神様がくれた日
世界が一変した。
当たり前のように、都会でも見えていた青空は、嘘みたいな血の色になっていた。空気すらも汚れて、未知の病気が流行り始めた。そんな状況に耐えられなくなって、武器を持ったり、殺人をする人間がいるのが当たり前の世界になった。死体が転がっていることすら、当たり前だった。言うなれば、「絶望」。たったそのひと言に尽きた。
一人暮らしを始めてから、まだ一年そこらと間もない。勉強をして、彼の隣に立つことを思い描いた私は、国公立大学までとはいかずとも、難関私立大学に現役合格することができた。新しい生活に、期待に胸を膨らませていたのに、世界が変わるのは早かった。もちろん経済も回らず、大学だって早くに休校の措置をとった。教職員や学生でも、きっと何人か犠牲が出ていたりするのだ。バイト先のカフェも、私が出勤ではない間に何やら潰れてしまい、この街に居場所がなくなった。
『――市にて被害が拡大しています。住民の皆さんは直ちに避難をするなど……』
テレビをつければ、どのチャンネルもニュースをしているのが当たり前になった。ついには、私の住んでいる市が取り上げられ始めたのを見て、スーツケースをクローゼットから出すまではものの数秒。考えている暇すらもなかった。最低限の着替えと、お金と、携帯電話だけ。
きっとまだ公共交通機関は動いているはずだ。こうなってしまった世界で命を落とすのは、時間の問題だ。少しでも安全なところに避難をしよう。それから、最期は私が生まれ育った地で過ごそう。テレビをつけたまま、爆音や銃声が鳴り響く外へと扉を開けた。
⊗⊗⊗
駅に行くまでも、新幹線に乗ってからも気は休まらなかった。いつ死ぬのかわからない状況には、適応できているようで少しも適応できない。地元を旅立ったときの景色を再び見ることができるようにと願いを込めながら、窓の外を眺める。しかし、どれほど景色に緑が増えようと、空の色や、高く上がる煙が変わることはなかった。乗客は、私を除けば三人程度しかいない。もしかすると、私はあの地の生き残りだったのかもしれない。遠出には定番のお菓子も、開封しないままビニール袋の中で揺られていた。
高校の最寄り駅から、私鉄に乗って地元へと帰る。当時一時間に一本しかなかった二両編成の電車は、六時間に一本へと減らされていた。いくら少子化したとしても、ありえない。何より、地獄の底のような空の色が、駅の外で高く上がる炎が、そう物語っていた。私の好きな、あの青空を見ることができる日は来るのだろうか。
運良く電車に乗れた私は、駅まで三駅。変わらないのは、内装と激しい揺れだけだった。もちろん、乗客は私一人だ。スクリーンに表示された、片道二八○円。田舎でも、私鉄だけは高めだな、なんて呑気に考えた。それでも、六時間でこれだけしか稼げないなんて、世界は一変した。田舎の方は安全だとか、まだ染まりきっていないだとか言っていたアナウンサーに、テレビ局に、クレームを入れたいくらいだ。
蝉の声は、もちろん聞こえない。電車を下りれば、駅だったそこは、駅ではなくなっていた。駅舎がない。元から無人駅だったから、当然人はいない。それよりも目を疑ったのは、広がっている光景だ。
小さなものから、鉄塔に届きそうな大きさのものまで、色々なロボットが動き回っている。そのロボットはやがて腕のようなものを振れば、いとも容易く建物が崩壊した。黒い煙が、赤黒い空へと立ち上っていく。こんな、まさか、こんな田舎まで。
