だいじなもの
出張に行く前日の午前。改めて辞令を渡された。辞令 リク・マックハイン 本日付をもって飛空艇ハイウィンド号整備士長を命ずる。
せいびしちょう? 整備士長!? そんな大事なこと聞いてない!
昼になって更衣室に行き、誰もいないことを確認すると思わずルーに電話をかけてしまった。一瞬メールで確認した方がいいかなとも考えたけれど、すでに通話ボタンを押した後で数コール経たずに彼が出た。
『どうした? 声でも聞きたくなったのか?』
明日会えるだろう、なんて言って軽く笑う彼を反射的に無視して言葉を続ける。
「整備士長なんて聞いてないです!」
『珍しくキミから掛けてきたと思えば、そんなことか』
彼は再び電話越しで笑い出した。本当におかしそうに笑い続けている……。
「そんなことかって……」
『リクだからその辞令を出した』
その言い方はとても語弊があるように思う……。
「職権濫用に聞こえますよ?」
せっかく笑いが治まったのに、私のその言葉を聞いて彼はまた吹き出した。私なにか変なこと言ったかな……。
『違う。キミが出す書類や成果、仕事への姿勢、上司などの報告を正当に評価した結果だ』
正当に評価した結果と言われたのは嬉しいけれど、ルーは辞令を覆す気はないと言ってまだ小さく笑っている。どうやら彼のツボに入ってしまったみたいだ……。ひとしきり電話口で笑っている彼の声を聞いていると、落ち着いたのかはぁと溜め息が聞こえた。私はすっかり毒気を抜かれて何も言えなくなってしまう。
『リク』
「はい」
『ミッドガルへは当分の間、帰れなくなるかも知れない。譲れない本当に大事なものがあるなら持ってきなさい』
大事な物……。笑っていた時とは打って変わって大真面目な声に悩んでしまった。
「わかり、ました」
『明日の夜、楽しみにしている』
「へ? 明日ってジュノンでは……」
『ああ、だからジュノンで、だ』
ボッと顔が熱くなって何か言いたいと思ったけれどそれを感じ取ったのか、ではまたと言って切られてしまった。
なんだか最近口癖になりつつある、もー……と言いながらその場にしゃがみ込んだ。仕事に戻るにはこの顔の熱さを引かせてからにしないと……。
5分くらいそのままで、深呼吸してから立ち上がった。軽く顔を洗って鏡を確認する。うん、顔は赤くない。これなら大丈夫そうだ。
栄養補助食品のクッキーを鞄から取り出して、席に戻って食べる。今日は時間配分に気をつけないと。当分戻ってこられないなら今日中にやれることはやりたい。
出発は明日の午後。70階のヘリポートからヘリで1度ジュノンへ。そこが今回の拠点になる。次の日は巡航船に乗ってコスタ・デル・ソルを経由して再びヘリに乗りロケット村へ行く。そこで一泊してから飛空艇に乗って北の大空洞へと向かうらしい。
抱えていた整備が一通り終わって気付いたら21時を過ぎた頃だった。報告の書類関係は明日の午前中にやって、間に合わなければ移動中にやればいいかと考えた。
凝り固まった肩と背中をうーん伸ばす。着替えて帰ろうと、整備場の入り口付近の水道に向かったら彼が来た。
「やはりいたか」
「社長」
「誰もいないんだろう?」
社長が私以外に誰もいない伽藍堂とした整備場を見渡した。
「はい。どうしてここだと?」
「電話をかけたが出なかった。集中していたみたいだな」
「ごめんなさい!」
ルーの電話を無視してしまったことに青ざめて謝る。
「気にするな」
「でも、なにかあったんですか?」
「電話で声を聞いたから会いたくなっただけだ」
相変わらず、私が恥ずかしい事を恥ずかしげもなく言ってのけて心臓が高鳴る。
「もう帰るのか?」
「そうです。……ルーもですか?」
「ああ。送ってやる」
「ありがとうございます。手を洗って着替えてくるので少し待っていてもらえますか?」
わかったと答えた彼がなぜか手を洗おうとしている私の後ろに回った。どうしたんだろう? と疑問に思っていると、ルーがグローブを外すとおもむろに蛇口を捻って水を出し、後ろから抱きしめる様に私の手を包み込んで濡らした。
え、なに? なにしてるの!?
