希望のない幸せな世界
気がつけば、フローリングになっている硬い床に押し倒されていた。勢いがあまりにも良かったものだから、頭に瘤ができないか、とか、脳震盪にならないか、なんて心配した。しかし、私の後頭部と床の間に挟まった、硬くも柔らかくもない感触――目の前の彼の腕が、クッションの役割をしてくれていた。
目の前には、左右田くんの身体。どうやら私に覆い被さっているようで、私の手はお腹のあたりでひと纏めにされていて、身を捩ってみてもビクともしない。こんなに、力が強かったなんて。左右田くんの表情は、初めて見るような、恍惚とした表情だった。背中に何かが走り抜けていったような感覚がした。
「そうそう、その顔だよ」
その顔って、どの顔? 確かめようにも、鏡もなければ、腕は拘束されていて触れられない。ただ、血の気が引いていくような感覚だけはあった。左右田くんが、私の家族を、自分の両親を殺した。どうしてそんなことを。
彼は、私の後頭部から腕を抜き取ると、私の頬を軽く撫でたので、予想外で、肩がビクンと跳ねた。こんな左右田くん、初めてだ。何をされるのだろう、とじっと彼を見つめていると、私の頬に触れていた手はやがて彼の作業着にあるたくさんのポケットのうちの一つを手探りで触れては、何かを取り出した。
何だろう、なんて思う暇は与えられなかった。考えるより先に、銀色の光が目の前を走った。頬にひんやりとした感触があり――プツリ。小さな音を立てると、同時に痛みが頬に降ってきた。
「……どうして」
生温かい液体が頬を伝い、首へ落ちていくのがわかった。左右田くんに私の言葉は届いていないのだろうか。変わらず愉悦に浸ったような表情をしながら、親指でつー、と傷口をなぞった。あまり深くは切れていないようだけれど、ピリッとしたわずかな痛みが走った。
「具体的に言えば、こんな世界にしたのはオレっつーか、希望ヶ峰学園で同じクラスだった奴らも含めてって感じだけど」
確かに、左右田くんただ一人が世界を変えたとすれば、規模が大きすぎて現実味がなさすぎる。そもそもこんな世界にしてしまったのが目の前にいる、中学時代の同級生だなんてこと自体現実味がないことだけれど、何でもありなこの状況に陥ってしまったのだから、受け入れざるを得なかった。
しかし、それにしたって、希望ヶ峰学園の――卒業すれば成功が約束される、「希望の象徴」と呼ばれる生徒の彼らが、どうして。
「どうして、こんなことするの?」
やっとのことで絞り出した声は、語気を強めたつもりだったのに、肝が据わっているような人間の声ではなく、この状況に怯えている、ただの人間の声だった。彼は、そんな私の様子に満足したのか、刃を押し当てる力を少し込めてから、にっと笑って、私の上から退いた。私にのしかかっていた重さが、一気になくなり、手首を締め付けていた苦しさもなくなった。
そのまま彼は立ち上がっては、数歩下がって、芝居じみた動作で両腕を広げた。右手に握られているそれからは、液体がぽた、ぽた、と滴り落ちている。コンクリートに、染みができていく。そのまま彼の唇は、三日月を描いた。
「そりゃあ、世界を絶望に染め上げたいからに決まってんだろ?」
さも当然のことのようにおかしいことを言う彼は、きっと、異常だ。
解放された上半身を起こすと、彼がまた、私に少しずつ近づいてくる。今日はきっと、人生で彼の笑顔を一番見ている日だろう。
「家族やダチが絶望する表情! オレにとっても最高に絶望的だ!」
一瞬だけ、良からぬ考えが頭に巡った。もしかしたら、私が知っている左右田くんは本当の左右田くんじゃなくて、こちらが本当の彼の人格なのではないか、と。彼の手が、私の後ろの扉に置かれると、先程とは違った意味で身動きが取れなくなった。彼の目は、まさしく「絶望」に染まっているようだった。こんな目は知らない。だからきっと、彼は「こう」なってしまったのだ。