スーツケースをその場に置いたまま、私は一直線に走った。慣れた通学路の景色は、とても見慣れないものだった。草木なんてない。この時期に咲いていた向日葵なんて、影すらない。夏独特の乾いた空気は、田舎特有の澄んだ空気は、これ以上なく濁っていた。息が詰まりそうなほど、汚染されている。
ロボットたちにどんな仕掛けがあるのかわからないし、慣れ親しんだ建物だってない。必死に、ロボットの視界に入らないように道を進んでは、徒歩五分のところにある、私の家へと向かった。お母さんもお父さんも、おばあちゃんもおじいちゃんも、無事ですように。ずっとずっとそう祈りながら、切れる息を殺しながら走った。
なのに、その願いは、神頼みは、すべて無駄なものになるのだ。
「……酷い」
そこにあったはずの私の家は、なかった。まるで震度七の地震があったように、この周辺だけ見事に屋根に家が押し潰されている。元よりこの辺りの家は、築年数から見ても古いものが多いけれど、劣化だとか、そういう問題じゃない。この状況を鑑みれば、原因なんか一目瞭然だった。
「お母さん……おばあちゃん……?」
別のところに避難してる? 仕事や畑仕事に行っている? 色々な可能性を考えても、この目の前の光景が、変わってしまった世界が、現実から目を背けるなと言ってくるようだ。思わず噎せ返りそうになって、口を押さえると、震えていた足から力が抜けて、その場に倒れ込んでしまった。もしかしたら、皆、この下に。だったら、助かっている可能性なんてほとんどないだろう。吐き気を催して、げほげほと咳き込むと、ウィン、と何かの音がした。私のすぐ後ろで、何か――
「いやあっ!!」
ドゴン! と大きな音が鳴って、電柱が倒れた。私の目の前には巨大ロボットがいた。きっと、この小さな町で大暴れしているロボットのうちの、一体だ。足がすくむ。鋼でできているロボットは、空を反射して赤く光っている。その目も、パトカーのランプのようにくるくると赤く光ると、私の姿を捉えたようだった。
逃げなきゃ、逃げなきゃ。一刻も早く、逃げないと。
いつ死ぬかわからないこの世界で、私はまだ生きていたい。無事かわからない、彼に会いたいから。そう思うと、私は一直線に迷いなく走り出した。私の背後で何かが倒れるような音がするも、見ている暇なんてなかった。まるでフィクションの映画のようなワンシーンは、フィクションじゃない。
未だに震える足を、必死に動かす。必死に走って、必死に逃げて、大きすぎる地響きのような足音が消えた頃には、『左右田自転車』の前へと立っていた。看板が、だらんと落ちている。私の家のように完全に潰れているなんてことはなく、半壊だった。割れたガラスが、靴の下でグシャリと音を立てた。
――もしかしたら、まだ、おばさんやおじさんがいるかもしれない。希望を胸に、割れたガラス戸に手を添えて、バリバリという音を立てながら開くと、見たくない光景が目に飛び込んだ。
「うっ……!」
綺麗に並んでいた自転車や壁にかかっていたホイールが、すべて地面で倒れている。まるで強盗にでも遭ったかのように、レジはカウンターから落ちている。何より、私がつい口を押さえたのは、床に広がる赤黒い液体だった。それは、二人の人間から溢れ出ており、それは紛れもなく、左右田和一の母と父だった。まだ時間が経っていないのだろうか、腹部からはドクドクと血が溢れており、しかし動く気配はない。開いたままの目と視線が合って、すぐに目を逸らした。他の建物や家に比べて被害は少ないけれど、明らかに、ロボットではなく人によって殺されたような傷。誰かが、意図的に? 私のいた街みたいに、こちらでも殺人が当たり前なの?
