黄昏前に交わった
数学は嫌いだ。
正確な答えを導き出そうとする、過程までは共感しよう。けれど、答えを導くまでにどうしてこんなにも面倒くさい過程を挟まなければならないのか。ついこの間までやっていた、連立方程式は理解ができた。テストも平均よりは上だったし。ただ、前々回から始まった一次関数に関しては謎が深まるばかりである。悩みに悩んでいると、手元でシャー芯の折れる音がした。その下には、不器用な曲線があり、消しカスが舞っている。
去年の比例だとか反比例だとかですらギリギリだったのに、それが一次関数にパワーアップし、さらにはこれが文章問題になった瞬間に私は考えることを放棄した。どうやら私は、根っからの文系脳らしかった。
「じゃあ二番の問題を……苗字いけるか?」
「……いけませーん」
酷い。俯いて眉をひそめて、さらには唸り出しそうな私をわざわざ指名した先生に無理無理、と頭を振ると、先生はひと言放ってから別の人を指名した。
「わからないなら後で先生に持ってくるか隣の席に聞くこと」
「隣……」
窓際の後ろの方、なんて当たりの席に決まっている。なのに、目につきやすいであろう一番前の列よりも、後ろの私を当ててくるのだ。一番前の廊下側の男子なんて爆睡しているというのに、一生懸命問題に向き合っている私を指名してくるなんて。もう、と思いながら、黒板に書かれるグラフをぼうっと眺めて、それから、右隣をちらりと見ると、私の視線を感じたのか、彼は少し肩を跳ねさせた。
左右田和一くん。同じクラスになったのは、今年が初めてだった。第一印象は、パッとしない。眼鏡に、どこか気の弱そうな彼は、陰キャに分類されるであろう雰囲気を醸し出していた。小さな中学校ではあるといえ、私は今年になるまで彼の存在を認識すらしていなかったほどである。今年認識できたのは、その珍しい苗字のおかげだろう。
しかし、先生がそんな左右田くんに教えてもらうように言ったのは、きっと適当だとかではなく、彼の成績がトップレベルだということを考えて、だと思う。見た目通り、優秀な生徒らしい。前にちらっと見えたテストは、九十八点。小テストだって満点。どこかおどおどしながらも、授業中に当てられたときに間違っているところも見たことがないし。
「……」
「……」
先生の解説と、真面目な学級委員くんの質問が飛び交う中、決して静かではないにもかかわらず、私は彼に声をかけることはしなかった。彼も、私からの視線に気がつかないふりをして、ノートにさらさらとシャーペンを走らせる。しかし、指示された練習問題は解き終わっているようだった。彼は、何を書いているんだろう。もちろん聞くことも、覗き込むようなこともせずに、ただひたすらチャイムがお昼を告げてくれるのを待つように、時計の長針と睨めっこするだけだった。
⊗⊗⊗
部活も停止期間に入った。そう、一学期末試験まで残り一週間になったということ。文系教科は大きな課題が出ないうえ、授業さえ聞いていれば理解はできるような単元だったから良かったものの、数学のワークを開けば私が入れた赤色で溢れていた。答えを見てわかった気になって、でも新しい問題に入るとできなくて、もしかすると赤点になってしまうかも、と冷や汗をかきながらも数字と向き合っているところだ。
「名前まだ数学終わってないのー?」
「わかんないんだって」
「ぱぱっと写しちゃいなよ」
「やだせめて平均点は欲しいもん」
「変なとこ真面目だよねえ」
放課後になり、まもなくテストのための自習クラスと化す二年二組の教室に取り残されたまま、解説と問題を見比べる。本来なら帰っていたであろうに、六限目が数学であり、先生のご厚意で課題をやってもいい日! だったのに、そのままずるずると課題をやり、ホームルームが終わったことにも気がつかずに、今の状態になったというわけだ。
基礎が理解できないのか? 引き出しから綺麗すぎる教科書を取り出すと、それを見ていた友人二人が顔を見合せては鞄を背負い直した。
「じゃ、頑張ってね。私ら先帰ってるから」
「帰り気をつけなよ〜」
「うん、お疲れ」
彼女たちには目を止めず、顔を顰めて、口を変に動かして、ああ、全然わからん。基礎はギリギリ解けるのに、文章問題になった瞬間の転がり方が異常だ。もにもに、口を動かしていると、右隣から何やら視線を感じたので、垂れ落ちた横髪を通してそちらを見ると、レンズ越しの鋭い目とかち合った。
「あっ」
「あ」
「……」
「……ねえ、左右田くん」
「……へっ」
左右田くんはすぐに逸らしたけれど、また合わせて、私が呼びかければ驚いたように視線を泳がせてから、また肩をびくっと跳ねさせた。そんなに怯えなくても、取って食ったりしないのに。左右田くんは、キョロキョロしてから、自身を指さして首を小さく傾げたので、「そう、左右田くん」と頷いた。