彼の伸びた腕に軽く手を添えて、じっと、ピンクにも赤にも見える瞳を覗き込んだ。
「……左右田くんがこうなったのって……私の、せい?」
「いや? オメーは無関係だ。オレたちはな、希望ヶ峰学園である女に絶望の素晴らしさを教えられたんだ」
私や、天宮のせいで、人間不信を極めた結果だったらどうしよう。恐る恐る口にすれば、彼もじっと私の目を見つめてそう言った。彼の目は、絶望に塗り潰されたような色だ。ある女に、影響された。それは左右田くんが流されやすいから、とかではなく、「オレたち」という言葉がその女の影響力が強いということを物語っている。希望の象徴である、彼らが。
「もしかして、左右田くんがここに戻ってきたのって――」
「ああ、その通り。オレが生まれ育った地で、町も! 家族も! 何もかもめちゃくちゃにして最高の絶望を浴びるためだ」
彼は、周りの人間を絶望に陥れるために、自らが絶望に染まるためにこの町へと帰ってきた。彼の腕を握る手が自然と弱まると、彼のもう片方の手が私の顎を持ち上げた。それからまた、陶酔するように私を見ている。
「……まさか苗字が帰ってるなんて思わなかった! オメーが安心しきった後に、苗字名前を絶望のドン底に突き落とす。オメーが一瞬でも信じた男に殺される! なあ、これ以上絶望的なことがあるか?」
私の絶望した表情がもっと見たいと顔を覗き込んでくる。しかし、少し引っかかったところがあった。
彼は絶望を望んでいる。この町を壊せば、彼は絶望する。家族を殺しても、最高の絶望を得た。――私を殺しても、絶望を得る?
「……左右田くんは」
「……あ?」
今はもう、唇は震えていない。はっきりとした声で彼の名前を呼ぶと、うっとりとしたような彼の表情が、一変した。いつか見たような間抜け面、なんていえば失礼だろうか。
「私をその手で殺したら、絶望するの?」
彼に向けた純粋で単純な疑問は、思った以上に透き通った声で発せられて、彼はぽかんと口を開けていたかと思えば、また口角を上げた。そのまま壁を伝うように彼の腕が落ちると、また、血塗れたポケットから鈍く光るナイフを取り出した。私の血液だけが付いていて、まだ、綺麗だった。今度は首にそれが当てられると、身動きが取れなくなった。呑気にも、彼にはナイフよりドライバーの方が似合う、なんて思った。
「そりゃそうだろ。これ以上ないほどの絶望だ」
左右田くんは、私を殺せば絶望する。それも、「これ以上ないほど」。すると、不思議だ。この怖くて怖くて仕方ないはずの状況で、力が抜けて、後ろに倒れそうになったのを、壁から離された彼の逞しくなった腕が支えてくれた。
「……そっか、ふふ」
それに加えて、笑みが零れてしまうものだから、目の前の彼は顔を歪めた。私はもしかすると、彼の目にはこの絶望的状況の中でも愉快で、不気味な女に映っているだろうか。それか、救いようがないほど絶望に陥ったとでも思われているだろうか。
だって、こうなってしまうのも仕方ない。彼の言葉が、私を笑顔にしてくれた。
彼がこの町や家族を壊して絶望するのは――そもそも人間が絶望するのは、大切なものや信じていたものが失われるときだ。だったら、彼にとっては彼の故郷も家族も大切で、それ以上に私を殺してさらなる絶望を手に入れられるということは。
「……何笑ってやがんだ」
気の抜けた笑い声を零す私を見て、左右田くんは眉をひそめた。それでも私は、この状況が嬉しくて嬉しくて仕方がない。
「今からオメーは目の前の、一瞬でも気を許した男に殺されるっていうのによ」
フローリングに乱れた髪が広がる。また、彼に押し倒されていた。足だけが土間の方に垂れ下がった状態で、首筋にぬるい感触が落ちた。頬から流れた血か、新たにできた傷か。少し痛いけれど、それすらも目の前の彼を絶望に染められるなんて考えれば、ああ、確かに彼の言う通り、絶望は素晴らしいものなのかもしれない。