考えたくない、見たくもない。目を逸らしながら、安全なところに行こうなんて考える前に、私は玄関框を上がっては、扉の奥へと真っ直ぐ進んだ。
⊗⊗⊗
かつて、一度だけ来た場所だ。オイルと鉄の匂いが立ち込めている。外からは想像もつかないような、あの頃の光景と変わらない様は異様で、しかし私につかの間の安心感を覚えさせた。ただ、窓から射し込む光が赤いからか、照明がついていないからか、あの頃よりも暗い。
左右田くんが、色々な機械を改造していた場所。コーラの空のペットボトルが二本転がっていた。名前のわからないエンジンや、少し大きなロボットは、見たことがないから中学三年生のときか、それとも短い高校生活の間に作ったのだろうか。彼は、きっと今は想像もつかないほどの機械や乗り物を作っているのだろう。だって、成功を約束された希望ヶ峰学園の、希望の象徴なのだから。
すると、この部屋の一番奥。磨りガラスの手前に、大きな青いビニールシートを被った何かがあった。なんだろう、震える手で、それを捲ると――
「……これって」
震えが、止まらなくなった。心臓がバクバクして、指先が震える。足だってガクガクして、立っていられない。深呼吸をして落ち着こうと、この汚れきった世界で、すう、と息を吸ったときだった。
「誰だ」
「っ!」
背後から、低く、静かな声が聞こえた。背筋がピンと伸びた。半袖から覗く腕が、ゾワゾワと栗立つ感覚がした。それと同時に、心臓がうるさくなった。恐怖か、それとも期待か。ここにわざわざ来るなんてらきっと、一人しかいない。ゆっくり、ゆっくり、声のした方を振り返る。
「……あ?」
小さく困惑の声を漏らした男は、表情にも困惑を浮かべた。私の視界が少しぼやけた。
長い髪は、暗いおかげでよくわからないけれど、決して黒ではなかった。その髪はトサカヘアーのように派手で、耳のあたりには三つ編みがぶら下がっていた。眉は強気で、耳朶には鈍く何かが光っていた。手には、凶器のようで、違うものが握られていた。
「……左右田、くん?」
あの頃とは似つかないのに、私の口から不意に飛び出たのは、彼の名前だった。違うかもしれない、ただの殺人鬼かもしれない。けれど、少しよれた作業着が、半開きの唇の隙間から覗く鮫のような鋭い派が、蛇のような目つきが、間違いなく彼であることを物語っていた。答え合わせまでの時間は、一分といった会話の応酬には長い時間に感じた。胸がバクバクと鳴り響いて、目の前の彼の答えを待った。キン、と音が鳴って、目の前の彼がスパナを地に落としたのだとわかった。
「苗字、か?」
完全に変声期を終えた男らしい声。その声は、知らないようで知っていて、私の名前を、確かに呼んだ。
左右田くんが、私の目の前に生きている。
そう思うや否や、私は堪らず地面を蹴り上げていた。
「左右田くんっ!」
「うおっ!」
汗と、オイルと、強い鉄の匂いが飛び込んだ。ああ、これは、知っている。私は彼の胸元に迷わず飛び込んでいて、首には腕を回していた。左右田くんだ。左右田くんがいる。驚いたらしい彼は、私に押し倒されることはなく、あの頃よりも太く逞しくなった腕で私の背中に手を回した。心臓の音が伝わる。背中に感じる体温は、少し高い。
「帰って来てたんだ」
「お、おう……」
ぎゅう、と左右田くんに抱きついたまま力を込めると、もちろん困惑しているのだろう、左右田くんのゴツゴツした男らしい手がたどたどしい動きで私の背を撫ぜた。こんなに近い距離は、初めてだ。きっと久しぶりに再会した、それもほとんど仲違いしたまま分かれた二人の距離感ではないことは確かだろう。けれど、私にとっては、こんな環境でも彼と会えたことが奇跡のようで嬉しかった。
「……家族が心配で?」
「まあ、そんなとこだな」
ポンポンと背中を軽く叩かれたのが合図のように離れると、彼は眉を八の字にして笑った。前髪が上がっているせいもあって、私の知っている左右田くんとは結びつかないようだけれど、その表情は、紛れもなく左右田和一くんだった。
彼に促されるままに、框の部分に腰かけると、彼も隣に腰を下ろした。いつぶりの距離感だろう。少し良くなったガタイや、高くなった背は違うけれど、いつかの安心感だけはあった。
