揺れた瞳
カーテンから淡い陽の光が差し込んで目が覚めた。アパートとは違う大きすぎる部屋に寝ぼけて慌てる。
ああそうか、社長のお家の部屋だと思い出した。そういえば昨日、もう少し狭いお部屋は……と聞けばそういうと思ったからここにしたがまだ広いかと言われて頭を抱えた。
先生に言われた通り、昨日の夜寝る前に痛み止めを飲んだら起きてもまだ効いてるらしく辛くなかった。
少しだけ伸びをしようと体を起こすと軽いノックと共に社長が入ってきた。
へ、返事してない……。
「ああ、起きていたか悪い」
なんて言いながら特に悪びれた様子もなく言ってのけて笑ってしまった。薬がきれると息をするだけでも痛いのに、笑ったら薬が効いていても痛い。これで頭まで打ってたらと思うとゾッとする。
「っ、おはよう、ございます」
「おはよう。辛そうだな」
「まだ薬が効いてるのでマシです」
「何度も言うが無理はするな」
「はい。あの、もうお仕事ですか?」
社長はすでにいつもの白いスーツに白いコートを着ていて、ベッドサイドにある時計をチラリと見るとまだ7時だった。
「ああ、やらなければならないことがまだかなり残っていてな。君が寝ていたらもう行こうかと思ったんだが、少しなら時間がある。一緒に朝食を食べるか?」
「はい」
社長の提案に素直に嬉しいと思う私がいる。昨日一緒に夕食を食べたのが存外嬉しかったみたいだ。
ちゃんと笑顔を返せたみたいで、微かだが社長の口角が上がった。少し第一印象が違ったけど、わかりづらい時があっても社長は結構表情が豊かだ。
「リク、今度はなにを考えているんだ?」
「!?」
今、優しくおかしそうに聞いてくる社長の問いかけの声が、昨日の昼間の夢の声と少しかぶった気がした。アレは子供の時の社長の声……?
反応できずにいるとベッドのスプリングが少し傾いた。気づいたら社長がベッドの縁に腰掛けて私の髪を細く長い指で梳いている。
社長から漂う香水の香りにドキッとした。
「あの、くすぐったいです……」
「なんだもう気づいたのか。残念だ。さあ朝食が来たぞ」
なにが残念なのかはもう聞かない、考えないことにする。たぶんどんどん社長の手中にハマっていくだけだ。でも少しだけならそれもいいかなと考え始めている自分がいて驚いた。
社長は朝食もそこそこに、すまないもう行かなければならないと立ち上がった。そして昨日のように少しだけ触れるキスを私の口の端にする。驚いて持っていたスプーンを落としそうになる。慌てている間に社長はふっと笑って行ってくるとだけ言って出勤していった。
いってらっしゃいや気の利いたことを言えなかったことを思い出して少し後悔した。
私の髪からはさっき社長が触れた時に移ったのか、社長の香水の香りがして落ち着かなかった。
今でも甘すぎるくらいのこの甘さは、まだ序の口だったのだとこの日以降、毎日思い知ることになる。
その日の夜、クッションにもたれるようにしてベッドの上で本を読んでいると、19時ごろに帰ってきた社長は真っ先に私の部屋へと来てくれたらしい。
「おかえりなさい、です……」
声は小さくなってしまったが、さすがに朝より落ち着いていて言えることがきた。
社長は少し驚いたようだが、ふんわりと笑ってくれた。
「ただいま。調子はどうだ?」
「薬がきいてるだけで何も変わらず、です」
私の体調を確認してくれると近づいてきてベッドへ片膝をついた。そのまま私の口元へ顔を寄せる。朝と同じ香水の香りが薄まることなく香ったので一瞬心臓が止まったような気がした。
「しゃ、社長、その……」
「抗議は受け付けない」
「……」
その日、用意された夕食は味がわからなかった。
2日目の朝、日曜日だと言うのにやはり忙しい社長はきっちりと着こなしたスーツ姿で私の部屋に来た。
