Moon Fragrance

ある国の神秘的な夜
01



 今度は心地よく目覚めることがきでた。体の内側から発していたような熱は治まっていた。部屋の中はもう暗い。どれだけ眠っていたんだろう。私の左手は眠った時と変わらず社長が握ってくれていた。
 一つ違ったのはベッドに腰掛けていた社長がジャケットを脱いで、ベッドのヘッドボードに背を預けて目を閉じていることだ。
 眠ってる、のかな。そりゃあ疲れてるよね。家まで送ってくれた日も、昨日も帰るのは日付が変わる頃だった。それなのに19時ごろに帰ってくるのは、たぶん私が居候しているからだ。今日なんてわざわざ仕事を切り上げて帰ってきてくれた。

「たぶん迷惑かけてる、よね」

 社長は時々、私の頭を撫でてくれる。くすぐったいけど心地いいし、好きだ。だから髪の毛の手触りが気になって、私は握られていた手をそっと外して社長の髪に優しく触れてみた。

「やわらかい」

 社長が身じろいだから慌てて手を離す。

「……迷惑だとは思っていない」
「すみません、起こしちゃいましたか」
「気にするな。髪を触られるのは思いの外くすぐったいものだな」
「あ、わかってもらえました?」
「ああ」

 ふっと笑って私の額に手を触れた。

「熱は下がったみたいだな」
「心配事がひとつ消えましたから」
「ひとつ、と言うことはまだあるのか?」
「社長が倒れないか、です」

 私が上体を起こそうとしたのを察して、腰に手を回して手伝ってくれる。本当に人のことをよく見ているし、優しい人だと思う。
 私もヘッドボードに体を預けると、社長は私を引き寄せて肩にもたれさせた。痛くないか? と確認もしてくれた。今日だけで幸せをいくつ感じただろうか。ずっと続いて欲しいと願ってもいいのだろうか。
 社長は一瞬間、何かを考えて口を開いた。

「リクが昼間のように名前を呼んでくれるなら、心配することはない」
「えっ!」
「嫌なのか?」

 嫌じゃない。嫌じゃないけれど……!
 社長が私の髪を指に巻いてじゃれるように遊んでいる。時折、その指が頬や首筋を掠めるのはわざとだろう。くすぐったさに身をよじっていると、ん? と追撃が飛んでくる。

「っ……あ、改めて言われると、は、ずかしいです」
「ほう? これから先、リクの怪我が治ればそれ以上に恥ずかしいことがあるのにな」

 そう言われて顔にボッと熱が昇る。布団で顔を隠そうと伸ばした手を阻止された。

「リク」

 もう! ……もう!! 耳元で囁かないで欲しい。しかも吐息混じりに囁くから、耳に息がかかってくすぐったい上にこの上なく恥ずかしい。
 薄々気づいていたけどこの人、ドSだ……。

「〜〜っ! ルー」
「いい子だ」
「……!?」

 恥ずかしすぎて俯いて名前を呼ぶと、社長は私の顎をすくい上げて唇を重ねた。私の下唇を啄むように感触を楽しんでいる。反射的にぎゅっと目を瞑って、一緒に息まで止めてしまったから苦しい。でも何故か鼻で息をするということが思いつかなくて、酸素を欲して口を開けて空気を取り込んだ。すると待っていたと言わんばかりに舌が侵入してきて、体が震えた。
 あ、ダメだ……これ、腰がふわふわする。

「ぁ、しゃ……んぅ」

 違う、とでも言うように社長と言いかけた言葉が舌に吸い付かれて飲み込まれる。あいた隙間から頑張って空気を取り込もうとするが酸素が足りない。苦しくて社長のワイシャツにすがり付くと、腰を抱きこまれて体がもっと密着した。

「ふぅ……ぅ」

 名前を呼ぼうにも鼻にかかった声しか出てこない。何度も角度を変えて合わさる唇に思考が刈り取られていく。
 モヤがかかり始める頭が歯列をなぞられ、舌を絡めとられると社長の名前が呼べないことに気づく。でもこれ、たぶん呼ぶまで離してもらえない。
 口内をかき混ぜられる水音が耳につく。腰が砕けそうで社長にしなだれかかった。も、う、息も、限界……!

