは、左右田くんが思ったよりもはっきりと返事をして、その声が大人の男の人になりつつあるような気がした。今日という今日は、彼の後頭部に寝癖はついていなかった。
担任からのありがたい言葉を受け取り、記念撮影が終わったときにはわずかに開いた窓から太陽の光が射し込む時間になっていた。暖かくて、私たちの最後の日には相応しいといえる気候だった。
「苗字、まさかお前みたいな問題児が受かるなんてな」
「失礼ですよ、先生。どっからどう見ても優等生でしょ。私、すっっごい頑張ったし」
「わかってるよ。授業中に抜けるような奴が三年ではまともな指摘してきたりしてさ」
そう、私は無事に、中学二年生の冬に考えていた第一志望校への合格を果たした。もちろん一般入試だけれど、そのために少し高い塾に入れてもらって、勉強だってものすごく頑張った。これも、彼の存在のせいだった。授業中にいきなり抜け出したのも、もう一年以上前の話だ。懐かしくて、あの苦しさはもうとうの昔のようで、乾いた笑いが漏れた。
「最後くらい身だしなみはしっかりしろよ」
「やだ、ピアス外してるし。スカートも長めですよこれ。切ってるからこれ以上伸ばせないの。あと、私のアイデンティティだし」
「他の苗字の連れはちゃんとしてたのにな」
「えー、長いスカートいるなら事前に言っといてよ!」
「持ってると思ってたんだよ」
厳しいで有名の担任は、今日ばかりは少し柔らかな口調だった。進学校に入学する私にとってはきっとこれが最後の口論で、スカート丈だって最後の校則違反。進学してもできる限りのことはしようと思っているけれど。
「この学年は特に問題児が多かったが、その分愛着もあるからな。またいつでも遊びに来いよ」
先生が笑って、その笑顔が少し下手で私もつられて笑ってしまった。
クラスが離れたアマゾネスやゆっちとも写真を撮って、ついでにそんなに仲が良かったわけではないクラスメイトともツーショットを撮っては、連絡先を交換する。そういえば、親友だった二人の番号やメールアドレスは、ここにはない。隣にいるのが当たり前だと思ってしまっていたから。
そうこうしていると、いつもと変わらない丸まった背中が教室の外に出るのが見えた。感慨深さもないように、足早に。薄いスクールバッグの中には、手のひらに収まるサイズの箱と紙きれ。もしかしたら、と持ってきたこれを、彼のことを想ったこれを、結局渡さずに、彼とは話さないまま、私の長くて短い中学生活は終わってしまうのだろうか。
そんなの、嫌だ。
そう思ったときには足が勝手に外を向いていた。私は話していたクラスメイトに断りを入れ、後ですぐに戻ってくるから、と鳥籠のようにざわついている教室を出た。
「あ」
「うお」
きっともう帰ってしまったであろう左右田くんを追いかけようと足早に廊下に出たときだった。花束を持ったり、携帯で慣れない自撮りをしたりという生徒たちを流し見ていると、その中の一人が私の視線を奪った。目が合ってしまった。
二つ隣のクラスの、天宮。両サイドにいた、同じ部活だったのであろう男子は、私と彼を交互に見ては「お邪魔にならないようにあっち行ってるわ」なんてわざとらしい気の遣い方である。天宮が止めるも無駄で、彼はこの状況に腰に手を当てながら溜息をついた。
「……おう」
「……ん」
やはりあの一件から話していないからか、目を合わせるのすらもぎこちない。特に、彼の方は私以上に気にしているようだった。それも無理はない。彼にとっては、私に対しても左右田くんに対しても罪悪感でいっぱいなのだろうから。私と天宮の間には、物理的な距離が生まれていた。
離れにくくなったのか、彼はその場で壁にもたれ、目を合わせようとしない。私から離れるべきであろう、このたどたどしい空気感の中で先に口を開いたのは私だった。彼は、目をわかりやすく見開いた。