昨日の朝から一方的に続いている通勤前、帰宅後のキスは、今朝は布団で顔を隠すことで阻止できたと思ったら、耳たぶにあるピアスに落とされる。
今日はなるべく早く帰ってくると言って悪戯そうに笑ったあと出ていった。
宣言通り夕方には帰ってきた社長は真っ直ぐに私の部屋へ来る。少し身構えていると何もなかったので拍子抜けした。
心臓がいくつあっても足りない。
3日目、ここ2日通り7時ごろに私に用意してくれた部屋に来て、少し朝食を食べて仕事に出かけるというのが社長のルーティンになりかけているようだ。
そして昨日の夜はなかったものも忘れてはいないらしい。今日も行ってくると言って立ち上がると顔が近づいてくる。
逃げないでくれ、これでも傷つくと言われた言葉がなぜか頭の中をよぎって顔を隠そうとしたのをやめた。いま私は、恥ずかしかっただけで嫌じゃないと認めてしまった。
それでもやっぱり口から心臓が出そうなほどの緊張にぎゅっと目を瞑って待つと、すぐ近くで笑った社長の息が掛かった。
今日は今までみたいに軽く触れるだけのキスじゃなかった。私の頭を支えて唇を押し付けるようなキス。離れるときに少し下唇を挟まれて驚いて体がビクッと跳ねた。
社長がどんな顔をしているのかわからない。恥ずかしすぎて離れた後も目が開けられない。その上、耳元でこれまでより1番低い声で行ってくるなんて囁くから、今日1日ベッドの中でのたうちまわっていた。自分の髪に残る淡い香りが嫌に胸を締め付けた。
6日目、そろそろキスに慣れ……うん、たぶん少しは慣れた。相変わらず社長の出勤前と帰宅後は社長にキスをされる。鼓動が早くなるのも相変わらずだったが、今日は少し違った。
太陽が沈んだ頃、仕事が終わったであろうミンスから電話がかかってきたからだ。
「うん。ちゃんと診てもらったから大丈夫。せめて2週間は仕事するなって言われたからすごく退屈でさ」
「そうそう。ずっと本読んでる」
「あー、そうなんだ。ごめん。ちゃんと治ったら急いでやるから」
その電話の最中にちょうど社長が帰ってきて私の話し相手を察したらしい。開けられたドアの方を見ると少し不機嫌そうな顔をしていた。
ええと……怒ってる、これ。
電話口でいきなり黙った私を心配してミンスが、リクどうした?と声をあげている。
「……! んっ」
まだ電話を切っていないのにも関わらず、社長はベッドに乗り上げて私の口を塞いだ。あまりの出来事に少しくぐもった声が漏れて、これはミンスに聞こえたのではないかと思った。
社長が横目で私のケータイの通話を切るとベッドの端に放り投げる。そのまま私の頭を支えて上を向かせると、自然と少し開いた唇の隙間に舌がにゅるりと滑り込んできた。
「んん! しゃ……」
隙を見て社長を呼ぼうとするが、舌を絡めとられてそれが叶わない。歯の裏を社長の舌が伝って、息が上がって力が抜けていく。
ここ最近、社長がずっとつけている香水の強い香りで頭がクラクラする。昨日も一昨日もずっと朝と同じ香りの強さだったのは、帰ってくる前につけ直したんだと気づいた。たぶん、懐かしさを感じて私が落ち着くと言ったからだ。
唇や舌に吸い付かれ、完全に脱力したところで社長の口が離れる。
息を荒げて涙目でベッドに沈み込む私を見て青い瞳を揺らすと、どんな時でも真っ直ぐに私を射抜いてきた視線を初めて社長が逸らせた。
「すまない」
口の端に光る唾液を親指で拭って、今度は社長が私から逃げるように部屋を出て行った。
ゾクゾクとした感覚だけが私の腰に残される。
次の日は先生に怪我の具合を見せる予定だった。ゆっくり歩いてくれるなどの優しい気遣いはあったが、連れて行ってくれる車内の空気は最悪だった。
1週間、挨拶がわりのように続けられていたキスはなかった。- 8 -*前 次#
Moon Fragrance