「酷い世界になっちゃったよね……私もさっき帰ってきたんだけど……家が、なくなってた」
先程の光景を思い出してつい手元を押さえると、左右田くんがぎこちない動きで私の背中を撫でた。あの頃より、男らしくなった気がする。
「そうか……」
辛かったよな、と言う彼の表情を横目で盗み見ると、私を励ますためなのか、笑顔を向けてくれていた。あまりにも曇りない笑顔だから、どこか不安も感じるけれど、彼だってきっと、同じように不安なはずだ。そう思うと、自然と勇気が湧いてくる。彼に倣うように、顔を上げては笑顔を向けた。
「でも左右田くんがいるから、安心する」
いつかのように、軽く彼の肩に体重をかけるようにすると、目を丸くして、驚いたような表情をした。この世界に、私の知っている人が――それも、左右田くんがいる。それだけで、さっきまでの地獄のような、絶望でまみれた世界が、嘘みたいだ。さらに目を細めると、彼は未だに少し間抜けな顔をしていた。
ほの暗いなかだけれど、この距離で見ればわかる。おばさんが言っていた通りだ。
「いや……噂には聞いてたけど、本当に左右田くんなんだ。髪もピンクだし、ピアスも……」
「オレらしくねーってか?」
「ううん、似合ってるよ」
ピンク色の髪は、想像していたよりも強いピンクで、触れてみれば少し硬い。スタイリング剤の硬さだろうか。よく見れば、目の色もそれとお揃いのようで、濃いピンク色のものなのだろう。光の加減か時折赤色のようにも見えて、イメチェンにしても張り切りすぎ、と笑ってしまった。それは思った以上に馴染んでいて、怖がりの彼が誰に開けてもらったのか、ピアスを親指で撫でると、彼は不貞腐れたようにした。
私が親友だった彼とはかけ離れているようで、どんな姿でも左右田くんだ。彼の体温と、ひんやりとした金属に触れる私の手に自身の手を添えては、やんわりと引き剥がした。
「……そんなこと言えるの、オメーだけだ」
その表情は、笑っているようにも、苦しそうにも見えた。しかし、彼の私への触れ方が、口調が、私を拒絶していないことが、嬉しかった。
「あのね……こんな状況だけど、左右田くんに言いたいことがたくさんあるんだ」
左右田くんに、聞いてほしいことがたくさんある。今だけ、外の世界の音は遮断されているようだ。彼の少し大人びた顔が、目がじっとこちらを向いていたので、ああ、彼も大人になった、なんて思いを募らせる。私たちがこのタイミングで出会ったのは、運命なのかもしれない。私にとっても、きっと彼にとっても、また向き合うには丁度良かった。
私は、もう過ぎ去りし思い出となった高校生活のことや、左右田くんのおかげで勉強を頑張ったこと。それで、そこそこ名のある大学に進学できたこと。それでも、希望ヶ峰学園出身の彼には遠く及ばないけれど。それでも、今の私があるのは全部、左右田くんのおかげで、左右田くんのためだった。
「はは、そうか」
下を向いて話していたから、彼の表情は窺えなかったけれど、私の話を黙って聞いてくれて、最後には私の肩を優しく叩いてくれた。本当に左右田くんなのだろうか、と疑ってしまいたくなるくらい、見た目も行動も異なっていた。
「うん。……本当に、会えて嬉しい。こうして話せて、嬉しい」
それでも、彼であることの片鱗が見える。同じ世界に、左右田くんがいる。
あのとき、手紙は読んでくれただろうか。何にしても、言うなら今しかなかった。あのときのことを謝ることができるのは、今だけだ。今日私が左右田くんと会えたのは、きっと運命で、神様が与えてくれたチャンスなのだから。肩に置かれた大きな手を両手で掴むと、ぎゅっと握りしめた。人肌が温かい。彼の方を向くと、彼もまた、私の方を向いた。視線が、絡み合う。
「中学のとき、余計なことしたり、……味方になりきれなくてごめん」
「……オレも、悪かったな」
彼もまた、空いた手で私の両手を包んだ。大きな手。両手がすっぽり、はまってしまうくらい。私たちは、またやり直せるかもしれない。大人になってしまった私たちは、むしろ今まで以上の親友にだってなれるかもしれない。この世界に見合わず、胸がじんわり温かくなって、血液が沸騰しそうなくらいにドキドキしていた。ドキドキしている。
