Moon Fragrance

ある国の神秘的な夜
02



 今日も私を世話してくれてる女性2人が入浴を手伝ってくれた。最近はお互い打ち解けてきて談笑が出来るまでになったけど、それでもやっぱり頭が下がる。子供の入浴補助ならまだしも、大人の女の入浴補助なんてそうそうすることないよね。
 ありがとうございますと今日もお礼を言って浴室を出たら、ベッドには髪を下ろした社長が腰掛けていて驚いてしまった。
 お世話係の2人が社長に、ぼっちゃんまだダメですからね、と謎の念を押して出て行った。それを聞いた社長が肩を震わせて、2人が出て行ったドアに向かってわかっている、とこれまた謎の返事を投げた。

「いつまでもぼっちゃんと呼ぶのはやめてくれ……。で、キミはいつまでそこに突っ立っている?」
「え、あ、だって、社長がここに……」
「社長?」

 胸元をはだけさせてナイトウェアを着ている社長がベッドから立ち上がって一歩一歩近づいてくる。口がいち、と動いた。
 まだ少し濡れている髪と開いた胸元。口角の上がった形のいい唇。目線のやり場に困って、しまったとか名前を言い直すとか考えられない。
 社長が一歩近づくと、私も一歩後ずさる。それを繰り返して社長があと数歩と言うところで私にはもう後がない。

「なぜ逃げる?」
「だって、しゃ……じゃなくてえっと、近づいて、来るので……」
「に」

 今の、カウントに入った!?

「もう逃げ場がないな」

 そう言って社長は覆いかぶさるように私の後ろの壁に腕をついた。こ、これはもしや……壁ドン……。

「えと、あの……し……ルー」
「さん」

 き、聞き逃してくれない……! 私はバカなんじゃなかろうか。何か企んでいる人を目の前に、まだすんなり出て来ないのだ。彼の所望する呼び方が。だって呼んでいたのなんて20年近く前の話で、数時間前まで社長と平社員だったんだから。
 私は視線をどこにやっていいのか分からず、キョロキョロと辺りを彷徨わせている。前を向けば開いた胸元、上を見れば社長の顔と濡れた髪。

「リク」

 呼ばれて上を向くと、私を見下ろしている社長と目があった。こうなったらもう視線を逸らすことが出来ない。社長の唇が細く引き結ばれる。
 もう寝る前だと言うのに、ほんの微かに香水の香りがする。ボディソープの香りもするが、邪魔することなく心地よく香っている。

「社長、と言うごとに痕を付けていくのはどうだろうか」
「あと……?」

 社長は私のルームウェアの第1ボタンを片手で器用に外すと鎖骨をつつーっと指でなぞった。

「ひゃっ……」

 今まで出したことも聞いたこともない自分の声に驚いて慌てて口を左手で覆った。

「その可愛らしい声がまだ当分お預けなのが惜しいな」

 口を覆う私の手を下ろされると、先ほど触った鎖骨に口付け強く吸いつかれた。

「いっ」
「まず1つ目」

 知らない痛みに体に電流が走ったような気がした。

「ぁ……」

 痕が付いたであろう場所を社長の赤い舌先がチロリと舐めた。
 次に少し上へと移動し首筋に顔を近づける。

「まっ……!」
「2つ目だ」
「ん……」

 抗議しようも虚しく赤紫の花が咲く。それを舐めとるように舌が這う。
 最後に私の後ろ髪を少しかき上げると、ぢゅっとわざとらしい音を立ててうなじに吸い付く。

「っ!」
「3つ目」
「ゃ……」

 そう言ってうなじの痕も舌先でくすぐる。体がぶるりと震えた。

「呼びたいなら好きなだけ社長と呼べ。私の印が増えるだけだ」

 にんまりと笑って社長はすごく楽しそうだ。まだ痕をつけたいのか名残惜しそうに私の首筋に指を這わせた。
 訳のわからないふわふわとした感覚に、腰の力が抜けて崩れ落ちそうになった。

「ルー……」

 社長のルームウェアをぎゅっと握ると、か細い声で名前を呼んだ。

「なんだ、もう限界か」
「いじ、わる……です」
「その顔、ほかの男には見せるな」

 抗議の目で社長を見上げたはずだったのにその顔って、どんな顔なんだろう。
 疑問符を浮かべる私にくくっと喉を鳴らすと社長は私をふんわりと優しく抱きしめて、痕をつけておけば忘れないな? と言った。

「何をですか?」
「私を、だ。悪いが明後日からジュノンへ出張になった。3日ほどここを離れる。1人にしてすまない」
「仕事なので、気にしないでください」
「少しは引き止めて欲しいものだが……そのビジネスライクには困ったな。キミらしいと言えばキミらしいか」

 あ……回答を間違えたのか。恋人なんていたことがないし、目の前にいるその初めての恋人は大企業の社長だ。仕事を邪魔するわけにはいかないと思うと返事が難しいぞ、これ。
 ぼーっと考え込む私の耳元で、鏡を見るたびに思い出せ、と呪いをかけたからきっと私の耳は真っ赤だ。
 やられっぱなしでなんか少し、仕返しをしたい気持ちが頭をもたげる。

「あの、……ルー?」
「どうした?」

 なんでこんなことを考えついてしまったんだろうか。もっと恋愛経験があったなら違う選択肢があったのかもしれない。でも私がこんなに恥ずかしいのだからきっと社長も、なんて考えたのが間違いだった。
 私は社長から僅かに離れると顔を見上げて質問を口にした。

「この痕、私にもつけられますか?」

 社長が驚いて目を見開いた後、すぐ嬉しげに目が細められた。
 待てよ……思っていた反応と違う。これはミスった。誰か私を埋めてほしい。

「こっちへ来なさい」

 そう言って社長は私の手を引いてベッドへ向かう。
 こっちを向いてここに座れ、と促されたのは社長の膝の上だった。
 私は呆然と立ち尽くす。こっちを向いてってことは跨がれってことだよね……? 無理でしょ!

