ありきたりな夏の音
窓の外で蝉が鳴いている。それがさらに暑さを助長して、クラスの半数は机にべたーっと張り付いていた。私もその一人になりそうだったのだが、汗を滲ませながらノートをとる隣の席の彼のおかげで、どうにか重力に打ち勝っているのだ。
「……暑い」
「……マジでそれな」
皆がぐったりとしている中で呟いた言葉は、蝉にかき消されたかと思いきや、隣でシャーペンを走らせる彼に拾われてしまったらしい。学校でも、こうして話すようになってきたのだ。彼の右手の動くスピードが、いつもよりゆっくりに感じる。勉強、好きなんだなあ。彼のノートには下敷きが挟まっているから、筆圧がそこまで強くないがために下敷きを使わない私は青色のそれを引き出しから取り出すと、暑そうに額に手を当てる左右田くんを扇いだ。
「……サンキュ」
「いーえ。ぬるいでしょ」
「ないよりマシ」
風を送れているのか微妙なくらい、ゆっくりと手を動かす。席は良いのに、この季節になると作動する天井の扇風機からの風は、私たちには届かない。蝉と、先生の声。暑さに溶ける生徒たちの熱気に、それを誤魔化すように雑談を交わすクラスメイト。そんな中、正反対の私たちは、他愛のない会話を交わす。誰かが天井に消しゴムを投げて、扇風機がけたたましい音を鳴らして、先生が怒鳴る十秒前。
⊗⊗⊗
「名前の裏切り者〜!」
「馬鹿〜!!」
少し早く帰りのホームルームを迎えたのは、間もなく終業式が近づいているからである。授業が早く終わり、午前中に解散になるこの時期が好きだ。とはいえ、もし帰るとなれば日差しが絶好調なので気が引ける部分はあるが。
凍らせたペットボトルの中身はほとんどが液体になってきており、それを喉に流し込んでいるところに、いつものメンバーの二人が声をかけてきた。
「知らないよ、私勉強頑張ったもん」
「そんなの聞いてない! 名前も行くぞ!」
「行かんて。勉強してない方が悪い」
「んもー! そんな優等生みたいなこと言って!」
実際総合順位も恥ずかしくない出来だったし、なんならこれからの勉強に対するモチベーションまで上がった始末だ。いい高校を目指すのは悪くないことだし、勉強をすれば視野が広がるという先生の言葉もその通りだと思った。優等生への道は遠くないかも、と二人に鼻を鳴らすと、先生に急かされた二人はだるそうに空き教室へと移動していった。その様子を見て、ふう、と息をつくと、眼鏡のレンズを拭いていた左右田くんと目が合った。眼鏡を外した彼の目は思ったよりも大きくて、しかし焦点がまったく私に合っていなかった。
「酷いよね、裏切り者なんて」
「まあオメーは頑張っただけだしな」
「わかってるう。左右田くんのおかげだよ。左右田くんに教えてもらわなきゃ私も補習に行ってたかもね」
もう、と頬を膨らませながら机の上で身体を伸ばしていると、左右田くんは「そりゃ良かった」とまるで他人事のように放った。左右田くんのおかげなんだけどなあ。辺りの机の上には椅子が置かれており、私たちだけが掃除当番に迷惑をかけるように未だに椅子に座っていたのだけれど、左右田くんが立ち上がっては内心イライラしていそうな掃除当番に細かく会釈をしながら、椅子を上げた。
「帰る?」
「……おう」
部活がないときは、暗黙の了解のように、一緒に帰るようになった。といっても、まだ今日は二回目だ。左右田くんの返事を聞くと、わざわざ誘う真似もせずに、左右田くんは入口付近で私を待つし、私は少し遅れて左右田くんの隣に立つ。しかし今日は、どうやらこの間みたいにスムーズに事が進むわけではなさそうだった。
「和一と名前。一緒に帰んの?」
