Moon Fragrance

拭えない警戒心
02



 次の日、朝から食事を作って、それが終わると患者さんたちのところへ行く。昨日の夕方に降り始めた雨は、弱まることも強まることもなく降り続けていた。
 様子を見ながら包帯が汚れている人のものを変えていると、フィルさんが近づいてくる。

「マックハインさん、手伝いますよ」
「ですが……」
「弟も見ていたんです。やれますよ」
「なら、そちらの壁際にいる人たちからお願いします」

 フィルさんがわかりましたと言って、指示通りに包帯を変えていってくれる。私も彼も最後の1人が終わって、フィルさんが人懐っこそうに終わりましたよと報告してくることに本当に警戒しすぎだったのではないかと考えてしまった。
 森の中までついてきたのは私が1人で本当に危ないと思ったから? 完全に気を許したわけではないけれど、ヘリに関しては心配なさそうだと思った。

「あの、マックハインさん。昨日の頭痛、大丈夫でしたか?」

 患者さんたちがいるロッジから出ると、フィルさんがそう聞いてきた。フィルさんは私が記憶喪失であることを知らない。あの頭痛はきっと、なにかを思い出しそうな兆候なんだろう。この先もなにかを思い出しそうになるたびにあの頭痛を感じなければならないのかと思うと、少し嫌になった。でも私は、この頭の中のモヤをいい加減に払拭したい。

「……大丈夫ですよ」

 そう答えるしかない。あの痛みは一過性で、いつ思い出しそうになって痛むのかもわからないのだから。

「それなら、いいんですけど。もしなにかあったら言ってください。……なにも、できないかもしれませんけど」
「はあ」

 気のない返事しかできなかった。

「マックハインさんは、怖くないんですか? あの病気」
「怖くないと言えば嘘になりますけど……」

 全身、もしくは膿の出る部分が痛んでいるみたいだ。普通の膿ならまだしも、出るのは黒い液体。あれは一体なんなのだろう。

「感染るんですかね」
「感染らないと思います」
「どうしてそう思うんですか?」
「現に私も、フィルさんも感染ってないですし、それよりもっと前にいろんな人と接触しているはずのタークスのみなさんも、あの病気には罹っていません」

 そこまで言うと、フィルさんは不思議な顔をして私を見ていた。この顔はなんと表現すればいいのだろう。そうだ、なにかいいものを見つけたとき。いわゆる、感動? なぜ?

「あの……」
「名前!」
「なまえ?」
「初めて呼んでくださったと思って!」

 顔を少し近づけてきて、とてもグイグイ来る人だ。記憶がなくて覚えていないせいもあると思うけれど、村を出てからあまり人と話さなかった私は思わず1歩後ずさってしまう。それに気づいたのかフィルさんがごめんなさいと謝って離れてくれた。
 たまにいる距離感の近い人。でもイリーナさんと違うと思うのは、なんでだろう。

「もう少し、お話を……」

 したいんですけどとフィルさんが言ったところで、私の携帯端末が鳴った。断りを入れて出るとレノさんだったが、その電話を掛けてきているレノさんは黒い傘を差して少し向こう側に立ってこちらを見ていた。

「そこからなら、話しかけてくださればよかったのに」
『電話のほうが――』

 電話越しにも話しながらレノさんが近づいてくる。

「――話を中断させやすいだろ?」
「今日は雨なので整備は……」
「ロッジに戻ってろ」

 訝しげにレノさんを見ると、持っていた傘をずいっと渡されて早く行けと言われた。仕方がないからその傘を受け取って、言われたとおりにロッジに戻った。
 ダイニングの椅子に座った数分後、レノさんが戻ってくる。

「姉ちゃん、あの男に興味あんのか?」
「へ? いえ、全く」
「それならいいけどよ、あの男はやめといた方がいいぞ、と」

 言っている意味がわからなくて、私はじっとレノさんを見つめてしまう。そんな私を笑って、姉ちゃん男慣れしてねえだろと言った。確かにそういう浮ついた話なんてひとつもないけど、大きなお世話だ。ムッとして口を引き締めると、レノさんがゲラゲラと笑い出す。

「あの男、距離感ちけえだろ。めんどくせえタイプだ。気をつけろ」
「気には留めておきます」

 そう言うと満足そうに頷いたレノさんは、また見回りに行くと言ってロッジを出て行った。
 ――ま、姉ちゃんが誰かに惚れたら困る人がいるからよ。
 なにか呟いた言葉は私には聞こえなかった。
 5日目の朝、今日も雨は降り続いていた。スッキリしない天気と湿気は、未だになにも思い出せない私の頭の中のようだった。今日も、患者さんの様子を見に行こうとロッジを出るとフィルさんがいた。
 
「おはようございます!」
「お、おはようございます……」

 昨日、昼間にレノさんに言われた言葉が引っかかって少し距離を取ってしまう。というか、気をつけろもなにも、フィルさんがこうなんだからどうしようもない。

「今日も手伝おうと思ったんですけど、いいですか?」

 それにこう言ってもらえるのは正直ありがたい。たまにイリーナさんが手伝ってくれるけれど、基本的に彼女たちは任務で出払っていることが多いから毎日という訳にはいかなかった。

「昨日の人って恋人ですか?」
「は!?」
「あ、その反応は違うんですね。よかった。マックハインさんに近づくなって言われて、そうなのかなって思ったんです」

 レノさんは一体、なにをどう言ったのか……。
 その後、患者さんの包帯を替え終わって、またそのロッジの前で話していた。これはどうやって気をつけた方がいいのか、私には対処の方法がわからない。そもそも、こんなに人懐っこくグイグイ来る人に会ったのは初めてだった。
 少し困りながらも返答を続けてしまう。