「さあ早く」

 社長は私の手を離そうとしない。なんなら今、社長の手が腰に回った。そのまま引き寄せられて結局座らされてしまった。
 向かい合う形で膝の上に座ると、いつも見上げている社長の顔が目の前にある。

「……ルー?」

 社長と口から出そうになってなんとか名前に切り替えた。
 なんでこんなことに……と戸惑っていると、社長はもともとはだけていたナイトウェアの胸元をもっとはだけさせた。
 引き締まった体と綺麗な白い肌が見えて、見慣れていない私には目に毒だ。

「強く吸うだけだ。好きなところにつけていい」

 なんなら見える場所でもいいぞ、と笑いながら付け足された。
 覚悟を決めるしかない。恐る恐る社長の滑らかな首筋に唇を寄せた。甘く香る香水の匂いに少しくらっとした。わからないけれど、出来る限り強く吸ってすぐに離れる。
 社長についたか? って聞かれたけど、ほんのり薄くピンクがかっただけだった。

「うすーく、なら」
「もう少し長めに吸い付いてみろ」

 再び同じところにそっと唇をあてて、言われた通り長めに吸ってみた。
 離れて見てみると社長が私につけたものよりは薄いけれど、それでも1度目よりは赤くしっかりとした痕がついた。

「出来たみたいだな。まだつけるか?」

 聞かれて私は思いっきり首を振った。これはこれで死にそうなほど恥ずかしい。
 社長は私の頬に手を当てて、可愛いなと呟く。朝になったら夢だったりしない? 絡む視線に私はゴクリと唾液を飲み込んだ。

「リク。キミにプレゼントしたいものがある」
「え……」

 社長の細い指が私の耳に触れた。くすぐったくて、ふっと息が漏れた。もう片方の手は今も腰にまわっているので下ろしてくれる気はないらしい。

「キミのつけているピアスは、何か意味があるものか?」
「? いえ、特には。なんとなく開けて、塞がるのが嫌だからなんとなくつけてるだけです」
「それならこれを受け取ってほしい」

 社長の手のひらに乗せられているのは綺麗なリボンで包まれた小箱だ。

「開けてもいいですか?」
「ああ」

 私は丁寧にリボンを解いていく。シュルっと音を立てて小箱と手の間から抜き取ると、そっと小箱を開いた。

「きれい……」

 質問で何かは察してはいたが小箱の中にあったのは、透き通った青い石のついたピアスだった。
 大きくはない、飾り気があるわけでもない。だけど決して小さいというわけでもなく、存在感を放つ青い石が埋め込まれたスタッドピアス。
 部屋の明かりを受けてキラキラと輝いている。不思議なのは、濃い青にも、薄い青にも見えることだ。時折り薄い紫のようにも見えた。
 この不思議な青色、見覚えがある。

「気にいってくれたか?」
「はい。とっても! ありがとうございます」

 私は社長の顔を見てお礼を言う。満足げに細められた目を見て思い至った。
 力強く私を射抜く濃い青。優しく細められる薄い青。悲しげに揺れた薄い紫。社長の目の色だ。

「つけてきてもいいですか?」
「つけられるか?」
「肩を動かすの、先生には内緒にしてくれたら」
「それはできないな……私がつけてもいいか?」

 どうしようかなと悩むと、思わぬ提案が飛んできた。私は素直にお願いする。
 社長の手は優しく、薄いガラスを扱うように触れるのでくすぐったくて身をよじるたびに動くなと嗜められた。

「どうですか?」
「よく似合っている」
「ありがとうございます。ずっと大切にします」
「そうしてくれ」

 社長はピアスの石と同じ色をした目を細めて私の耳元に口付けを落とす。

「……ルーの目の色」
「なんだ気付いていたのか」

 クスッと笑って私の頬を撫でる。

「綺麗な青色ですから」
「離れていてもリクのそばにいられる」

 嬉しいですと呟いてそっと抱きついた。社長もそれに答えてくれて力強く抱きしめてくれた。
 鼻腔をくすぐるほのかに甘い香水の香り。密かに楽しんで酔いしれてるのはバレてるだろうか。離れたくないと思うほどに記憶に刷り込まれていく。
 静かすぎる部屋。うるさいほどに鳴っている心臓の音は社長に聞こえているかもしれない。それでもいいと思った。
 社長にさあ寝ようかと言われたのは長い時間、無言で抱きしめあった後だった。自然な動きでベッドに横になり、私に腕枕をしてくれるから笑ってしまった。

「どうした?」
「いえ、社長もここに寝るんだと思って……あ……」

 社長と呼んでしまってから気づいた。これはもしや……。社長の口角が上がった。

「痕をつけるのは起きてからだ。これ以上は襲ってしまいかねん」
「え……」

 顔が熱くなって布団を引き寄せる。足をバタバタさせると暴れるなと耳元で笑われた。
 続けて、せっかく恋人になったんだ、隣で寝たいだろうと言われればもっと暴れたくなる。
 私に触れるときの優しい顔も、優しい手も全部が私を溶かしそうになる。すごく社長に甘やかされてる。この先、このまま行けばどうなってしまうのだろう。
 社長の体温と静かな息遣い、私の頭を撫でる大きな手。ずっとドキドキしっぱなしで、眠れるまでに時間が掛かった。
 私はもう自分の心臓の心配しかできない。

『なあリク、大人になったらキミのことを迎えにくる。待っててくれ』
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