私と左右田くんの名前を馴れ馴れしく呼ぶ声。それに男子ときた。つられるように廊下の下駄箱と反対側を振り返れば、膨らんだスクールバッグを斜めがけにした、同じクラスの天宮がいた。天宮は、いうなればスクールカースト上位。トップといっても過言ではないだろう。本人は派手に振り切っているわけでもないのに、まさしく、ムードメーカーで中心人物だった。スクールバッグを見るに、私と同じで置き勉していた教科書を詰めているのだろう。
それにしても、和一、ねえ。
「家の方向が一緒なんだよね。席も隣で最近仲良いし」
「へぇ」
「そういう天宮も左右田くんと仲良い感じ? 名前呼びだし、小学校が同じとか?」
「去年も同じクラスだったんだよな。それで意気投合したっていうか?」
彼は、珍しい、とでも言いたげに私と左右田くんを交互に見る。そういえば、クラス内でも左右田くんが話す数少ないクラスメイトに天宮が属していたような気がする。それにしても名前を呼ぶような関係性だとは。左右田くんに視線を送ると、彼は眉を八の字にして、微笑んでいた。満更でもないのかな。
そろそろ帰りたいなあ、と思いつつも、天宮の話が終わるまでは待っていようと廊下の壁にもたれて足を組んでいると、天宮が「あー……」と私と地面に視線を往復させながら、少し迷ったように口を開いた。
「なあ名前、八月の第一週の土曜日暇? 祭り行かね?」
「うーん、誰が参加するの?」
「俺、川崎、鈴木……」
「男子ばっかじゃん。それにあいにくその日は予定入ってるの。ごめんだけど他の子誘ってくんない?」
というのは嘘。嘘も方便。左右田くんにこれ以上待たせるのも悪いし、そもそも特段仲が良いわけじゃない天宮、直接的な関わりがほとんどない川崎と鈴木なんて、一緒に行く気も失せる。夏祭り自体は好きなのだけれど。手を合わせて申し訳なさそうにウインクをする私を見た天宮はそっか、と下を向くと、教室の時計をチラ見してから、部活のバッグを背負い直して後ろに下がった。
「悪い、じゃあそろそろ行くわ」
「はいはーい。じゃあね、また明日」
「おう。和一もな」
「お、おう。じゃあ」
天宮が廊下の奥に消えていくのを見送ると、左右田くんの肩に肩を当てた。左右田くんがストラップを握ったまま、私にアタックされた肩を震わせる。
「和一、だって。左右田くんも天宮のこと名前で呼んでるの?」
「あー、いや。天宮、だけど」
「そっか」
意気投合するようには見えないけどなあ。しかし今年も天宮は左右田くんと席が近くだし、きっと去年もそれきっかけで仲良くなったとかなのだろう。去年は自分のクラスでいっぱいいっぱいだったから他所のクラスのことはわからないけれど。それにしたって、左右田くんが天宮と話すときは、私と話すときよりもどこか強ばっているような気がした。
まあ、気にしないが吉。重いスクールバッグに潰されそうになりながらも下駄箱へと歩みを進める。上履きが廊下を擦る音がする。
「……苗字こそ」
「ん?」
左右田くんが振り絞ったような声を出した。いつも通りともとれる、しかし、私に向けられたもののなかでは少し上擦った声だ。
「下の名前で呼ばれてたけど、そんなに仲良いのか?」
口端を結んでいた彼が、私に放った言葉はどこかぶっきらぼうだった。わずかにリードしていた私がつい足を止めると、左右田くんは、また肩をびくつかせた。そしてわざと考えるふり――実際に言葉を選ぶために視線を上に持ち上げると、左右田くんが私をじっと見たまま動かなくなったので、なんとか言葉を選んで、文章にまとめた。
「ううん、普通。一回話したら名前呼びされるようになった……けど、天宮って結構誰にでもあんな感じじゃん? そもそもの人数が少ないから距離が近いとかもあるだろうし」
「……ほぉ」
「興味なかった? じゃあ聞かないでよ」
「あ、いや、そういうわけじゃ」
「うそうそ、焦んないで」
