噤んだ代償
赤くなった手の甲をヒリヒリさせながら社食に来た。あれで別に手の黒ずみが落ちたわけじゃない。でも今は少しだけ気持ちが落ち着いた。
メニュー表を前に何を頼もうか迷っていると、すぐ横にあった小さな冷蔵庫の中にサンドイッチを見つけて今日はそれにした。一緒にオレンジジュースも買って空いてる席に座る。
行儀が悪いけどケータイでニュースを見ながらサンドイッチにかじりつく。見出しにあったのはコルネオがウータイで死亡したというニュースだ。コルネオって確か六番街スラムの……と考えてたらミンスが来た。
「ここいいか?」
「どうぞ。あ、さっきごめん。置いてっちゃった」
「いいよ。なんか訳ありそうだったし。その手、どうした?」
「手?」
「赤くなってる」
ミンスが腰掛けながらそう言った私の手を見た。ああこれね、となんでもない風に呟く。
「ぼーっとしてたら擦りすぎたみたい」
ミンスが半信半疑にふーんと鼻を鳴らした。
今日はこの前の電話の時の様には信じてくれないらしい。
「なあ、今日メシ……」
「わっ」
「リク!」
ミンスが何か言いかけたところで誰かにぶつかられて頭から氷水をかぶった。
わざとらしく、ごめんなさーいと聞こえた。その方を見るとさっき69階の受付に座っていた秘書さんだ。水を入れてたであろう空のコップしか持ってない。ほんの数時間でいきなりこれか……。
彼女たち秘書課にとっては誰の秘書になるよりも、あのかっこいい社長の秘書になることが何よりのステータスだ。近づくには1番手っ取り早い。あわよくば遊び相手でもお手つきになれればなんて思ってるはず。そんな時に社長にゲスト扱いされてる、機械油で汚れたツナギの女がくれば目の敵以外の何者でもない。でもきっと私が秘書課にいたとしても周りの目の敵になるのは変わらないだろう。
社長は好き、だけどこれは本当に面倒くさい。
秘書さんは、水かぶって少しは綺麗になったでしょ? なんでアンタがそのピアス付けてんのよ。似合ってないから外したら? なんて笑いながら私を見下ろしてる。
この人、私がピアスを誰からもらったか知ってる。
「おい! なんだよその言い方」
「ミンス、いい」
ミンスがガタッと立ち上がって声を荒げたが、それを制す。周りの視線もあるから、あまり大事にしないでほしい。
秘書さんはメンテ課の人ってこわーい、社長と大違いねなんて言いながらどこかへ消えた。社長の方が怒らせたら怖い、なんて口に出せない。
「でもよ。その状態じゃ今日仕事できないだろ」
ミンスの言う通りだ。こんなに濡れたら感電する可能性がある。作業着の替えはあってもドライヤーなんて持ってないから、タオルで拭いたとしても乾くまで待つしかない。
立ち上がってとりあえず着替えてくると言って、食べかけのサンドイッチとオレンジジュースを持って社食を出た。
廊下に出る時にダークスーツを着た人とすれ違ったことも、社長の機嫌が悪くなりそうだぞ、と、なんて見られていたことも気づかなかった。
更衣室で予備のツナギに着替える。コップ一杯分の水はけっこう量が多かったみたいで、髪から滴った水で中のTシャツや下着まで濡れてて参った。持ってたタオルで拭くがやっぱこんなものじゃ乾かない。
メンテ作業は諦めて、書類や数値チェックに徹することに決める。Tシャツの替えもあったけど、今日は下着の替えは持ってなかった。胸や肩のあたりが気持ち悪いし、せっかく替えたTシャツも水分が移ってベタついた。
ミンスが心配そうにこちらをチラチラ見ているが気にしないことにする。これ以上余計なことを考えたくない。
18時30分にかけてたアラームが鳴った。もう本当はあまり気乗りしなかったけど、準備して駐車場に行かないと。
社長に誘われるなんてわかってたらもっとマシな格好で来たんだけど、いつもの色気のないパーカーにジーンズ。たとえ色気なんか出せなくてもスーツの方がよっぽどマシな格好だ。
髪は乾いたけど、下着はまだじとっとしてる。何があったか触れないように1度家に寄らせて欲しいって伝えないと。
意外と引きずる性分なのかまた午前中の言葉を思い出して、再び傷がつくほど念入りに手を洗った。
駐車場まで降りると社長の車を探す。離れた場所で車に寄りかかる社長の影が見えた。相変わらず絵になるなぁって思ってたら、別の出入り口から入ってきたらしい女性が社長に駆け寄った。見る限り昼間の秘書さんだ。
スカートまで体のラインが浮き出ているベージュの綺麗なスーツ着ている。背の低い私があれを着たらきっとちんちくりんだろう。アレはあの人だから合うんだと素直に思った。
立居姿も自分がどれだけ美人かちゃんとわかっている人だ。擦り寄るように社長の腕に細い腕を絡めている。
きっとちょうどいいところに社長を見つけて夕食にでも誘っているんだろう。
社長の顔は遠くてよく見えないが、あの2人が本当に恋人同士のようだ。なんだか自分がまったく関係のない人間みたいで、他人事に見えてきた。アレが正しくて、私が間違っている感じ。街中でまったく知らないカップルを、仲良いなと思って眺めているような遠い感じ。
目の前が色あせたように感じた。胸がズキズキする。全身に鉛を抱えたような鈍さが体を重くした。
気づいたら来た道を引き返していて、また整備場に戻ってきていた。
すみません、行けなくなりましたとだけ社長にメールを送ってケータイの電源を切る。社長の目に似た綺麗な青いピアスを外して、ハンカチに包んでジーンズのポケットに入れた。
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Moon Fragrance