「えっと、何?」
「あー、もしかしてもう帰ろうとしてた?」
彼は学校指定のスクールバッグに教科書やらを入れているところで、箱のようなものが見えた。彼はいつも放課後になると早足で、一番と言わずとも二番、三番を争うくらい早く教室を出るのに、今日はこの教室にはあと五人、なところまで粘っていたらしい。部活がないからか、偶然か、それとも勉強をしようとしていたのか、まあ、答え合わせはいずれでいい。
「いや……まあ、大丈夫だけど」
「そっか。……あのさ、数学教えてくれない?」
「え」
顔の前で手を合わせて、神頼みでもするように左右田様に頭を下げる。もっと早く、先月の時点で聞いておけば良かったものの、自分の中に眠るわずかな理系頭を過信しすぎたようだった。
「ね、お願い。ほんっと今回ピンチでさ……しかも先生、三年とか高校生になったらもっとグラフがぐにゃぐにゃしてくるとか脅してくるしもう全然わかんないの、あと技術も得意だよね? 技術のテスト範囲の斜視図もさっぱりだし、……時間さえ大丈夫なら教えてほしいな〜……なんて」
「……くっ」
「えっ」
笑った? いま、笑った? 小さく息を漏らしたような音が、彼が笑ったのだと教えてくれた。それも、今度は驚きではなく小刻みに肩を震わせては、ハッとしてからこちらを見た。
「あ、いや、ごめん。その、あまりにも必死だったから」
「いや……そりゃ必死になるっていうか」
確かに、あまり関わりのない、なんならペアワーク以外で初めて話すにしては、ぐいぐいいきすぎたというか。クラスの男子は結構ぐいぐいにも屈しない人が多いから、左右田くんタイプへの接し方なんてわからずにこうなっている現状に、自分を省みては自然と顔が熱くなった。
「ごめんね、ごめん! 先生に聞いてくるし――」
「何も言ってねぇだろ。いいよ、どこがわからない?」
えっ。そう驚きが声から漏れ出る前に、床に金属が擦れるような音がした。どこか耳障りなそれは、私をさらに驚かせるには十分で、次の瞬間には隣の彼との距離が近くなっていて、私のワークを覗き込むように顔を寄せた。彼と同じように私も再度手元に視線を落とせば、赤、赤、赤。つい反射的にワークを閉じると、左右田くんはレンズと少し伸びた前髪越しに私を見て、気まずそうに表紙に視線を戻した。
「……ま、間違いすぎて引いた?」
「……いや。ちゃんと考えて答え丸写ししないとこは偉いと思うぜ」
「そっか。……そっか」
左右田くんが、私を褒めた。今日がほとんどファーストコンタクトで、初対面に等しいだろうに。つい嬉しくて口もとが緩んでしまうのと、それから。
「……左右田くんって結構砕けた話し方するんだね」
「あっ……引いた?」
「ううん、そっちの方がいいと思う」
思ったよりも挙動不審じゃないし、話し方だってどこか乱暴な、中学生男子らしさを感じた。彼の素は、どっちだろう。ぼーっと考えていると、彼はスクールバッグから自身のであろうノートを取り出した。どこにでも売ってる、市販のB罫のノート。彼は理解しているのであろう、ノートには無駄なことは書いていなかった。なのに、私の、ただ板書をとるだけのノートと違って、数学の先生の板書の癖を抜いてわかりやすくまとめてあった。頭が良くても、字が綺麗なわけではないんだなあ。
「……多分苗字、さんはここまでは理解できてると思うんだけど」
「苗字でいいよ。うん、そうだと思う。…………嘘、今見たので私の理解できてるとこまでわかったの?」
「あそこで躓くパターンって多いかなって思ってたんだよ。やっぱそうなんだ」
私のことを苗字さん、なんて呼ぶ人は先生と一部だけだと思う。左右田くんもその一部に属するのかと思ったけれど、取って付けたような「さん」が、どうやら左右田くんの脳内では私は「苗字」であるらしいことを示した。左右田くんが私のものより折り目やら書き込みが多い教科書を取り出すと、私の机に置いた。
「とりあえずこれ。この問題を上の例題に倣って解いてみて」
「はーい……あ、机くっつけようか」
「……おう」
左右田くんに一方的に寄ってもらうのは悪いし、と勢いよく机をくっつけた。左右田先生との一対一の数学講座が始まる。クラスにぽつぽつと残っていた生徒たちは、私がうるさいからか、帰ったり、図書室や隣のクラスに移動したりとしているようだった。注意してくれれば良いのに、と思いつつ、心の中で謝った。
左右田くんの、中学生らしくも男の子らしい手が、ノートに沿って動いているのを数秒眺めてから、私も問題に取りかかった。
⊗⊗⊗
