Moon Fragrance

安心に包まれて
02



 テーブルのところまで戻ると、ルーがわざわざ椅子を引いてくれる。

「ルー? 別にここまで……」

 してくれなくてもいいんですよ、という言葉を飲み込んでしまう。ルーの目が折れる気はないという眼差しをこちらへ向けていたから。
 そのままお礼を言って甘えさせてもらう。椅子へと腰掛けるときにテーブルの方へと押してくれた。そして私の手元近くのテーブルに私のケータイ端末を置いてルーも目の前の席へと腰掛けた。

「返しておく。中は見ていない」
「え?」
「電子ロックを解除されたらどうしようもないと思っただけだ」

 いいんですか? まだなにかあるかも知れませんよと悪戯に言う。それに彼は、ないなと真っ直ぐな目で言い切った。

「なぜそう思うんですか?」
「今はもう理由がないだろう」

 そうですねと笑いかけると、ルーはふっと鼻で笑った。
 いただきますと揃って手を合わせて食事を始める。サラダと脂身の少なめなチキンソテー、トマトのスープと付け合わせのバゲットにデザートのゼリー。
 談笑しながら食べ進めていく。ルーはなにか思うところがあったのか、少し口を閉ざした後に重苦しそうに口を開いた。

「食事は頼んでいたみたいが、あまり食べていなかったと聞いた。すまない」

 だから比較的食べやすそうなものを。今日の献立はきっとあまり食べなかった私に、重いメニューは厳しいだろうと配慮してくれたものだと思う。

「謝らないでください。自分で蒔いた種ですから」
「本当にリクには驚かされる」

 スープに付け合わせのバゲットを千切りながら困り顔で彼はそう言った。

「両親にも同じこと言われてました」
「だろうな。オレもこんなにやんちゃだとは思わなかった」
「心臓がいくつあっても足りませんよ?」

 冗談で悪戯そうに言うとルーが笑う。

「だが、悪くない」
「ホントですか?」

 デザートの冷たいゼリーを食べながら聞くと、優しい声でああと返ってくる。その声が心地よくて、自然と顔が綻んだ。
 ゼリーはレモンゼリーのようで、淡い酸味と微かな甘味が爽やかで美味しい。また今度、これだけでも頼めないかなと考えていると、すっとまだ手をつけていないゼリーを差し出される。

「オレのも食べるといい」
「でも……」

 ルーのなのにと躊躇っていると、気に入ったんだろう? と言われてコクンと頷く。

「なら気にせず食べろ」
「ありがとうございます」

 彼はそれでいいと言って満足げに微笑んだ。ありがたく頂くことにする。透明の綺麗なゼリーをひと掬いして口に入れるとサッパリとした味がやっぱり好きだ。ルーの目が優しく細められる。

「で? 今日したいことは決めたのか?」

 ルーが食後のコーヒーを口元に運びながらそう聞いた。また少し考えてしまう。

「んー。シャワーの時も考えていたんですけど……」

 言い淀むと彼が、そういうことかと呟いた。私がなかなかシャワーから出てこなかった理由を察したのだろう。少し照れくさくてはにかんでしまう。

「私、ルーとゆっくりしていたいです」
「それは……オレの」
「そうです。ルーにゆっくりできる時に、ゆっくりしてほしいだけです」

 ルーが呆れた顔で溜め息をついた。なにが言いたいのかはわかっている。自分のことを考えろって。それでも私は彼のことを考えたい。ルーが私のことを考えてくれているように。

「だって、ルーはどうしたいんですか?」

 ゼリーを食べ終わったスプーンをテーブルに戻す。テーブルに両手で肘を置いて頬杖をつくと首を傾げた。

「リクの我儘を聞きたい」

 ルーも片肘に頬杖を突いて私を見つめる。片方の口の端を上げて、涼しげな青い瞳はもう答えはわかっていると言っているようだった。
 私は椅子から立ち上がって彼の側までいくとルーの手を取る。珍しくルーを見おろす形になった。