流れる血液を見て、また嬉しそうに小さく身震いをした彼に笑いかければ、呆気にとられたような表情。「一瞬」じゃない。私は左右田和一に、初めて話したあの日から、「一生」気を許しているからこそ、この状況に心が躍っている。
では、彼が世界を絶望に染め上げたいのなら、何を重視するのか。大切で、必要な前提だ。他人を絶望させることか、自分が絶望することか。
「左右田くんにとっては、私が絶望するのと、君が絶望するの。どっちがいい?」
「そりゃどっちもだろ? 何を変なことを聞いてやがんだ」
彼の少し熱い吐息が首筋にかかって、ぞわりと全身の毛が逆立つようだった。彼の体重がぐっと私にかかった。少し苦しい。しかし、彼から聞こえた答えは残念だった。だって――
「だったら、私は君の願いを聞けない」
私は君を完全に絶望させることができないから。急に何を言い出すのだと、彼の目が丸くなる。その表情から、ほんの少しだけ、中学生のときの左右田くんがフラッシュバックした。
私の首にナイフを当て続けるも、困惑しているのか、押し当てる力が弱まった彼の男らしい手の甲を上から握った。人肌が、温かい。
「私は、左右田くんがいる限り、絶望なんてしないもん」
「……は?」
彼の表情がまた歪んだ。先程まで絶望していた奴の言い分とは思えないだろう、間抜けな顔。けれど、紛れもない本心だ。私が絶望する方法は、きっと一つだけ。ああ、かわいい顔をぐちゃぐちゃにされるんだったら、ほんの少し絶望的だけれど。
きっとこの状況を呑み込めないであろう――何故だか私の方が優位に立ってしまっていることの意味がわからないだろう、彼の腕をなぞって、三つ編みを揺らした。意外、綺麗に結べてる。そのまま彼の頬を撫でて、耳の縁に指を沿わせた。少し濁っているような、見覚えのある金属が、絶望に染まった世界を反射する。
「ピアス、つけてくれてるんだ」
「……ああ」
「左右田くんなら、つけてくれると思ってた。……やっぱり嘘。捨てられたらどうしようって思ってたよ」
「……捨てないでっつったのは、オメーだろ」
「はは、そうだった」
指先で弄ぶように、私の体温で少し温かくなったピアスをくるくるとなぞった。小さな凹凸がある。間違い探し。左右非対称の、プラスとマイナス。彼がこんな姿になってつけている様は想像していなかったけれど、どんな姿でもやっぱり私の目に狂いはなかった。どんな左右田くんも、左右田くんだ。
押し倒されて、目前に広がるのは左右田くんだけだったけれど、私の行動によるのか、随分私を押さえつける力が弱まっていた彼の腕を退かすと、少しだけ私も起き上がった。支えを失ったせいで、腹筋が少しだけ辛いけれど、彼の肩から赤く光る磨りガラスの見える――向こう側を覗いた。
「私ね、バイクの免許取ったんだよ。……左右田くんは忘れてるかもって思ったけど」
高校二年生の春に取れたバイクの免許。申請がいる学校にはもちろん内緒で、彼と肩を並べて交わした約束を果たすためだった。彼の肩口から、少しずり落ちた、私がこの手でずらした青くて大きなビニールシートが見える。
「……覚えててくれたんだ」
私が数十分前にこの空間に来て見てしまったそれは――間違いなく、私のためのバイクだった。かつてノートに描かれていたものと合致していた。正確には、センスが少し変わったのか、細かな点は違っていたと思う。けれど、あれは私のために作られたものに違いない。七○○キロ、出るのかな。もしも世界が平和だったら、一度くらい乗ってみたかった。そちらに目を向けると、涙が溢れ出しそうだ。あんなことがあったのに、彼は、私のことを考えてくれていた。絶望に染まる前から、きっと。
「……左右田くんがこんなふうになって再会するなんて、予想外だったけど。もし、その絶望が今の君にとっての生きがいなら、私は応援するよ」
