Moon Fragrance

心配事はひとつじゃない
01



 あぁ、また逃げてしまった。フロアの廊下を走って後悔する。
 どうして社長から逃げたくなるんだろう。わからない。もう構わないで欲しいという気持ちに、また声を聞きたいという気持ちが芽生えてきている。

「おーいリク!」

 廊下の向こうでミンスに呼びかけられて我に返った。

「無事か! よかった。怪我は?」
「ない。ありがとう。ミンスは?」
「オレも大丈夫だ。タークスに助けられた」
「そっか。よかった」

 タークスってなんだと疑問に思ったが、まだ他のことを考えている余裕がなかった。

「本当に大丈夫か? 震えてるぞ」
「ねえ、タバコ持ってない?」
「あ、あるけど……」
「お願い一本ちょうだい」

 タバコを一本受け取って近くにあった喫煙ルームに入った。
 ポケットからオイルライターを取り出して咥えると火をつける。ゆっくり大きく吸って肺の中に煙を満たした。
 少しだけ落ち着く。

「お前タバコ吸わないのになんでライター持ってんだよ」
「私のじゃない。父親の形見。あと今は吸ってないだけ」

 喫煙ルームに設置された灰皿と分煙機の一体型の台に手をついて下を向く。落ち着きはしたけど震えはまだ治らなかった。
 もう一度、吸い込むと胸のあたりに激痛が走って思いっきり咳き込んだ。咳き込むたびに痛い。そのままポトリとタバコを落とす。
 落ち着いたことで痛みが戻ってきたらしい。私はそのまましゃがみ込んで膝を抱える腕の中に顔をうずめた。

「おい、本当に大丈夫か?」

 そう言って心配そうに私の右肩に手を置いて覗き込んだ。手を置かれた肩にも熱が迫るような痛みを感じた。

「いっ!」
「悪い! って、お前怪我してないって……」
「怪我はしてない。痛いだけ」
「物は言いようすぎるだろ。肋骨折れてんじゃないの? 肩も痛いみたいだし。タバコなんて吸ってないで医務室行けよ。誰か呼んでこようか?」

 ミンスが横でおろおろとしている。

「ねえ、なんか喋って」
「なんかって?」
「なんでもいい。気が紛れること」
「え、ええ……ええと、あ! なあお前とルーファウス社長ってどんな関係?」
「は!? ゲホッケホッ」

 気が紛れるどころか思いっきりむせて痛みが走る。

「いったた……」
「おぉ、悪い……背中、はさすらないほうがいいか。痛いよな?」

 なんでわざわざこのタイミングでその質問。どんな関係? 関係って雇用主と平社員。それ以上でも以下でもない。
 そうだよ。さっき私を助けてくれたのは私が危なかったからだし、耳元で無駄に囁かれたのもきっと面白がってただけだ。そうに違いないと言い聞かせる。なにを勘違いしそうになっているのか。
 ……そう考えたら、なぜか胸がモヤッとした。
 いつものように思考を飛ばしていたら質問されてたんだと思い出して我に返る。少し調子が戻ってきたかな。

「リク?」
「どんな関係でもない。雇用主と平社員だよ」
「そうか……いや、さっきの見てたらすげー恋人みたいだったってか……あ……なあ」
「なに?」
「オレ、今すっげえ睨まれてるんだけど」
「誰に?」
「誰にって、話題の人……」

 え……。うずめてた顔を上げて喫煙ルームの窓の外を見ると青い宝石のような目がじっとこちらを見ていた。
 確かにこれは怒ってる、というか本当に睨んでるとも取れる……。
 どう、すれば、いいのか。これは本当にわからなくて正に蛇に睨まれたカエルだ。

「なあ、行けって」

 そう言って促すようにミンスが触れた肩に激痛が走ってまたうずくまる。それに気づいた社長が喫煙ルームの中に入ってきた。

「あっ、悪い! わざとじゃ……」
「リク、どこが痛む?」

 社長はわざわざ両膝をついて腰を曲げて私を覗き込んだ。服が汚れてしまうからやめてほしいなんて思いながら、嘘をつく。
 痛みで自分の額に脂汗が浮いてることは気付いてるのに。

「だいじょうぶ、です……」
「その状態でその返事を誰が信じる」

 呆れたようにため息をついて、俯く私の顎を指ですくいあげた。

「……っ」
「私の目を見ろ。どこが痛む?」

 ああ、こうなったらもう目を逸らせない。透き通る青い目には心配と怒りが混ざっている。

「みぎかた、と……せなか……で……」

 催眠術にかけられたように口が動いた。痛みで語尾が小さくなる。
 社長はケータイ取り出して何処かにかけると47階喫煙ルームに負傷者1名、医療班と担架を頼むと短く要件だけ伝えて切った。

「もう少し我慢できるか?」

 私は断続的に続く経験したことのない痛みに、もう頷く気力しか残ってなかった。

「キミ、この階の倉庫に彼女の盗まれた備品が隠されているらしい。回収してきてやってくれないか」
「わ、わかりました。リク、ちゃんと診てもらえよ。そ、それじゃあ失礼します」

 そう言ってミンスは出て行った。

「さっき床に叩きつけられたせいで骨が折れているのか。痛いだろう少し眠るといい」

 少し朦朧とした意識に低く優しい声が響くと淡い緑の光が私の視界を包んだ。そのまま視界が暗転する。社長はどうやら私にスリプルの魔法をかけたみたいだった。

『ほらリク、ちゃんと――くんに挨拶しなさい』

 う、ん……? 声が聞こえる。すごく心地いい懐かしい声。

『……』
『ごめんね――くん。リクったら恥ずかしがっちゃって』
『大丈夫ですよ。こんにちはリク。あっちで一緒にボクとお話ししよう』

 誰……? 顔が見えない。あなたは誰なの? 名前は?

『じゃあリク。おとうとおかあはお仕事の話をしてくるからいい子にしてるのよ。今日は工場に入ってきたらダメだからね』

 おかあ? まって……。私も行く……。

『なあリク。今日はなにを考えてるんだ?』
『リク。この本をキミに――』

 本? そんなの、誰かにもらったっけ……。

『リク――』『――』

 男の子の声が頭の中をこだまして突然視界が白く弾けた。
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