「マックハインさんって恋人はいらっしゃるんですか?」
「……いない、です」

 その答えに小さくてもたぶんと付け加えてしまったのがいけなかった。聞き取れてしまったのか、たぶんとはどういうことかと質問が飛んできた。それにポロッと答えてしまうなんて、私もバカだと思った。

「事故で記憶がないんです。ここ半年くらいになにがあったのか、聞いた話でしか知りません」
「じゃあ、僕にもチャンスがあるかもしれないんですね」

 チャンス? なんのチャンスだろうと考え込む。

「僕、ずっとマックハインのことが気になってて……、その……」

 そういうことか。とても申し訳ないのだけれど、頭の中に一瞬間、面倒だという気持ちが芽生えてしまった。
 自分の記憶がないことも、大好きだった仕事を半ば嫌々にやっていることにも悩んでいるのに、そんなことにかまけていられない。それに、私自身に確認するけれど、私はフィルさんに全くの興味がわかなかった。
 そろそろ話を切り上げてロッジに戻りたい。

「友達から……」
「……マックハインさん」

 呼びかけられてそちらを見るとルードさんがいた。正直、いいタイミングで助かったと思った。いつもリクさんと呼んでいるのに、配慮してくれたのが嬉しい。話があると静かに言われてロッジの方へと向いた。

「フィルさん、失礼しますね」
「は、はい」

 フィルさんはここでもしょんぼりしたように、話をやめた。
 傘代わりにとルードさんがスーツのジャケットを貸してくれた。昨日も今日も、少しの距離だからいいだろうと傘を差さずに走ってロッジの間を移動していた。遠慮しても引かない彼のジャケットを借りて走って戻った。

「ありがとうございます」
「……うむ」
 
 濡れてしまったジャケットをはたいて返すと、ルードさんは静かに頷く。
 ロッジに戻ると全員集まっていた。ツォンさんが私の姿を認めて話し出す。

「キルミスターがやっと社長の居場所を吐いた」
「本当ですか!」
「我々で迎えに行ってきます」
「私も……!」

 行きたいというと、ツォンさんは首を横に振った。

「ロッジで待っていてもらえると助かる。ここから誰もいなくなるのは避けたい」
「リクさん、社長は元気だそうですから。心配しないで待っていてください」
「それに姉ちゃん連れてったら、俺たちが怒られちまうぞ、と。アンタを危ないところに連れてくるなってな」

 なにを言ってもダメなのだと私は黙ってしまう。渋々了承してロッジの中で待つことにした。
 明日は患者の様子は見に行かなくていいこと、ロッジから1歩も外へ出ないこと、言われた合図以外のチャイムには反応しないこと、窓も開けるなとまるでお留守番をする子供のようにキツく言い聞かせられた。挙げ句の果てにレノさんなんて。

「友達でもダメだからな、と」
「子供じゃありません!」
「アンタ、たまに無茶するから信用できねえんだよ」
「私、失ってる記憶の中で一体なにしたんですか?」
「……言えないな」

 ルードさんまでサングラスのブリッジを押し上げて頷いて言った。自分がなにをしてきたのか凄く気になるけれど、そこまで言われるほどのことをしたのかと溜め息が出た。
 みなさんが窓などの戸締まりを証明できるように一通り確認して、出たらすぐに玄関の鍵も閉めてくれと言ってトラック2台で出かけていった。言われたとおりに鍵を掛けて、することがないのでシャワーを浴びてから2階の自室へと上がった。
 ルーファウスさんに会えたら、お礼? 謝罪? 体調の気遣い? 全部言いたい。全部言いたいけれど、まず最初になにを言えばいいのかな。話すことが苦手な私には言葉が見つけられない。しかも兆候はあれど、まだなにも思い出していない。
 悶々とベッドの上で膝を抱えて考えていたら、どんどん日が沈んでいく。そして頭の中で堂々巡りを繰り返しながら、夜が明けた。
 降り続いていた雨は、いつの間にかやんでいた。
 ツォンさんたちは、ルーファウスさんに会えただろうか。いつぐらいに戻ってくるんだろう。落ち着かなくて自分の部屋からリビングに降りて、ぐるぐる歩き回ってまた自室へと戻る。何度かチャイムが鳴ったけれど、あれだけ言いつけられたので無視を決め込んだ。
 たまに座ったり本を手に取ってみたりもしたけれど、結局は立ち上がってもう何往復したのかわからない。
 昼を過ぎた頃、遠くの方でトラックのエンジンの低い唸りが聞こえた。鍵は開けないけれど玄関の前まで駆け出す。ずっとドアの前でソワソワして合図通りのチャイムが鳴った。
 間髪入れずに勢いよくドアを開けると、みんな驚いた顔をしていた。ツォンさんの後ろにルーファウスさんがいて、彼の表情がすぐに柔らかくなった。
 一言目は考えていたはずなのに、出てこない。開きかけた唇はワナワナと震えだし、目の前が滲んでいく。
 ツォンさんが仕方ないというふうに苦笑して横に避けると、ルーファウスさんが1歩前へ出て人差し指の間接で私の頬をすっと撫でた。宝石のように透き通った綺麗な青い瞳が、真っ直ぐに私を見ている。
 久しぶりに聞いた優しく低い声が、私に言った。その声はなぜか、乾いた地面に水が染みこむように、私の中に入り込んできた。

「ただいま。リク」
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