「んー、んぅー」

 社長の胸を力のない手で押しながら抗議するとやっと解放してもらえた。どちらのものともわからない銀の糸がつーっと伸びた。

「はぁ、はあーっ……」

 やっとまともに空気を吸えて、上を向いて肩で息をする。肺の膨らみが大きいのか少し肋骨が痛い……。

「ああ、慣れてないんだったな。少しやりすぎたか……」

 名前を呼べないのがわかっていて、離す気がなかったんだと悟った。

「しゃちょ……」
「スパルタがお望みか?」
「る、ルー!」

 ニヤリと笑って人差し指を私の唇に当てるものだから、大きくかぶりを振って慌てて名前を呼び直す。

「死ぬかと、思った……」

 そう呟いた私の頭をひと撫でして社長はくくっと喉を鳴らした。

「仕事じゃない時は名前で呼んでくれ」
「仕事で会うこと、そうそうありません」
「会いに行ってやってもいい」
「仕事してください!」

 私たちは顔を見合わせて一緒に吹き出した。

「夕食にしよう。食べられそうか?」
「はい」
「用意させる」

 なんだか久しぶりに一緒に食べたような気がする。たった1日なのに変な気分。
 熱があったのと戻してしまったこともあって、夕食はさっぱりとしたものが中心に窓に近いテーブルに並べられた。社長のお家の人の心遣いが暖かい。
 最後に出されたデザートを食べている時に社長が口を開いた。

「あの本、まだ持っていてくれたんだな」
「あ、の、ごめんなさい。あの事件のあと医療フロアで目が覚めるまで、本をもらったことすら忘れてました」

 あまりにも申し訳なくて視線を窓の外へ移した。こらえ切れないとでも言うように社長が珍しく声を上げて笑い出した。

「ガキの頃も頑張ったはずだったんだが、オレはそんなに眼中になかったか」
「ごめんなさい……。ずっと両親の本棚から勝手にもらったものだと思ってて」

 あ、れ……? そういえば、今……。
 垣間見えた素なんだと思った。気を許してくれたのかもしれないと逸らした目を社長に合わせた。
 どうした? と目が聞いてきたから、なんでもないと言うように首を振って返した。

「なぜ思い出した?」
「顔は見えなかったんですけど夢で……男の子が渡してくれて。それで、もしかして記憶が違ったんじゃって……」
「そうか。贈っておいてなんだが、読んでみたら私には面白さがわからなかった」
「それを贈ってでも、私の気を引きたかったですか?」
「もちろんだ。これも、その手段の1つだった」

 社長はスラックスのポケットから小さなスプレーボトルを取り出した。

「香水、ですか?」
「香りは人間の記憶に残りやすい。子供の頃もリクの前ではつけていた」
「だから懐かしく感じたのか……」

 車の中で知っている香りだと感じたことに納得がいってしみじみと呟いた。

「覚えていたのか?」
「車の中で私に聞きましたよね? この香りは嫌いか? って。あのとき、私も母も香水なんてつけないのに、なんで知ってるんだろうって思ったんです」
「これは無駄じゃなかったみたいだな」
「作戦勝ち、ですね」
「ほんの少しだ。そうか……大切にしてくれていたんだな」

 そう言って社長は枕元に置かれた本を眺め見た。

「もう読み返しすぎてボロボロになっちゃってますけど」

 気恥ずかしくてへらっと笑うと社長が優しく目を細めた。

「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」

 最初はごちそうさまなんて言わなかった社長もここ最近、躊躇いがちに言い始めた。なかなか言うことなんてなかったんだろうけど、一緒に言ってもらえるようになって嬉しかった。

「もうすぐ9時ですね」

 ベッドサイドの時計は21時になる10分前。

「結構寝たが眠れるか?」
「どうでしょう。あの、私……そろそろお風呂に」
「わかった。2人を呼んできてやる」
「ありがとうございます。おやすみなさい」

 いつもはここで社長も自分の部屋に戻って1日が終わるのだが、今日は様子が違った。目線を少し横にずらして考え、ああとだけ言って出て行った。いつものように、おやすみと返って来ないのが気になった。
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