ささやかすぎる我儘
整備場をあとにしてエレベーターに向かうために廊下に出ると、社長が私の手を取って顔をしかめた。
「どうしたこの手は」
「えっと、その……」
手を洗う時に力任せに擦って赤い傷がついてる手の甲。
癖になりつつあるなんでもないを言いかけて口を閉じた。さっき話したいと言ったばかりだ。
社長が静かに私が口を開くのを待っている。
「……手の汚れが気になって、過剰に擦りました」
「なぜそんなことをした?」
「ヘリのメンテ中に言われたことがずっと気になって……」
「俺の彼女がそんな汚れた手だったら嫌だ、だったか?」
私はコクンと頷く。息がしづらくて少し大きく息を吸った。
「私はその言葉に近しいことをキミに言ったか?」
「社長は、言ってません……。私が勝手に気にしてるだけです」
「どうでもいい人間の言葉を気にする必要はない」
そう言って社長は慈しむように私の手の甲に唇を押し当てた。
エレベーターが来て手を引かれて乗り込むが、私が黙り込んでるからそれだけじゃないと察したのか言葉を続けた。
「気にしている理由が他にもあるんだろう? 言いなさい」
話し出そうとしてまた社長と言うと、頭を胸に抱き寄せられて違うだろう、と優しい声で囁かれる。
「っ……ルーが綺麗なので……あの秘書さんも、きれっ……服とか手とか、汚さないか……」
社長の腕を絡みつくように触っていたあの美人な秘書さんを思い出して、またボロボロと泣き始める。
社長は私の手をぎゅっと握って、私の瞼に口付けた。
「私はリクの手が好きだ。誇っていい職人の手、リクの好きなことに対するプライドの現れだ。キミのこの手の汚れが移るなら構わない」
社長がそう言ってくれるのは嬉しい。嬉しいけれど、どうにも涙が止まらない。自分でももう、気にしているのはそこじゃないとわかってる。
あの場面を見てからずっと心のモヤモヤが消えない。熱くて、痛くて、苦しくて。やきもちと言えば可愛いが、要はただ嫉妬だ。
社長はふむ、と考える。
「キミはもっと我儘を言うべきだ。私に遠慮しなくていい」
そう言うと何を思ったのか、社長が片膝をついて私の手を取った。
私の顔を窺いながら指先にキスする社長は、本当に絵本の中から飛び出してきたような王子様そのものだ。
「私にして欲しいことはなんだ? どうしたら私の可愛い人は泣きやんでくれる?」
私が泣いてる原因が、手の汚れを揶揄した言葉じゃないと社長は気付いてる。だから私から正しい感情と言葉を引き出そうとしてる。
エレベーターの中なのに……こんなことされたら泣きやむしかない。というかびっくりしすぎて涙が止まってしまった。
涙で歪んだ視界に、泣きやんだ私を見て優しく微笑む社長の顔が映った。
「うで……」
「腕?」
小さく呟いてから私は社長に立ってもらう様に腕を引っ張り上げて、その腕に抱きついた。あの秘書さんが絡みついていた腕だ。シワになるなんて配慮はできなくて、このシワをつけたのは私だと言うように彼女が触っていた袖を両手でぎゅっと握りこんだ。
みっともない嫉妬。私には意を決さないと出来ないことをあの人は簡単にやった。
「ルーに誰も、触って欲しくない、です……」
「それでいい。言わなければわからない」
社長が満足したように私の髪を一撫でしてエレベーターがロビーへ着いた。
その目じゃ外で食事は無理そうだなと言われ、久しぶりに社長のお屋敷にお邪魔することになった。
社長の車に揺られてる最中、本当は危ないって思いつつも私は社長の手を握っていた。社長もまんざらではないようで、私の指をさすったり、ふにふにと揉んだりして家に着くまでずっと触っていた。
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Moon Fragrance