思いのほか左右田くんからの返答が面白みのないものだったから、もう、と口を突き出せば、焦ったように、今度は左右田くんが言葉を選び始めたので、つい笑いが漏れた。そんな私を見た左右田くんは、なんだよ、とほっとしたように、口角を上げた。
下駄箱からローファーを取り出し、地面に落とせば晴れと雨。左右田くんは雑な私と違いスニーカーを揃えていた。
「……多分、天宮とより左右田くんと私の方が仲良いと思う」
彼の方が先にスニーカーを履いて、靴紐を結んでいるのを横目に、つま先で裏返ったローファーを直しつつ、先程の会話からの続きを紡ぐように呟いた。まだ初めて話してから一ヶ月そこらだけれど、変な絡みをしてくる天宮よりは濃密な関係を築けていると思う。とんとん、とつま先を地面に軽く叩きつけて、彼の方に目を遣ると、靴紐を結ぶ体勢として屈んだまま、動かない。
「……」
「え、どうしたの? 立てなくなった?」
心配になって、靴紐の端を持ったまま動かない左右田くんの前に回り込み、視線を合わせるようにしゃがんでは顔を覗き込む。はぁ〜、と大きすぎる溜息。それと同時に両手で顔を覆ったかと思うと、今度は手の甲だけで口もとを覆った。
「いや……オメーってときどきスゲェ恥ずかしいこと言うよな」
そう言う左右田くんの頬は、耳は、まだ真昼間だというのに赤みが差していた。
⊗⊗⊗
遠回りするには、暑さにやられてしまうし、近道だってない。いつもと変わらない景色を、いつもより少しゆっくり進む。自転車庫は天国だよね、なんてそこに停滞しようとした私に、「家に帰ってエアコンつけた方が良くねぇか」と正論を言った左右田くんに負け、渋々大きな影から飛び出した。大きな影から、二つの影が分散する。
「そういえばさ」
「ん?」
「ずっと聞きたかったんだけど。どうして自転車乗らないの?」
前に一緒に帰ったときより、人通りが少ない。グラウンドから野球部の声が聞こえる。ネットよりこちら側にはボールが転がっていて、いつからあるんだろう、なんて考えていた。
左右田くんの方を向くと、訝しげに眉をひそめた。またその話題か、とでも言いたげに。私こそ他人が触れられたくないところは触れない主義なのだけれど、ますます「気分」というひと言では腑に落ちなくなったので、どうにか沈黙を繋げるようにまくしたてる。
「ほら、だって家が自転車屋さんなら尚更さ、自転車乗ってた方が腑に落ちるっていうか……あー、上手く言えないんだけど。ほら、修理とかも家でできるし?」
「あー……」
私の低い語彙力でなんとか思っていることを述べると、左右田くんは視線を斜め下に落として、口をきゅっと結んだ。それから、また私に視線を戻す。
「……笑わねぇ?」
「笑う? そんなに面白いことなの?」
「いや……」
またしても口ごもった左右田くんは、私の表情を見てから十秒。そんなに深刻な問題なのか、とこちらまで息を呑む。左右田くんは、それからさらに五秒黙りこくって、ついに覚悟を決めたように口を開いた。
「……乗り物酔いが酷ぇんだよ。車とかは当然として、前に自転車で酔ったときがあってよォ」
乗り物酔い。その簡潔すぎる答えに、口がぽかんと半開きになる。それを言い渋っていた答えは、左右田くんの耳を見れば一目瞭然だった。
「三半規管よわよわなんだ」
「そうなんだよな」
「エンジン好きなのにね」
「うっせ」
自転車で酔うなんて、もはや歩いていても酔うのではなかろうか。もしかしたら、眼鏡をしているから酔う、なんていうのもあるかもしれない。前に眼鏡からコンタクトに変えた友達が、「マジ世界変わる」「全然揺れないし酔わなくなった」と言っていたので、それも原因の一つだと思うけれど。
「……じゃあ自分でエンジン組んでもバイクとか乗れないんだ」
「そうなるな。何のペナルティだよ」
「あは、左右田くん何もしてないのにね。コンタクトにしてみるとかは? 心なしかマシかもよ」
「まあ考えたことはあるけどさ……やっぱ怖いっつーか」
