苦手だけど大好きな目
昨日のあの後からずっと社長の空気が張り詰めていた。
朝の7時前、社長が会社に行くのに合わせて私は着替えた。今日は先生に怪我の経過を一度見せることになっている。
「お、おはようございます」
「おはよう」
いつもの様に部屋に来てくれたけど、ここ1週間のように私に触れることはなかった。返してくれた挨拶もどこかぎこちない。
社長の目が私と合わない。無表情の顔はいつものポーカーフェイスとは違う。社長も明らかに気まずさを持っていた。
昨日のミンスの電話、気にしてるんだよねたぶん……。
あまりにも空気が重すぎて食事が喉を通らない。出発する時間になったので仕方なく朝食を切り上げることにした。
エスコートをしてくれることに変わりはなかったが、始終動きが固かった。それは車に乗っても、会社に着いても変わらなくて、医療フロアに着いてやっと口を開いてくれたと思ったらとても事務的だった。
「これがプライベートの連絡先だ。検査が終わったら連絡してこい」
「わ、かりました」
今初めて連絡先をもらって、重い空気なのに可笑しくなったのを堪える。でもどこか寂しいと感じて、心の中のモヤモヤが大きくなった。
それじゃあと特に振り返ることも、時々あった髪の毛に触れるということもなく社長は私の目の前からいなくなった。
今日は香水の香りはしなかった。
「おはようございます。あれ? ルーファウスはどうしたんですか?」
先週は寄り添うように居てくれた社長が静かに去っていったのが気になったのだろう。そう聞かれて振り返ると先生がいた。
「おはようございます。昨日、怒らせてしまったみたいです」
「喧嘩ですか?」
「喧嘩ってほどじゃ……」
言い合いをしたわけでもない。原因は思い当たるが、なぜなのかがわからない。アレは喧嘩、じゃないよね。
「珍しいな。ルーファウスがあんなに感情を表に出すなんて」
そう言われて私は社長が消えた先を見つめた。
「検査しちゃいましょうか。この検査着に着替えられます?」
「わかりました」
空気を切り替えてくれるように明るい声を出してくれる先生がありがたい。
青い検査着に着替えて、まずはレントゲンを撮った。現像されるまで待って、先生の話を聞く。
「うーん。1週間じゃこんなものですかね。ちゃんと言いつけ守ってたみたいですね。悪化したりはしてないので大丈夫ですよ」
「よかった」
「かなり丁重に扱われたんじゃないですか?」
「それはもう。まるでお姫様のように」
先生は笑いながらルーファウスらしいと言った。
「じゃあもう一週だけ様子を見て、次の週からリハビリを開始しましょうか」
「わかりました」
「また1週間後に来てください。着替えたら帰って大丈夫ですよ」
「ありがとうございました」
貸してくれた部屋でゆっくりと服を着替えた。着替え終わってさっきもらった連絡先を見る。
終わったら連絡してこいって言ったけど、すごく電話しづらい。電話1つでこんなに躊躇ったことがあっただろうか。
何度か指が迷って、でもこのままじゃ仕方ないと思い切って掛けた。気づかなければこのまま1人で帰るのも……と思った瞬間、3コールも立たずに社長があっさりと電話に出た。
うまく呼吸ができずに一瞬、間が空いた。
「あ、あの、検査終わりました」
そう伝えるとわかった、とだけ言われ電話が切れた。何故か少し泣きそうになる。
どうすればいいか分からず立ち尽くしていると、ダークスーツの男性が来た。確かあの事件の時にツォンと呼ばれていた人だ。
「タークスのツォンだ」
「タークス?」
タークスって確かミンスが助けてくれたって言ってた……。タークスって?