すると、爆音。
この部屋の外で、ここに帰って来て一番の爆音が鳴り響いた。何かが倒壊したのか、それとも爆発したのか。小さく悲鳴を上げると、つい、また左右田くんの胸に顔を埋めた。彼の手がまた背に回る――かと思いきや、少し強い力で肩に手を置いては、引き剥がして、その場を立った。
「……左右田くん?」
どうしたのだろうか。私から離れる影を目で追うと、屈んでは、先程落ちたスパナを手に取ったらしい。それから、外が見えない磨りガラスの窓から、外の様子を窺うようにしていた。
――あれ? 左右田くんが、ここに来たってことは。どう足掻いても、私が入ってきたあの場所を通ることは避けられないと知っている。じゃあ左右田くんも、もしかして。
「ねえ、もしかして、おばさんたちの……見た?」
反応がない。窓の外を見つめたままだ。今でも外では閃光弾のような光や、機械や爆発音が続いていて、しきりに肩が震えてしまう。左右田くんも、受け入れたくないのだろう。私も、私が生まれ育った家が、家族が、町が、こんなことになっているだなんて考えたくもなかった。しかし、この世界に生き残っている以上、いずれは考えなければならなかった。
膝を抱えて、顔を埋める。私たちは、どうすればいいのだろう。安全を求めて、心配で帰ってきた私たちには、この事実は酷く重いものだった。動かない、左右田くんの背中をじっと見つめては、いたたまれなくて、床に視線を逸らした。
「誰がこんなことを……外では変なロボットが暴れてて迂闊に動けないし――」
そこまで口にして、何かが引っかかった。胸の奥で何かが絡まって、もやもやする。左右田くんの手に握られたスパナ。私と対峙したときの、とてもただの他人に向けられるものとは思えない、重くのしかかるような声。外で暴れ回るいくつもの機械。このもやもやはきっと気のせいだ。なのに、どうしても、次第に目の前の彼が私の知っている左右田和一ではないように見えてきてしまった。
言葉に詰まった私を振り返ると、一歩ずつ、また私に近づいてくる。その表情は、笑顔だった。この状況に似合わない、無理をしているわけでも、繕っているわけでもない、眩しいほどの笑顔。近づいてくるほど、視線は徐々に彼の身体に移り、彼の作業着には、黒いオイルのようなものが付着していた。
「……左右田、くん?」
もう一度彼を呼んだ私の声は、予想外にも震えていた。嫌な予感がして、鳥肌が止まらない。心臓が止まってしまいそうなほど、再会したとき以上に心拍数が上がっていく。血は沸騰せず、逆に血の巡りが悪くなっていくような感覚に、汚れた冷たい空気が肌を撫ぜた。
彼の口角がつり上がる。今まで見たこともないほどの満面の笑みで、しかしそれは、私の見たかった笑顔ではない。唇が震える。そんな私を知ってか知らずか、彼は目を細めて、ゆっくりと、薄い唇を開いた。ヤスリで削ったような鋭い歯が、顔を覗かせた。
「なあ、世界がこんなふうになったのって――オレや苗字の親を殺したのって、誰のせいだと思う?」
じりじりこちらに近づいてくるも、後ろの扉は閉まっているから、これ以上後ろに下がることはできない。本能が逃げろと言っているのに、目の前の男がそうはさせてくれなかった。ふつふつと皮膚が捲れ上がりそうだ。
誰のせいだと思う、なんて、こんな世界になった以上、興味がない。誰のせいだって、私にはどうにもできない。そんな無茶ぶりのクイズ、答えなんて誰もわからないはずだ。なのに、その答えが嫌でもわかってしまう。その正体が、嫌でもわかってしまう。受け入れたくない、どうして、と首を横に振るも、彼は着実に私に近づいてくる。青い作業着に付着したオイルは、よく見れば、赤黒いものだった。
目の前の彼は、これまでにないほど嬉しそうな表情で、興奮したように頬を少し紅潮させてから、耳を塞ごうとする私の手を掴んで、唇を寄せた。
「全部、オレだ」
耳元で囁かれたその言葉を理解しようとする前に、視界が反転した。