日が長くなってきたので、午後六時の完全下校の音楽が流れるまで、その時間になってしまったことに気がつかなかった。加えて、左右田くんは教えるのはそう上手くないらしいけれど、それでも左右田くんなりに頑張って私にも理解できるように解説してくれたので、いつにも増して有意義な時間だったと思う。
勉強を始めた頃より、少し涼しい。張り付いていたブラウスは、ほとんど乾いていた。まあ、汗臭いのは変わりないだろうけれど。完全下校を過ぎてしまえば部活が停止になるので、急いで自転車に跨って校門までの道を滑っていくと、振り返った先にいた左右田くんは呑気に歩いているようだった。
「左右田くん、停部になるよ!」
校門から出た先で、学年主任の先生に珍しい組み合わせ、とでも言いたげに目を丸くされながら、バッグのストラップを掴んで歩く左右田くんに大声で呼びかけると、キョロキョロと周りを確認してから、やや小走りで校門を抜ける。
「いや、オレはほとんど帰宅部みたいなモンだしいいんだよ」
「そっかあ」
「一応入ってはいるけど活動してないからさ」
「幽霊?」
「ではない」
だったら声をかけたのはまずかったなあ、と謝ると、周りで先生たちがクスクス笑った。先生たちに愛想笑いを贈ると、左右田くんに二つに分かれたどちらの道が帰路なのか、指を交互にさして確認すると、彼は私の見慣れた道を指さした。
自転車から降りて、左右田くんの横に並ぶように、ゆっくりと歩く。夕日が住宅街を照らしている。
「今日はありがと。二時間前より確実に成長したよ」
「教えるの下手でごめん」
「まさか。ていうかそろそろうちもエアコンつけてくれたら良いのにね。エアコンなしの夏場はしんどいんだって」
「あとはトイレの改修工事な」
「あは、間違いない」
技術までは手が回らなかったけれど、一次関数の基礎に関してはもう八割がた完璧だろう。あとは、今週中にまた左右田くんに応用問題の方を教えてもらって、技術こそ赤点をとらなければ問題ないので、そちらの方は本当に余裕があれば、といった程度である。
次第に勉強の話から、学校の設備に関しての愚痴の話で盛り上がっていると、ある川を横切ったところで、そういえば私の足は自然と家に向かっているけれど、彼の家はどこだろう、と向き直した。
「家近いの?」
「文具屋わかる? あれの近く」
「え、うちより全然遠いじゃん。なのに徒歩なんだ」
文具屋は朝から開いているから、テスト前なんかで緊急に鉛筆がないときなんかに使わせていただいているけれど、私の家からは学校と逆方向だ。それにそう考えると、左右田くんはギリギリ私の小学校の学区から外れたところの出身だろう、遠すぎるわけではないけれど、徒歩だとそこそこかかるだろう。
「夏場とか汗びしょびしょになるでしょ?」
「あー、まあそうだな」
「自転車で来ればいいのに」
「まあ気分っつーか……」
「ふぅん……」
左右田くんが、思いのほか私に気を許してくれているかもしれない。彼の素はこっちだと捉えて良いだろう。左右田くんは陰寄りの人間だとはいえ、男友達は数少ないがいたはずだ。けれど、女子は業務連絡以外で話しているところを見たことがないので、私が初めてなのかも、なんて優越感に浸る。
「左右田くんは理系得意なんだよね?」
「まあどちらかといえばって感じかな。あとは――」
「技術。あの溶接したりするの上手いって言われてたよね」
「よく知ってんな……」
「まあまあ視野は広いもんで」
といっても、隣の席になるまで左右田くんのことをほとんど認識していなかったとは言いづらい。視野が広いのは確かだけれども。まあ、そんな左右田くんは数学なんてちゃちゃっと終わってノートに何か書いていたりするので、その理系頭を分けていただきたいほどだ。何を書いているか、なんて詮索はしないけれど、歳頃の子だし、落書きかえっちな妄想でも書いてるんでしょ。
「うーん、アイス食べたい」
夏の香りがしてきて、ふとアイスが食べたくなった。高くてねっとりとしたバニラのカップアイスが望ましいけれど、今はソーダのほぼ氷みたいなアイスキャンデーでも良いかもしれない。十七種類と豊富な自販機のアイスも捨てがたい。しかし、今月のお小遣いは使い果たしてしまったし、帰れば夕食だってある。パッと外灯が一斉につくのを横目に、もう既に通り過ぎたコンビニを眺めていると、左右田くんが口を開いた。
「コンビニか自販機寄るか?」
「ううん、お金ないし部活終わってから……そうだ、私が平均点取れたら私の奢り! どう?」
ここまで言って、あ、しまった。そう思った。
「言ったな?」
左右田くんは今日一番の悪い顔をして、口の隙間からギザギザ、鮫のような歯を覗かせた。ほとんど初めて見る笑顔。そして、初めて見る鋭い歯。それらに驚くまでもなく、私は、神様と左右田様に、彼が三百円もするアイスを私にせびらないことを祈った。