「タークスを知らないか? 子供の頃、悪いことをするとタークスが連れ去りに来ると親におどかされたことは?」
なんだそれ、と思って首を傾げると目の前の真っ黒い人はいい子だったんだなと言って握った手を口元に当ててクククと笑った。
「社長は今、手が離せない。私がキミを社長宅へ送ることになっている」
ツォンさんの話し方はとても事務的だった。これだけ余計なことを省いて話す人を初めて見る。もちろん、わかりましたとしか答えられなかった。
エレベーターに乗る直前でやりたいことがあったのを思い出した。
「あの……少しだけ整備場に寄ってもいいですか? ちょっと欲しいものがあって」
「少しだけなら」
「ありがとうございます」
ツォンさんといると社長といるより落ち着かない。なんだか見張られている様な気になる。社長より纏っている空気が硬いからだろうか……。
「ここで待っている」
「すぐ戻ってきます」
整備場のフロアに着くと、入り口でツォンさんがそう言った。
整備場に寄ると、私の姿を見かけた同僚たちが集まってくる。
みんな口を揃えて怪我は大丈夫なのか? と聞いて来るから、とても心配をかけたんだと申し訳なくなった。
自分のスペースへ、まだ肋骨付近を庇いながらゆっくり歩いて行くとミンスが近寄ってきた。
「昨日大丈夫か? 電話いきなり切れたけど」
「ああ……ごめん。ちょっと飲み物こぼしちゃって、慌ててたら切っちゃった。ほんとごめん」
「なんもないならいいんだけどよ」
とっさについた嘘を信じてくれてよかった。
「そういやどうした? 当分休みだって聞いたけど」
「ちょっと欲しいものがあって」
「それでわざわざ? 言ってくれたら届けてやったのに」
「ううん。いいんだ。大事なものだから」
そう言って机の引き出しから、読み返しすぎてボロボロになった本を取り出した。
【宇宙機械工学のすべて】
私が持っている中で1番古い本だ。実家が鉄工所ということもあって、幼い頃から製鉄や機械いじりに興味があった。何度も読んで、内容なんてほぼ暗記してしまっているのに何故か手放せなかった。
本棚から抜き取って勝手に親から貰ったものだとずっと思っていたが、夢の中の本はきっとこれだ。これ以外に本を貰った記憶がない。
「すごいボロボロだな。もしかしてそれ?」
「うん。なんかまた読みたくなって。ああ、そうだ。私の工具とかありがとね」
「おう気にすんな。あとスイーパーだけど先輩たちとやっといたから」
「ありがとう。それじゃ帰るね。先生に叱られる」
「ちゃんと治してこいよ」
私は手をひらひらと振ってその場を離れた。整備場の外でツォンさんが、原因はアレかと呟いていたなんてもちろん知らない。
「お待たせしました」
「ああ行こう」
駐車スペースまで行って、社長のとは違う黒塗りの車に乗る。これはこれで落ち着かない。
シートベルトに手こずっていると見かねたツォンさんが手伝ってくれた。
「ありがとうございます」
「頼っても誰も何も言わないさ」
そう言われてあはは、と乾いた笑いをすることしかできなかった。
ツォンさんの運転は社長以上に丁寧だった。ブレーキなんて止まる最後まで緩やかだし。事務的というより機械的に感じる。
「社長となにがあった」
「ツォンさんも、それを聞くんですね」
「ほかの誰かにも聞かれたのか」
「先生にも聞かれました」
「ああ、あの人は学生時代の友人だからな。で?」
「昨日の夜、同僚から電話がかかって来て……電話してたら社長が帰ってきて、怒ってて……そのままずっと、その……」
襲われるようなキスをされたなどと言えるわけがない。省いただけで嘘をついているわけではない。
落ち着かない気持ちを、俯いて本の表紙を撫でることで落ち着けようとする。あまり触ると表紙が外れそうなのに……。
「あの机付近で話してた男か?」
「そうです。やっぱり、社長……」
「昨日まで上機嫌だった社長が、今日になって大荒れだ」
「やっぱり、怒ってましたか」
「いや、アレは怒っているというより……」
「いうより……?」
ツォンさんが今までとは違い、急に言い淀むから気になって彼の方を見た。