「卒業おめでとう」
「……お前もな。元気か」
「うん。そっちも元気そうじゃん。第二ボタンまでちゃっかり奪われてるし」
「……二年の女子だよ。ま、顔はいいからな」
「顔だけね」
一度話し出せば、案外続くものだった。不自然に留まっていない上から二つ目のボタンを指摘すれば、言いづらそうにした。そう言われてから顔をじっと見れば、確かに整ってはいるよね、なんて思って、けれど天宮は嫌そうに両手で私の目の前をガードした。
少し距離はできたけれど、それは思った以上に変わらないものだった。もし私と左右田くんとがゴタゴタしていなければ、元に戻っていたかもしれない、なんて淡い期待は結果論だ。きっとどの道、私たちは分かれていた。
少し懐かしいこの感じに微笑むと、天宮もどこか複雑そうな表情をして微笑んで、誰もいない私の隣を見てから、何か言いたげに、言葉を濁すように母音を発した。
「……和一も元気か」
「…………自分で聞きなよ」
ごくわずかに、語気を強めてしまった。それに目の前の彼は肩を小さく跳ねさせた。あからさまに視線を外した。いけない。責めるつもりはなかったのに、と「そうじゃなくて」と慌てて訂正をしてから、今度は私が言葉を濁すようにした。
「私もずっと話してないから」
左胸についた、造花のコサージュをいじくりながらそう言うと、天宮が小さく驚きの声を漏らした。私の方を見た。二年生のときや、三年生に上がるまではあれだけ一緒にいたのだから、当然そういう反応にもなるだろう。重い空気にはしたくなくて、愛想笑いのような無機質な笑いを零せば、天宮が視線をまた、外した。何もない、床の方を見るように。
「……俺のせいだな」
「あー……いや。私のせい」
もしかすると、どちらのせいでもないかもしれない。けれど、天宮のせいであり、私のせいであり、左右田くんのせいであるかもしれない。学年末試験の件については二人に非があるのは事実だけれど、問題はそれ自体よりその後だったのだ。特に誰が悪いだとか、そういうことは断言できるものではなかった。彼は、私の言葉が予想外だったらしいけれど、これ以上は踏み込んでくることがなかった。
お互いにこの場に居心地の悪さを覚え始めていただろう、辺りの騒がしさに不似合いすぎるこの空間は、異様だった。その中で、私のスカートのポケットに入ったものに触れた。罪悪感に苛まれて、こんな場所で留まっている場合じゃない。「あのさ」と口を開くと、天宮が視線だけを持ち上げた。
「今からさ、左右田くんのとこ行くんだ。最後くらいちゃんと話そうと思って」
それを口にすれば、心臓がバクバクと鳴る。喉元で音が聞こえる。本当に、私にできるのだろうか。あのとき左右田くんに手を伸ばせなかった、私に。
「アンタも行く?」
私にこんなことを言う権利があるのだろうか。足が産まれたての子鹿みたいに、ぷるぷると震えていた。天宮は驚いたような表情を見せてから、私の足元に目を向けて、さらに呆気にとられたような顔をした。それから、少しの考える隙すらも消したのは彼自身で、迷いなく口を開いた。
「いや……俺には無理だ。お前は強ぇな、本当に」
天宮は、眉を八の字にして、悲しそうに、悔しそうに、諦めるようにそう言った。私は強くなんてない。むしろ、今こうして後悔しているのは、弱いからだよ。そう言いたかったけれど、押し戻すように言葉を呑み込んだ。
それから、そうだ。あのときのことを謝らないまま、関係は一方的に終わってしまった。昇降口に向かって後退しながら、一年越しに、少し大人びたようで変わっていない天宮に声をかけた。
「あのときさ……勝手に連れ出して、変な噂まで立ててごめん」
「いつの話してんだよ。……俺も、悪かったな」