少しだけ上体を起こした状態で、また彼の頬に手を滑らせた。距離が近い。彼の息遣いを直に感じて、頬が緩む。対照的に、彼は口を半開きにして、鋭い歯を覗かせている。生きているこの瞬間が楽しければ良いのだから、彼が絶望することが今の彼の娯楽なのだとしたら、彼が楽しんでいるのなら、私だってそれが一番嬉しい。
「……何、言ってやがんだ?」
目を細めた私を見た彼の声は、わずかに上擦っていた。絶望を望む彼の顔は、先程よりも、今が一番絶望に近いようだ。それでも私は頬がぐっと上に上がって、それは痙攣してもいなかった。ただ、ぶら下がった足がかすかに揺れてしまっているようだ。
「私が絶望することはできない。……さっき以上の絶望した顔を見せることは、きっとできない」
だって、私は彼の生きがいを、見つけてしまったから。彼の目的を知ってしまったから。彼が私に抱いている思いを、知ってしまったから。
腕まくりをして露出されている、血管が少しだけ浮き出た彼の腕を掴むと、やっぱり、一周はできない。そのまま私が後ろに倒れる巻き添えにするように、ぐっと引っ張れば、彼の匂いが強くなった。彼の息遣いが耳元に届いた。横に視線をずらせば、爬虫類のような鋭い目を見開いた彼と、視線が被さった。どこか、血の気が引いているようだ。私の続きの言葉を求めているような彼に応えるように、ゆっくり、口を開いた。乾いた血が、頬のあたりで固まって少し動かしづらい。
「でも、左右田くんがこれ以上ないほど絶望することはできる。……ね?」
そのまま、彼の手に握られた刃の先端を、彼の手ごと服の上から腹に突き立てた。ハッとした様子で起き上がり、私を覆うように空いている腕を私の横についた。
もし彼に守られようと、見捨てられようと、絶望に染まっていない私は遅かれ早かれ死んでしまう。それに、帰る場所だってない。だったら、大好きな親友の望みを叶えることが、言うまでもなく、幸せなことだろう。彼の手首に力を込めて、そのままそれを下に沈めれば、ビリ、と布が破れる音。彼は咄嗟に、その手を引いた。しかし、そうはさせまいと力を強めた。
「苗字、何を……」
「私、一度も左右田くんの親友じゃなかった瞬間なんてないんだ」
「おい」
「ずっと、左右田くんのことばっかり考えてた」
中学二年生のあの日から、私は君が誰よりも大切だった。天宮なんかに負けないくらい、左右田和一くんが大好きだった。今も、大好きで、一番大切な親友だ。私の人生で、私の人格を構成するにおいて、左右田和一は必要不可欠な人間だった。薄く微笑む私と反対に、彼の表情に焦りが見える。彼は今、少しでもこの状況に絶望しているだろうか。私の、大好きな左右田くん。
「その左右田くんの願いを私が叶えられるなんて、本望だと思わない?」
君は私を殺して最高の思いをするだろう。私だって、大好きな君に殺されるなんて、この上ない幸せだ。彼の首に腕を回せば、彼は私に引き寄せられるように目を閉じて、私の肩口に顔を埋めた。お互いの心音が、ドクンドクンと少し速いペースで響き合う。はあ、と溜息が耳にダイレクトに届くと、彼の腕が私の頭をぽん、と叩いた。
「はは……オメーはいつだって……めちゃくちゃカッケェな」
耳元で囁かれたその言葉で、胸がじんわりと熱くなり、やがて温かな、血よりも心地よい液体が頬を伝った。私は君にとって、どの瞬間も、そういう存在でいられたのかな。それに気がついた左右田くんが、また身体を起こすと、先程のように親指で液体をなぞる。固まってしまった血と混ざって、なんともいえない感触が頬にあった。
ゆっくりと、ぼやける視界が像を結んで、そこに見えた彼の表情は――絶望なんかじゃない、地味で、パッとしなくて、なのに明るくて面白くて、私が慕っている、左右田和一くんの表情だった。