「ルー?」
「じっとしていろ」
ルーはハンドソープをワンプッシュして私の手に塗ると丁寧に洗い出した。泡立てながら指先まで一本一本優しく擦っていく。
石鹸のぬるぬるとした感触とルーの暖かく柔らかい手つきに背中がゾワっとして息が漏れた。
「っ……ふ」
「どうした? 手を洗っているだけだが」
普通の人はこれは手を洗っている“だけ”とは言わない。手の力の強弱を変えてマッサージされている、いや、もうそれ以上で……。ルーからふわっと香るいつもの香水の香りも相まって足腰の力が抜けそうだ。
「腰を抜かすなよ?」
バレているのか耳の近くでそう言った言葉はとても愉しそうだった。
もう手を離してほしいと言おうとしたときに水で泡を洗い流した。さあ終わったとニンマリ笑う彼をムッと見つめた。
「あ、りがと、う……ございます……」
それでも言ったお礼は語尾が小さくなっていった。
「随分と顔が赤いな。なにを想像していた?」
「??っ! 着替えてきます!!」
更衣室へと逃げる。大きく叫んだ声は静かな整備場にとてもよく響いた。
自分のロッカーを開けて、ツナギを脱いで急いで着替える。その間も手に与えられた柔らかな刺激が忘れられなくて大変だった。
今日は買ってもらった服を着てきてよかった。いつものだったら多分落胆されてたと思う。Vネックのオフホワイトのニット。デコルテのラインも控えめだし、動きやすくて1番気に入っている。
少し身嗜みをチェックして鞄を持って戻った。
「お待たせしました」
ああと返事したルーは私の服装を見て目を細めた。満足してくれたみたいだ。
ちょっと待ってくださいね、と言ってケータイ端末で整備場の灯りと空調を落とした。これは1番最後まで残っている人間の仕事だ。フロアの廊下はビルの管轄だから消さなくていい。
「お待たせしました」
「行こう」
彼が歩き出そうとして私を振り返った。なにをしている? という目をしている。後ろからついて行こうと思ったのだが、どうやら隣を歩けということらしい。それを汲み取って隣につくとそれでいいと歩き出した。
エレベーターを呼んで乗り込む。
「その服、似合っている」
「ありがとうございます」
ちょっと気恥ずかしいけど、素直に嬉しい。エレベーターの中で自然に繋がれた手も嬉しい。たださっきの手洗いの事を思い出すのは少しだけ頂けなかったけど。
駐車場に着いて今日も助手席のドアを開けてくれる。降りるときにだって……。いまだに慣れないけれど、ルーファウス神羅に助手席のドアを開けてもらうなんて、他の女性ならなんて思うんだろうか。紳士的でかっこいいとトキメクのか、開けてもらって当たり前と思う人もいるのかな。
私は嬉しいけれど、戸惑いが大きい。今まで自分で乗り降りするのが普通だったから。
ルー自身は当たり前の様に開けてくれたけれど、いつも……と考えていると頭の上に手を置かれてハッとなった。
「今はなにを考えていたんだ?」
優しい声が降ってくる。
「あ、ごめんなさい。またぼーっとして……」
ルーが私を見て柔和に微笑んでいる。
「ドア、いつも開けてくださってありがとうございます」
「これも特別だ」
もしかしたら考えていたことが伝わっていたのかもしれない。小さな声だったけれど嬉しいですと言って、助手席に座らせてもらった。ドアを閉めるときだってちゃんと挟まないか確認してくれるから、本当に優しい人だ。
車に乗ってもルーは私の手を離さない。今日も私のアパートの前を少し通り過ぎて、近くのパーキングへと駐める。玄関までも手を繋ぎながら歩いて、とくに会話はないけれどとても心地よかった。
「今日もありがとうございました。よかったら上がっていきませんか?」
「なら、少しだけいいか?」
「どうぞ」
玄関に入って、何か飲みますか? と聞きながらリビングへ続く廊下を歩こうとして、ルーに腕を軽く捕まれた。
「ここでいい」
「え、でも……」
言いかけたところで口が合わさる。
「んっ、はぁ」
「これ以上入ると、これじゃ済まなくなるからな」
「えっ、あの……」
「つい先日、ちらっと見えたそれが気になっていたんだ」
そう言って彼が指さしたのは玄関ボードに置いてあった、おかあのエンゲージとマリッジリングだ。おかあも製鉄や整備などやっていたからマリッジリングの方は傷だらけで、くすんでいる。仕事のせいかエンゲージの方はつけているのを見たことがなかったから、小さな石もリング自体も綺麗なままだった。
「母のです。高価なものなのでオイルライターのように持ち歩けませんから、出かけるときに目につくここに飾ってるんです」
「そうか。君のお母さんはそれをとても大事にしていたんだな」
そう言ったルーの顔はとても優しかった。
「どっちの指輪が大事だったのか分からないくらい真逆の見た目ですけどね。でも、大事だから置いていたそれは綺麗なままですし、大事だからずっと身につけていたこっちは傷だらけ。私にとっても両方大事なものです」
「大事なものは持ってきた方がいいと言ったが、明日からはどうするんだ?」
「えっ? ああ……考えていませんでした。でも、戻ってこられないわけじゃないんですよね?」
「それはそうだが……ふむ」
僅かに考えて、持ってきなさいと彼は言った。でも、どうやって身につけていればいいかわからない。それをわかった上で、ルーは心配しなくていいと私の頭を撫でた。
「わかりました。そうします」
「今日はもうゆっくり寝なさい」
満足そうに頷くとルーの目が優しく細められ、私の頭を撫でていた手がそのまま降りて頬を滑らせる。
「はい。ルーもちゃんとゆっくりしてくださいね」
「ああ。大丈夫だ。おやすみ」
「おやすみなさい」
「鍵は……」
「すぐに締める」
彼がその通りだと言って二人で笑い合った。
「また明日」
「はい。あした」
静かに出て行く彼の後ろ姿を見送る。静かな音を立てて玄関の扉が閉まった。
明日からジュノンだ。ミッドガルに来るときに一度だけ行ったことがある。あの時は巡航船に隠れて乗っていたから、あまり見て回る余裕はなかった。時々、密航者がいると聞くが、まさか自分もそうだったなんて一生誰にもいえない秘密だ。
仕事で行くのだけれど少しくらいなら見て回れる時間はあるかな? 支社があるのと大きな砲台があるから上の街は要塞の様だけれど、通り過ぎただけでもいいなと思うお店はいくつかあった。
少しは気晴らしになるような楽しいことがあればいいなと考えながら、お風呂に浸かりベッドに入った。出張の準備はもう済ませてあるから本当にゆっくり寝るだけだ。明日は少し早めに出勤して、書類を仕上げようと眠りについた。
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Moon Fragrance