君は陽炎
高校生活は、漫画やドラマで語られたり、誰もが思い描くほどは楽しくなくて、ありきたりだった。背伸びして入ったけれど、学力は似たり寄ったりで、その中でも二割ほどが本当に学力の高い人。私も勉強は好きだけれど、休み時間や登下校の間まで単語帳を開いている様には驚かされた。
進学校だからか、校則が厳しすぎるわけではなかった。ピアスは、髪に隠れるようにして、小さな目立たないものを選んだ。スカートを少し折る程度なら許された。膝下のスカートは慣れないから、もちろん私は二回折った。膝上五センチは、私にとってはありえないほど長い。けれど、それは校内では少し浮いてしまう短さでもあった。
中学のときよりも、層の問題か年齢と共に成熟したおかげかで、落ち着いた人が多かった。けれど、それが反対に価値観のズレになった。色々な人間と出会える中学校の方が楽しかったのは、思い出を美化しすぎているからかもしれない。ただ、勉強ができる環境だけが楽しかった。
街路樹から何匹もの蝉の鳴き声が聞こえる。都会でも蝉はいるんだな、と耳障りな音に安心感すら覚えてしまう。中学のときは毎日聞いていたキジバトの声も、田舎限定なのだと思っていたから、電車を下りてからあの癖のある鳴き声が聞こえたときには、ひどく驚いたものだ。
「夏の限定のパフェ出たんだって。寄ってかない?」
「ごめん、もう模試二週間前でしょ? 勉強しなきゃいけないからまた終わってからじゃ駄目かな」
「私もこの後塾あるから今日は無理。夏休み入ってからにしない?」
「……おっけ!」
もう模試二週間前、なんて、まだ二週間前だ。そもそもまだ一年生だ。この間期末テストが終わったところなのに、なんて思いながらも、もちろん言葉は呑み込んだ。今私が食べたい新作の限定パフェだって、来月になればフレーバーが変わってしまう。決して避けられているわけではないし、皆良い子で仲良くしてくれるのだけれど、過ごしてきた環境が、価値観が、違っていた。
一人でパフェを食べに行くのも虚しいし、だからといってわざわざ遠方まで中学の同級生を呼ぶほどでもない。大人しく帰って、涼しいエアコンの風に当たりながら昼寝でもしよう。都会と田舎を繋ぐ、車よりも速く人も多い鉄道から、車と何らスピードが変わらない二両編成の電車に乗り換えて、ガタガタと揺られる。揺れが激しい。唐詩馬工業高校とは、本当に丁度正反対だ。彼は、電車では酔わないのだろうか。
空調の効きすぎた電車を下りれば、ぬるい風が肌を撫でた。電車を下りてから十秒までは、丁度いい温度。空や草木は、また、夏の色をしていた。
「ただいまー……」
駅から家は徒歩五分。マップ上ではそうなっているけれど、この暑さの中実際に歩けばその倍近くかかってしまった。家から駅が近いから、今年になって自転車は小屋に封印した。畑で赤い実が陽の光を浴びて光っている。
網戸になっている扉を開けながら、力ない声で家にいるであろうおばあちゃんかおじいちゃんに挨拶をした。薄い隔たりを越えるだけで、気温がマイナス十度になったような心地がした。その涼しさに目を細めながら、家の中に上がろうとすれば、玄関框のところに見覚えのある後ろ姿があり、驚いて喉がきゅっとなった。
「あ……おばさん」
「名前ちゃん! いつぶりかしら、随分大人っぽくなって!」
あちらが私に気づくより先に声をかければ、明るい顔でこちらを振り向いた。うちのおばあちゃんと話していたらしく、床にはお盆に乗った湯のみが二つ見えた。きっと中身は、冷蔵庫の中で冷えていたペットボトルの緑茶の一本だろう。
どうしておばさんがここに。それに、おばあちゃんと何の話を、と首を傾げると、二人を顔を見合わせて笑った。
「今日は名前ちゃんに会いに来たの。だってうちに来てくれなくなったんだもの」
「えっ! 私に……。自転車乗らなくなっちゃったので行けなくて。すみません」
「いいのいいの!」
顔を見に私に会いに来たのだろうか。おばさんと最後に会ったのはきっと、左右田くんの部屋にお邪魔したときだ。もし自転車でせめて駅まで行っているのなら、まだお世話になっていたかもしれない。左右田くんの家が私の通り道なら、もしかしたら離していたかもしれない。私が三年間乗り続けた自転車は、小屋の中で空気が抜けているだろう。