授業中に、私の勝手な感情の昂りで、しかも公開告白のようにしてしまった一年前の三月。あの後、私がしばらく戻らなかったのも相まって、私が天宮に振られただとかいう噂が一時的に流れた。彼にとって、その噂はどういうものだったのかはわからないけれど。
ふ、と笑った彼の表情は、あのときと同じようで、少し違った。曇りが少し晴れた。それから不器用に謝る彼に、つい声を出して笑ってしまって、軽快に、後ろ向きに軽く走りながら手を振った。
「いいよ、許さない!」
「なっ! ……はは、そうかよ」
彼がしたことも、あのときの対応も、絶対に許せないと思う。けれど、こうして前みたいに話してくれたのが嬉しかったのは本当だ。私たち三人が親友だった事実も、きっと本当だ。優しげに笑った天宮のその後は、昇降口へと一直線に走る私にはもう知る由もなかった。
⊗⊗⊗
春らしい気候と、少し霞んでいる風景が気持ちいい。きっとまだ家には着いていないはずだ、と必死に自転車を漕ぐ。ペダルを強く踏み込む。スクールバッグは教室に置いてきて、私はこの身一つで、コサージュを主張しながら自転車を漕ぐ。心臓が、喉が、頭の中にまで響くくらいにバクバクと鳴っていて、壊れそうだ。追い風が、私の背中を押した。
橋を渡って、少し行ったところだ。いつか雨宿りした店の看板が、なくなっていた。天宮と分かれていた道の少し手前で、一つの後ろ姿を見た。それはいつも通りにも、寂しそうにも見える。
「ねえっ、……」
声が震えた。少し枯れていた。まだ、少し怖い。何に怯えているのだろうか。小さな声は、彼にはもちろん届かなかった。怖がるな。これが、最後だから。
「ねえ、待って!」
私の声が、風に乗った。彼をほんの一瞬だけ、棒立ちにさせたような気がした。気がしたのは、すぐに歩き出したから。けれど、気のせいで終わらせないように、一度は止めた車輪を、また転がし始めた。先程よりもゆっくりと、彼に追いつくように。すると、彼の歩幅は狭いまま、足の動きが早くなった。駄目だ。このまま行かせてしまっては駄目だ。
「待って」
二度目の言葉に、彼はあくまで聞いていないふりを、気がつかないふりをした。不安が、後悔が、胃の底から上がってくるようだ。大丈夫だ。自分に言い聞かせて、ポケットの中に手を入れた。自転車をその場に留めて、彼よりも早く足を動かした。
「左右田くん」
久しぶりに本人に向けた彼の名前は、私の心臓の動きをさらに早めた。血が熱くなっているような気すらする。そして久しぶりに呼んだ彼の名前は、彼の足を止めた。後ろからでも、腕に力がこもっているのがわかる。やがて、左右田くんはこちらを向いた。ゆっくりと、ゆっくりと振り返って、息を切らす私を足先から頭にかけて、視線でなぞった。
ああ、久しぶりの左右田くんだ。毎日教室で見ていた彼と違う、私と向き合っているときの、左右田和一くんだ。つい息をするのを忘れてしまった。それが苦しさを助けて、げほげほと咳き込んでしまった。
それから、一歩ずつ着実に、彼の方へと近づいていく。春に染まる世界に、私の靴音が刻まれた。
「……これ」
「……え」
「貰って。いらなかったら、売ってもいいし。……捨てられるのは、ちょっと嫌だけど」
「……なんで」
「あと、手紙は……帰ってから読んで。読みたくないなら、それは捨ててもいい」
手を突き出せば、彼は度の強い眼鏡の奥で目を見開いて、けれど恐る恐る私の前に手を広げた。彼の、前に見たときより男らしくなった、硬い手のひらに小箱が置かれた。私が左右田くんのことを想って買った、少し高価なピアス。左右田くんなら、気に入ってくれるはずだ。レシートに文鎮代わりに小銭を置くように、小箱の下には折りたたまれた紙。最初のうちはかわいい便箋に書いていた手紙は、何度も書き直しているうちにストックがなくなり、結局はメモ帳になってしまった。簡単な文章なのに、書き上がる頃には空が明るくなっていた。