「それなら……」
「わかった」

 ルーが私を見上げて、綺麗な大きな手で頬を包んだ。温かくて心地いい。

「折れない信念を持ったいい女だ」
「頑固って言うんですよ」

 悪く言えばなと、ルーが目にかかる前髪を掻き上げて珍しく声を上げて笑い出した。青い瞳が細められて私を真っ直ぐに見る。

「どうする? 午後は長いぞ?」
「考えたんですけど……なにも思いつかなくて」
「ならチェスにでも付き合ってくれ」
「教えてください……」

 やったことがないのでと少ししょんぼりして伝えると、わかったと優しく頷いてくれる。
 そう難しくはないと、テーブルに置かれている食器などをホテルの人に下げてもらってテーブルの上にはチェスボードと駒が乗っている。
 ひとつひとつの駒の役割や動きを教えてもらう。これが難しくないのはきっと戦術を考えることに長けているからで、最初は頭の中で駒の動きを思い出しながら進めるので精一杯だった。
 とくにポーンの動きが不可解で、最初の一手は2マス動けるくせに、相手の駒を取るときは斜めにしか動けない。どうしてこんな動きをさせようと思ったの……。
 ぶつぶつと駒の動きを口から漏れさせている私をルーが面白そうに見ている。

「次の手がダダ漏れだぞ?」
「え? あっ……」
「楽しめているか?」

 私が頭を悩ませていることにルーが訝しげに聞いた。そんなに難しそうな顔でやっていたのだろうか。

「楽しいですよ。回路を組み立てるみたいで」
「そういう例えをした人間はリクが初めてだ」

 ルーが可笑しそうに肩を震わせている。
 相手の駒の動きに合わせて自分の駒を動かすのは、なんだかパズルをしているような気になってくる。
 初手から定石と呼ばれる決められたような動きがいくつかあり、そこから盤を展開させていく。それらをルーの駒の動かし方からなんとなく読み取れた。
 彼がすごく手加減をしてくれているのがわかる。どう動かせば最善になるのかを盤面で教えてくれているから、少しずつ要領がわかってきた。

「あの、私を相手にするには不足過ぎると思うんですが、ルーは楽しいですか?」
「もちろんだ。飲み込みが早くて驚いている」

 褒めてもらえたのが嬉しくて顔が自然と笑みを浮かべる。それをルーが優しい目で見た。
 その後もたまにここはこうした方がいいと、言葉も挟んでもらいながら覚えていく。
 何度か対局を重ねながら私の口がぶつぶつと言わなくなったころ、打っているルーの雰囲気と進め方が変わった気がした。でも私の視線と思考は完全に目の前のボードに注がれていて、顔を上げる余裕はなかった。集中を切ることが出来ない。
 あ、あれ? これ以上、どこに……? 私の番なのに有効な手が打てない。
 盤を見ると駒を動かせる場所がない。そこでプツンと音が鳴るように集中が途切れてしまって、きょとんとルーを見る。目の前で彼が背もたれに背中を預けて、天井を見上げて大きく息を吐いた。

「ルー?」
「ステイルメイト。要はドローだ」

 ということは引き分け……。ルー相手に引き分け? 私が? すごいことなのでは。
 目をパチパチとしばたたかせていると、ルーが小さくすまないと言った。どういう意味かわからず首を傾げる。

「ステイルメイトにわざと持ち込んだ」
「そんなこと出来るんですか?」
「まあな」
「でも、どうして……」

 聞くとやれやれと言ったふうに、小さく首を横に振るルー。

「悔しいが負けると思った」
「え!? ルーが私に、ですか? そんなの……」
「あり得たからこうした。本来なら花を持たせてやるべきだったんだが……」
「負けず……嫌い……?」
「その通りだ。途中でコンピューターと勝負している気になってきた。驚いたことにリクは教えた手を全て把握している。まさか、たった数時間で手加減が出来なくなるとは」

 ルーはかっこ悪いな、と言って再び駒を並べ始めた。ナイトの駒を指でくいくいと振りながら私を見る。

「オレが強制終了させといてなんだが、もう一戦するか?」

 ぼーっとしていたみたいで、リク? と問いかけられる。はっとなって首を横に振った。集中しすぎて頭が働いていないみたいだ。

「すみません。もう集中できそうにないです。思った以上に頭を使ってしまったみたいで」
「わかった。ならば休憩しよう」

 ルーが立ち上がって、私の手を引いてベッドへと連れて行く。横になってここに来いと言うように腕を広げた。それに甘えて腕の中に収まる。

「たまにはゆっくり昼寝も悪くない」

 私を抱きしめて髪を撫でられると気持ちよくて、疲れた思考がうとうとし始める。

「思わず本気になるほど楽しかった。また付き合ってくれ」
「私でよければ」

 頼むと言ったルーの呼吸もゆったりとし始める。リクは心地いいなと言ったのを最後に2人で昼寝をした。次はいつこんな日が来るのだろうか。
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