すべり落ちた雫
――愛している。
暗くてなにも見えない。自分の手を近づけても、全く見えないほどの真っ暗闇。
深い深い意識の水底から、とても甘く、とても優しく、とても切ない声が聞こえてくる。誰なのかわからない。知っているようで知らない声。思い出せない。
水面を揺らす波紋のように広がって、凪いで、消えていく。その声はとてもざわざわするの。何度も繰り返し語りかけてくるの。
心の底から。
――愛している、と。
雨の音が鮮明に聞こえて目が覚めたら、薄暗い部屋の知らない天井。短くて長い、甘くてつらい夢を見ていた気がする。
なぜだか痛い頭と体。でも大きな怪我をしているわけじゃなさそうだ。痛い首を少し捻ると簡素なベッドの上に寝ているのがわかる。右手には点滴のチューブが繋がっていた。
外からざあざあと大雨が降る音が聞こえてくる。時折窓の桟に大きな粒が当たって、トコンと音を立てた。
ポタリポタリと落ちる点滴の液を止めて、いいとも言われてないのに針を抜いた。痛む体を庇いながらのそっと立ち上がって、閉まっていたカーテンを開けて外を見る。
「なに、これ……」
外はめちゃくちゃに荒れていた。雨が降っているからじゃない。まるで竜巻が吹き荒れたような、大地震があったような、天変地異が起きたような惨状。ここから見える建物の殆どが半壊している。
私が寝ている間に何が起こったの?
戸惑っていると、すっと目線が、窓に映る自分の顔にいった。
「青いピアス?」
私、こんなピアス知らない。いつもシンプルなシルバーの丸いピアスをしていたはず……。いつの間にこんな綺麗なピアスが?
そして胸元へも目が行く。青い宝石と赤い宝石のついたネックレスが首から掛かっている。それに重なるように革紐が見えて、病衣の中から引っ張り出してみると、亡くなったおかあの婚約指輪と結婚指輪が通されていた。
おかあの指輪は私の家の玄関のボードの上に置いていたはずだ。なぜネックレスに? それにピアスと一緒でこの青と赤の宝石のついたネックレスも知らない。
ここは、どこ。外の惨状はどういうことだ。何かがおかしい。何だろうこの違和感は……。
モヤが掛かったような頭の整理がつかなくてぼーっとしていると、静かだけれどハッキリとしたノックが聞こえた。返事もできずに振り返ると、ドアが静かに開いて車椅子に乗った男性が入ってきた。
白いジャケットとスラックス、黒いワイシャツのコントラストがよく似合っている。彼の頭や首、ワイシャツから覗く胸元には包帯が、足にはギプスが巻かれていた。その怪我はきっと外の惨状と関係があるのかもしれないと思った。
オールバックにした金糸のような柔らかそうな髪と、目から覗く宝石のような青い瞳が印象的な細身の男性。整った顔はよくできた陶器の人形みたい。モデルのようでとても女性にモテそうな、いわゆるイケメンと言われるような人だ。
その人は私を見て口元に弧を描いた。
「目が覚めたんだな、リク」
私の名前を安堵の表情でとても愛おしそうに呼ぶ。
この人は私のことを知っている。だけど私は、この人を知らない。こんなにかっこいい人なら多分記憶に残るだろうけれど、そんな記憶に辿り着けない。
「ビルには近づくなと……リク?」
目の前の男性は、ぼーっとしていつまでも反応のない私を、訝しげな表情で心配そうに呼ぶ。
「どなた、ですか……?」
不思議な違和感を抱えたまま、疑問を拭おうとして私が口を開くと、その人は驚きで目を見開いた。その後すぐに困惑した笑みを浮かべた。
場違いにも、とても表情が豊かな人だと思った。
「冗談だろう? リク。オレがわからないのか?」
男性が車椅子を操作して私の前まで来た。青い瞳が私を推し量るように見ている。なんだか胸がざわざわする。
その人は私の左手をとって、手の甲をすっと優しくひら全体で撫でた。びっくりして手を引っ込めると、綺麗な青い瞳が雫のように悲しげに揺れた。
「ルーファウス神羅。神羅カンパニーの社長だ。キミの……いや」
まだ何か続きを言いかけて、目の前の彼はそこで区切った。
社長? ルーファウス神羅って確かプレジデントの……。社長ということは、プレジデントは? 私、仕事は? どうしてそんな人が私を知っているの?
疑問だけが増えていく。理解ができなくてただただ瞬きを繰り返した。
ガタッと大きな音に身を竦めると、怪我が痛むのかルーファウスと名乗った人は、苦しそうな呻き声をあげて私をキツく抱きしめた。前のめりに倒れた車椅子の後輪がカラカラと虚しく回っている。
「あ、の」
「リクっ……」
震えた声で私の名を呼ぶから、深呼吸が必要なくらい胸が締め付けられた。
「なにかありましたか!」
さっきの車椅子が倒れた大きな音を聞きつけたのか、真っ黒く長い髪が特徴の、ダークスーツを着た闇というに相応しいくらいの男性が、銃を携え慌てた様子で入り込んできた。
今にも人を殺しそうな険しい顔で入ってきたから余計に身が固くなった。
「リクさん。よかった、目を……」
ルーファウスさんに抱きしめられる私を見てこの人も安堵の表情を見せたけれど、様子がおかしいと気づいたのか訝しげな顔をして言葉を切った。
なにが可笑しいのかわからないけれど、ルーファウスさんがくっくっくと喉を鳴らして笑い出す。
「私がわからないらしい」
入ってきた彼に言ったのだろうその声は、面白いという言い方じゃない。完全なる嘲笑の声だった。
私を抱きしめて痛みに呻きながら笑っている。
「社長、とりあえず座ってください。彼女が戸惑っています」
ダークスーツの男性が車椅子を立て直して、ルーファウスさんを私から引き剥がすと車椅子に座らせた。ルーファウスさんは手で顔を覆ってまだ笑っていた。
私は何をするのが正解なんだろう。
ダークスーツの男性が横目で私を見る。
「タークスのツォンだ。私のことも?」
問われて困ってしまい、思い出そうと頑張ってみたけれど私は首を横に振った。彼も嘆息を漏らして、少し待っていてくださいと言い残し、ルーファウスさんの車椅子を押して出ていった。
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Moon Fragrance