彼の胸元にはお揃いのコサージュがついていて、アイツとは違って上から二つ目の校章が刻まれたボタンだって健在だった。彼は、状況が呑み込めないというように手のひらをじっと見つめている。
「卒業おめでとう」
「……」
「高校、受かったよ」
「……良かったな」
中学二年生の、隣にいたときからは想像がつかないような、どこか警戒するような、困惑するような声色。薄い反応に続かない会話。それでも、高校が受かったことに対しては、声色が変わったような気がした。柔らかくなったような気がした。多くがあの頃と変わってしまったけれど、彼が私に反応を示してくれていることが嬉しかった。未だに胸の音は鳴り止まない。
会話が続かなくたって、成立しなくたっていい。私が彼の前に現れたのは、これ以上私が後悔しないため。私がすっきりしたいためで、きっと彼にとってはエゴでしかない。頭ではわかっているけれど、私の中に溜まっていたものが放出されるように、いつも以上に潤った唇が言葉を紡いでいく。
「……本当は、左右田くんと勉強したかった」
塾なんて入りたくなかった。塾だけに頼りたくなかった。左右田和一と、楽しく勉強がしたかった。左右田くんに、教えてもらいたかった。勉強の話をしたかった。
「左右田くんと、もっともっと話したかった」
「っ……」
卒業式では少しも流れなかった涙が、頬を伝った。視界がぼやけて、左右田くんの輪郭を捉えられない。今更こんなことを言っても、もう遅い。きっと、手遅れだった。あのとき、もっとかける言葉だってあったはずなのに。天宮だって、なんとかできたかもしれないのに。本当は、今日この日は三人で並んで卒業証書を持って、スリーショットを撮っていたかもしれないのに。もう、全部叶わない。親以外の他人に涙を見せるのは、初めてだった。
「左右田くんはそうじゃないかもしれないけど。私は、左右田くんと会えて嬉しかった。……今でも、嬉しいよ」
もしかしたら、彼にとって私はちっぽけな存在だったのかもしれない。彼にとっての私は、左右田和一をクラスメイトの一人だと思っているように見えたかもしれない。それでも私は、彼と過ごした日々も、約束も、何一つ忘れることはなかった。忘れられるわけがなかった。
不細工な泣き顔を隠すように俯いて、鼻をすすると、頭上から息が漏れるような音が聞こえたような気がした。つい、顔を上げた。背が高くなっていた。思っていた高さで、目が合わなかった。
「……はは、そうか」
彼は、笑っていた。その笑顔は、私が好きだった、かつて私の隣にいたときの笑顔とは遠く離れたものだったけれど、それでも彼が、久々に――一年ぶりに笑顔を見せてくれたのが嬉しかった。心臓がドキドキして、それは鳴り止まないどころか、次第に速くなっていく。
本当は、まだまだ話し足りない。けれど、今話せることはもうない。何を言っても、きっとこれ以上の関係にはなれない。だから、私は一歩、彼から離れた。
「……ありがとう、左右田くん」
前の関係に戻りたい。けれど、今の私たちには難しい。私たちは、若すぎた。いつまでも子供じゃいられない。次にもし会うときには、お互いにもっともっと大人になっていたい。こんなに想っているのは、私だけかもしれないけれど。
彼がぎゅっと小箱を持つ手に力を入れた。ああ、離れたくない。しかし、そうともいかない。私ばかりが余韻に浸っている暇もない。彼の鋭い目が、どこか優しげに見えた。最後に見た顔は、少し、あの頃に戻っているように見えた。私は、君にとって「めちゃくちゃカッケェ女」になれただろうか。
振り返らずに、自転車に跨って、元来た方向へと踵を返したときだった。幻聴だろうか、彼の声が聞こえて、また涙が溢れ出した。暖かな空気に芽や花や風の匂いが紛れ込んだ。春が、やってきた。