おばさんに謝りながらもローファーを脱ぐと、かなり蒸れていたようだ。靴下が足裏に張りついて気持ち悪い。おばあちゃんが私の分の湯のみも持ってきてくれて、緑色のそれには氷がぎゅっと詰まって浮いていた。氷の小片を口に入れると、火照った身体が冷めていくようだった。
「それより和一と会ってるかしら? 長い間名前ちゃんの名前を聞かなくてね。去年は受験勉強で大変そうだからって聞いてたんだけど」
久しぶりに――といっても、四ヶ月ぶりに耳にした名前に目を見開いた。氷の隙間からお茶を流し込もうと、上へ持ち上げていた手が止まった。おばさんがわざわざ来るくらいだから、左右田くんの話だとは思ったけれど。
確かに、薄々思ってはいた。あれだけ仲が良かった私の影は、左右田家の中でもきっと一年前からなくなっていた。それにおばさんもおじさんも違和感を覚えるのではないかと。どうやら話を聞く限り、それについては言及して、彼は「アイツは勉強してるから」で通したのだろう。それは、あながち間違いではなかった。
お茶を飲むふりをしながら、なんとか繕いながら返事をするか迷って、事実だけを述べることを選んだ。
「いや……卒業式が最後でした。会ったのも、話したのも」
「あらそう。……あのね、和一、随分派手になっちゃったのよ」
「派手に?」
派手、というと、左右田くんの作っているエンジンや機械のセンスが、だろうか。いまいち左右田くんと「派手」という言葉が結びつかなくて眉間に皺を寄せると、おばさんは口もとに手を添えて笑った。
「もう、すごいわよ。髪なんてどピンクにして、朝からセットして、ピアスまで開けちゃって。カラコンまで入れてるのよ」
チョコレートに手を伸ばしたまま、硬直した。その言葉のすべてが呑み込めなかった。左右田くんが、髪をピンクに? カラコン?
私の中での左右田和一は、真面目で地味で、髪を染める、それもピンクなんてとてもありえないものだ。まさか反抗期を拗らせてグレた? 固まった表情のまま、控えめに首を横に振る。
「……まったく想像つかないです」
「……でしょうねえ。高校入ってすぐのときは同じ中学の男の子と遊んでたんだけど、外見を変えてから最近はもう派手な子とばっかつるんじゃって。……ちゃんと家には帰ってくるんだけどね」
おばさんやおじさんは止めないのか、と口を開けていると、「グレてるわけじゃないのよ」と笑った。その通り、あの左右田くんがグレる度胸を持ち合わせているとは思えないし、周りに感化された? それとも、新しい環境下に置かれるから、イメチェンなのだろうか。ピアスは前々から開けたそうにはしていたし、私にはどういう意図や心境かはこれ以上推測できないけれど――
「それで、左右田くん……和一くんが楽しんでるなら、私も嬉しいです」
聞いている限りだと、左右田くんは元気にしているのだろう。その事実に安堵すれば、おばさんも軽く微笑んだ。
「でも一緒に遊ぶ子があまりにも派手だから心配になるのよね。あの子の性格上は大丈夫だと思うんだけど……」
「私もかなり派手でしたよ、中学のときとか左右田くんに言われてたもん」
「でも名前ちゃんはちゃんと和一を見てくれてたし、見た目は確かにちょっと派手だったけど、すっごくいい子だから」
髪は染めてなかったけれど、ピアスだとかスカート丈だとかメイクだとかで、中学生にしてはかなり派手な部類だっただろう。他に比べて荒れたうちの学年の中でも問題児扱いされていたくらいだし、左右田くんにとっても、その親にとっても関わりたくなかったタイプだろう。あはは、と自虐気味に笑えば、おばさんは優しく笑ってくれた。
左右田くんが派手な子と関わるようになったのは、左右田くんのその派手な見た目につられて、ということだろうか。だったら、彼はあの性格だし、カツアゲなんかをされていないか心配になった。自分でもわかるくらいに表情筋が強ばると、おばさんが柔らかく微笑んでから、手をパン! と叩いた
「あ、そうそう。それでね」