「ビビり左右田」
「うっせ!」
ビビり左右田くんに、なんなら私がコンタクトを入れてあげようか、と手を片方離して左右田くんの顔に近づけると、「そっちの方が余計に怖いだろ!」とまともなツッコミが飛ぶ。すると、籠の重みで格好悪くバランスを崩しかかった私の自転車を、左右田くんが支えてくれた。
エンジンが好きなのに、そのエンジンを乗せた乗り物には乗れないなんて災難だ。どうにかして対処法はないかと、自転車を押しながらうーんと唸り、どうにかして左右田くんが得になると嬉しいことを思いついた。得をするのは私の方だろうか。
「あ、じゃあさ。高校のうちにバイクの免許取るし、私のためにバイクいじってよ」
「オメーがバイク? くっ、似合わねぇな」
「心外! 似合うでしょ!」
「そんな短ぇの穿いて乗れるとは思えねーな」
「流石に決まりには則るし!」
むしろバイクはとてつもなく似合う方だとたった今自負しだしたのに、辛辣な左右田くんだ。確かに制服のスカートは切って短くしてあるけれど、流石にバイクに乗るとなればかっこいいスキニーでも穿くったら。必死な私を見て、失礼にも声を漏らしながら笑う左右田くんに、どこか嬉しさを覚える。彼に勉強を教えてもらうことがなければ、こんな関係にはならなかっただろう、なんて。
橋を渡り終えると、電柱に貼られたペラペラの紙に自然と目が移った。それからノータイムで、つい声を上げる。
「……あ」
八月四日。夏祭りのお知らせ。毎年恒例の打ち上げ花火。鳥居と鳥居の間に並ぶ屋台の数々。間違いなく、天宮に誘われたお祭りだった。この辺りで開催するにしては、規模は大きいと思う。つい貼り紙の前で立ち止まった私を不思議に思ったのか、左右田くんが顔を顰めて私の顔をそっと覗き込んだ。
「左右田くん、八月四日の土曜日の夕方、空いてる?」
「あ? 八月四日……っておい」
それから順当に、彼は私の視線の先を見た。私が彼に八月の第一週の予定を聞くのと同時だったと思う。彼が貼り紙の情報を処理するのには、少しだけ時間を要したらしい。ハッとしてこちらを見る左右田くんに、意地悪く口角を上げた。
「行こうよ、夏祭り」
一人で行くとか、天宮たちと行くとか、変わり映えないメンバーで行くとかより絶対に楽しいじゃん。左右田くんは、口を開けたまま固まっている。ね? と後押しするように声をかけると、ただ、あー、と母音を零した。
「オメー、その日用事あるって……」
「嘘だよ。天宮たちとは乗り気じゃなかっただけ。でも左右田くんと行くのは楽しいかと思って」
「いつもの女子は」
「あー、確かアマゾネスは彼氏と行くって言ってたし、ゆっちは別クラの友達と行くとか言ってたと思う」
左右田くんが、早口で私と一緒に行かない口実を作ろうとしていたけれど、そんなものは効かない。私は、丁度左右田くんと夏祭りに行くことを決めたところなのだから。それに、地元のお祭りなのだから、会おうと思えば誰とだって会える。だとしても、私は左右田くんと二人で行くことを選んでいるのだけれど。
ハンドルが手汗で色を変える。自転車と荷物の重さが、左右田くんに近づけない要因を作っているけれど、語気を強めることで、左右田くんの答えを聞く選択をとった。
「ね? 一緒に行こう」
かすかに聞こえる蝉の声。川遊びする小学生。頭皮が焼けるほど強い日差し。三つ折りにした左右田くんのワイシャツの袖。本格的な、夏の匂い。
まだまだ夏はこれからだ。左右田くんは、地面に張り付いていたように重く見えた足を剥がすと、はぁ、と大きく深い溜息をついてから、少し長い前髪と分厚いレンズ越しに私と目を合わせて、口角の片方を上げた。
「……行くか」
「最っ高」
前髪を伝った汗がコンクリートに染みをつくる。どうしようもない暑さが、私たちの気分を底上げした。