「自分で確認したほうがいい」
「え……」
そこまで話して教えてくれないのかと思ってしまった。
ツォンさんは面食らっている私を横目で見て軽く笑う。
「社長が怖いか?」
「……今の社長は少し」
「大丈夫だ。キミに怒っているわけじゃない」
「そう、ですかね……」
「着いた」
声を掛けられると、社長のお家に着いたことを知る。
降りないと……。
「送ってくださってありがとうございました」
お礼を言って降りようとすると、待てと引き止められる。
「ちゃんと家の中まで送るように言われている」
「え……」
「だから社長はキミに怒っているわけではない」
ツォンさんはツォンさんで状況を楽しんでいるようだ。私は今にも潰れそうなのに。
私に怒ってるんじゃないなら、一体何に怒ってるんだろう。でも原因は電話、だよね。そんな、まさか、社長が私に……。嫉妬してる? なんて考えて、ないないと首を振った。そんなことを考えるなんて恐れ多すぎる。
「もういいか? 思考をこっちに戻してくれるとありがたいんだが」
「あ、ごめんなさい!」
いつのまにか助手席のドアを開けて待ってくれていたツォンさんは困った顔で笑っている。
「そうやってぼーっと考えているから、あの人は過保護になるんだろうな」
「あの……?」
「どうぞ、お姫様」
わざとらしく言ってクククと笑うとツォンさんは私に手を差し出した。どうやら手を取って降りろということらしい。
「ち、違います! いっ……」
驚いて大声を出したら、肋骨が……。
「機械よりも、もう少し自分の体の状況を把握したほうがいいみたいだな」
「あ、ありがとう、ございました……」
社長といいツォンさんといい私で遊ぶの、やめて欲しい……。
私を社長のお家の中まで連れて行ってくれると、早いとこ社長と話してくれと言い残してツォンさんは会社へ戻っていった。
なんだか今日は疲れた。1人を相手にここまで悩んだのは初めてだ。なんだか心なしか体が怠いような気もする。きっと考えすぎたんだ。頭を少し切り替えようと思ってベッドに入って机から持ってきた本を読み始めた。
昼ぐらいに戻ってきて、ずっと読み耽って夕食はどうされますか?と聞かれたのは18時すぎだった。
社長を待つので大丈夫ですと答えると、遅くなると言われたから、それでも待つから気にしないでくださいと無理を聞いてもらった。
もう直ぐ日付が変わろうとしている。昼から読んでいた本もゆっくり読んでいたつもりなのにもう直ぐ読み終わりそうだ。
社長は帰ってきたのかな。こんな時間だしもう今日はたぶん来ないよね。やっぱり私のところへは来づらいか。
もうそろそろサイドテーブルの明かりを消そうかなと考えたところでドアが静かに開いた。ドアの方で立ち止まって息を飲む音が聞こえた。
「おかえり、なさい、です」
「あ、ああ。起きていたのか」
「社長を、待ってました」
「夕食を食べていないと聞いた。遅くなると伝えさせたはずだが」
「私が待ちたかったんです」
「いま、持ってこさ……」
そう言って出て行こうとする社長を私は引き止めた。
少し怖いけれど話したい。ざわつくけれど、あの目で見て欲しい。私は……。
「大丈夫です。もう、皆さんにも悪いので」
なかなかドアの前から動こうとしない社長に私が近づいて顔を見上げた。社長は顔を逸らせた。いつもと反対だ。私はきっと……。
「社長、怒ってますか……」
「怒ってはいない」
少し強い語気に驚いてしまう。それを見た社長が怖がらせたと思ったのだろう。すまないと小さく呟いた。
「リクに怒っているわけじゃない。今日はもう寝なさい」
「私には逃げないでくれと言いました」
社長の華奢な手を取ってそう伝えるがまた、すまないと言って部屋から出て行ってしまった。私はきっと貴方が好きだ。
今日はもう無理だと思って仕方なくベッドに入ることにした。悩みすぎたんだろうか。頭が少し痛い。
眠ったと思っても何度も目が覚める。なんだか体も内側から熱い。こんな時に熱を出すなんて。- 9 -*前 次#
Moon Fragrance