もちろんそれにつられないわけがなく、なんだろう、とおばさんの顔をじっと見つめていると、おばさんの宙に浮いていた手が膝の上に乗っかった。蝉の声が聞こえるのは、すぐそばの庭にある木からのはずなのに、随分と遠くで鳴いているような気がする。開いた襖の奥で、風鈴が涼しげな音を奏でた。太陽に照らされていた石が陰った。
「和一、希望ヶ峰学園への編入が決まったのよ」
久しぶりに会ったのに、数分で聞き馴染んでしまった声がそう告げた。
私立希望ヶ峰学園。それはこの国、もしかすると世界中でも知らない人はいない学園だった。「超高校級」と呼ばれる才能の持ち主だけが、全国で選ばれた高校生だけが入学できるという特別な学園。この時期になればその学校の噂は嫌でも耳にするけれど、才能のない私には無縁だと、私とは世界が違うと思っていた。まるで、他人事のように。
その学園に、左右田くんが入学する。その事実は信じられないようで、今までの功績を近くで見ていた私は信じざるをえなかった。左右田くんは「住む世界が違う」なんて言っていたけれど、確かにそうなのかもしれない。やはり彼は、私なんかよりずっとずっと慕われるべきだった。
「……希望ヶ峰学園って少し遠いし、全寮制になっちゃうでしょ? だから名前ちゃんにも言っておきたくて」
驚きのあまり、目を白黒させて、そのまま頭に何も流れ込んでこなくなった。どうやら「超高校級のメカニック」として入学するらしく、それは機械いじりが大好きな彼のことを鑑みても、嬉しくて誇らしいことに違いない。なのに、彼がどんどん遠くなっていく心地がして、心に穴が開きそうだ。本当に彼のことを特別視しているのは、私の方なのかもしれない。
「秋から編入なの。もう荷造りとかも始めなくちゃいけないし……良かったら、一度会っておかない? なんなら和一に会いに来るように言っておくけど……」
彼女の言葉に、一瞬だけ判断に迷った。全寮制になれば、あと三年は会えないだろう。成人式には会えるだろうか。もしかすると、そのまま希望ヶ峰学園周辺で就職をして会えないかもしれない。
けれど、それは数秒で完結した。
「……いや、会いません」
おばさんの顔が曇った。やっぱり、私たちに何かあったんじゃないか、と勘繰るような表情だ。湯のみの中の氷がじんわりと溶けていく。緑色が、薄くなっていく。
「もっと私が、左右田くんの隣に立っても恥ずかしくなくなったときに会います」
彼女が、目を丸くした。どちらにせよ、私たちが会うにはまだ早すぎる。今はまだ、向き合えない。私がもっともっと大人になって、きっと手が届かなくなる左右田くんの横にいられるようになったら。自信を持てるようになったら。元通りにはならないかもしれないけれど、前以上に向き合えるかもしれない。私たちは、同じ世界に住んでいて、同じ人間で、誰も知らない二人で過ごした時間だってあるんだから。
おばさんが小さくおかしそうに笑うと、「そのままでも充分、勿体ないくらいよ」と言ってから、私にお礼を言った。
気がつけば話し込んでいたのか、五時を知らせる音楽が外で聞こえた。日が長いおかげで夕方のようには思えないけれど、空気が変わりつつあった。夕暮れ前の風が、網戸から流れ込んでくる。結局帰ってから冷房には当たっていないのに、全身の汗は引いていた。
「あ、私夜からバイトなんでちょっと寝てきますね」
「まあ! バイトなんて偉いわね」
夜七時からのたった二時間のバイト。進学校だから、どうしてもという理由がなければアルバイトは禁止されているので、もちろん内緒で。学校ではお弁当だし、大した寄り道だって今はまだしていない。一日たった二時間のバイトだって、週四回も入れば、高校生にとっては大金になる。これも、私がしたいことをするため。通帳に印字された数字は、もうすぐ六桁になろうとしていた。おばさんにお礼を言うと、立ち上がって階段の方へと駆け足になる。
「これも将来のための一つなんで!」
これも、左右田くんの隣に立つためだ。もうすぐ彼との約束への第一歩は果たされようとしている。彼がもし、私といつかの夏の日に交わした約束を忘れていたとしても、あのノートをシュレッダーにかけてしまっていたとしても、私はずっとずっと、覚えているから。