皮膚まで到達していないナイフは、零れ落ちないように彼の手のひらに支えられた。まだ、痛くない。遠くて近い彼に、今までで一番の親友である彼のために、両腕を伸ばしては、すべてを受け入れるように広げた。
「……左右田和一くん。最上級の絶望を、私があげる」
最上級、だなんて買い被りすぎだろうか。ううん、彼がそう言ったのだから。それに、私は彼に、彼史上最大の絶望を与える存在になりたい。
微笑みかければ、先程よりも、頬がひくついて痙攣しているようだった。怖気づいてしまったのか、それとも、期待しているのか。彼も同じように微笑んだけれど、彼の瞳は、ほんの少し濡れているようにも見えた。男の人になってしまった手が、ナイフの柄に力を込めて、冷たい先端が薄い皮膚に当たる。背中から耳の裏にかけて、何かが駆け抜けていった。
「私……本当はもっともっと、左右田くんと一緒にいたかった」
それが私の皮膚を貫く寸前。つい、本心も零れてしまって、彼は数秒だけ小さく驚いたような表情を見せた後、眉を八の字にして笑った。
もっと一緒に過ごしたかったのも、彼に殺されたいのも、どちらも私の本心には違いない。もし、仲違いしないまま高校生になっていれば、私は彼のことをもっともっと知れたのだろうか。もし彼が夢を抱いていたならば、それを誰よりも近くで応援することができたのだろうか。こんな世界になってしまっても、私と、左右田くんと、もしかするともう一人。私たち三人は、肩を並べて終末を迎えていたのだろうか。「もし」なんて存在しない可能性を考えては、また熱を持った雫が流れ落ち、木でできた床を湿らせた。
左右田くんは、もう一度私の頬を撫ぜてから、ふ、と微笑んだ。これから私を殺すなんて思えないくらい、絶望に染まっているなんて思えないくらい、酷く優しい表情だ。
「オレもだよ」
柔らかな声色でそう言うと、間もなく、ゆっくりと刃の先端が皮膚を破り始めた。鋭い痛みが走って、毛穴からは汗が噴き出してくる。はあ、と小さく息を零せば、生ぬるい液体が、布に染み込んだ。
「……オメーみてぇな女、他に知らねぇ」
彼の鋭い目からは、涙が一筋流れ始める。私たち、お揃いだね、なんて、そんなことを考えている場合ではないのに。もし第三者がいれば、この光景は異様でしかないだろう。しかし、絶望に染まったこの世界で、二人きりの空間に置かれた私たちは、この上ない幸福を掴もうとしているのだ。
宙に浮かんで、行き場のなかった手が、彼の左手に絡め取られた。温かくて、安心する。つい、目を細めてしまうくらいだ。彼の少し震えた唇が、弧を描きながら、ゆっくりと開かれた。
「最高の親友だ、苗字」
また、涙が溢れた。一番彼の口から聞きたかった言葉を、最期に聞けるなんて。私は、なんて幸せ者なのだろう。彼の望みと違って、私は死ぬことに希望を抱いてしまっているけれど、今の私が絶望するだなんて、とても無理な話だと思った。
外では機械の音が聞こえる。きっと、間違いなく彼が造ったものだ。建物や何かが壊れる音が聞こえる。もう青空を見ることはできない。この世の終わりのようなこの世界で、私は、希望を持って死んでいく。左右田くんは、もうすぐ話せなくなるであろう私を労わるように優しい視線を向けてくれて、そのまま、ナイフの柄を押し込むように手のひらをに体重をかける。
「だからこそ――」
ああ、私は幸せだ。今から迎える希望に、すっと瞼が下りていく。痛みがじんわりと広がって、私は――
刃が臓器に到達しようとするその瞬間、爆音が鳴り響いた。力の抜けた瞼をハッと上げると、目の前には真っ赤な空が広がっていて、機械のような音がする。静かだった世界に、二人きりの世界に、雑音が増えた。大きな影が落ちてくる。
彼の顔は、彼が見せる表情は、私が今まで見てきたどの表情よりも絶望に染まっていて――
はっきりとしない視界いっぱいに広がっていたのは、「絶望」だった。