Moon Fragrance

噛み合わないふたり
01



 久しぶりに聞いた優しく低い声が、私に言った。それは、乾いた地面に水が染みこむように、私の中に入り込んできた。

「ただいま。リク」
「おかえり、なさい、です……」

 涙があふれて、震えた声をなんとか絞り出す。それを見てルーファウスさんがふっと微笑んだ。
 ルーファウスさんの親指の腹が、私の唇をなぞる。それにドキッとして息が詰まった。今のルーファウスさんの仕草に、またデジャヴを感じた。

「言いたいことが沢山ありそうだな。少し部屋で待っていてくれるか?」

 もう声も出なくなって、大人しく頷く。

「早く中に入ってくれよ、と」

 ぼーっと見上げていたら、後ろの方でレノさんの声が聞こえてハッと我に返る。私が玄関を塞いでいるのを思い出した。

「ごめんなさい」

 涙声でそう言って中に入る。全員中に入るとツォンさんが外を確認してドアを閉めた。私はルーファウスさんに言われた通り、与えられている部屋に戻って待つことにした。
 久しぶりに見たルーファウスさんは少し痩せていた。真っ白だったスーツも、外で過ごさせられていたせいか、すっかり白とは言えなくなっている。柔らかそうだった金糸のような髪もパサつき、伸びていた。
 少し報告も受けてくるとは言っていたけれど、なんだか緊張して少しの時間がとても長く感じた。ほんの数十分の話なのに、そわそわして午前中のように部屋の中をうろうろとしていた。
 静かにドアがノックされて、また勢いよくドアを開けてしまうと松葉杖をついたルーファウスさんがクスッと笑った。なんて、優しく笑う人なんだろう。
 ぼーっと見つめていると、ルーファウスさんが優しく私の頬に触れた。やっぱりわからないのは、ここまでの彼から感じる優しさの正体で。わかるのは、決して嫌ではないということだった。

「どうぞ」
「すまない」

 私は道をあけて、椅子はないのでベッドに座ってほしいと促した。ゆっくりだけれどしっかりとした足取りは、怪我はもう完治に近いのだと思った。
 ルーファウスさんはベッドに腰掛け、私は突っ立ったまま言葉を探す。悩んだ結果、出てきた言葉はこれしかなかった。

「ごめんなさい。私の、せいで……」
「リクならまず、そう言うと思った。とりあえず、キミも座りなさい」

 そう言われたものの、躊躇ってしまう。どこに? “社長”の横に……?
 迷う私を見て、ほらと促す。私はおずおずと、少し間を開けて隣に座った。ルーファウスさんは何故か寂しそうにそれを見た。胸がぎゅっと苦しくなった。
 沈黙が私たちの間を包む。ルーファウスさんは私の言葉を待っているようだった。私を意を決して重い口を開いた。

「ごめん、なさい……。私、あのとき……」
「謝らないでくれないか。怪我をしている私がリクを守る方法は、あれしかなかった」

 ルーファウスさんが私の手を両手で取って、甲をすっと撫でた。包み込まれた手は温かい。

「でも、なにか……っ!」

 ルーファウスさんが静かに首を横に振った。私の頭によぎったのは、足手まとい……。
 私、どういう顔をしていたんだろう。ルーファウスさんが、私の顔を見てしまったといった顔をした。

「余計なことを考えなくていい」

 私の手を握る力が強まって、焦ったようにルーファウスさんがそう言った。

「時間が惜しいと護衛をつけなかったのは私の落ち度だ。それに、私を連れ去った男は元軍人だった。リクが記憶を失っていなくても、怪我をしていなくても、なにも出来なかっただろう。私はあのときリクが、ちゃんと言うことを聞いて、無事でいてくれたことの方が嬉しい」

 ルーファウスさんの声は、まるで言い聞かせるようなものだった。私に気負わせないための配慮。
 どうして、どうしてこの人はこんなにも、優しくしてくれるんだろう。ただの一般社員だったはずの私。記憶を失くして、しかも好きなことに対する気力すら削がれてしまった私。
 今の私は、なんの役にも……立たない。ルーファウスさんは私のなにを必要としてくれているのか、全く思い当たらない。ただただ、罪悪感だけが募っていく。
 この優しさに、私はなにを返せばいいの? なにを返せるの?
 泣けばただの面倒な女だ。我慢……、しようとすればするほど、目の前が滲んでいく。俯いてあふれそうになる涙を隠そうとした。

「笑ってくれないか。私はキミを守れて満足している」
「ルーファウスさんは、私なんかより、大怪我をしていたのにっ……!」
「そこまで思い詰めるのなら、ひとつだけ頼みを聞いてくれ」

 なにかできることがあるのかと思い顔を上げると、ルーファウスさんが困ったような顔で私を見ていた。目が覚めたあの日にも思ったけれど、表情が豊かな人だと改めて思った。

「なんで、しょうか……?」
「抱きしめてもいいか?」
「へ?」

 時が止まったように感じた。窓の外から患者ではあるだろうけれど、比較的元気な子供たちの遊ぶ声が鮮明に聞こえてきた。とても、静かな、昼下がり……じゃなくて!
 私はとても間抜けな顔をしていたと思う。こんな綺麗な人の頼みってなにかと思えば、抱きしめていいかなんて誰が思っただろうか。
 頭の中でなんて答えればいいのか迷っていると、空けていたはずの私たちの間をルーファウスさんが詰めた。

「沈黙は肯定ととる」

 悪戯をするようにニヤリと笑って、とても静かに低い声で言った。
 ルーファウスさんの細い腕が私の背中に回った。ふわりと包み込むように私を抱きしめる。まるで壊れ物を扱うように、優しく。
 私は一瞬、身を固くしたけれど不快感は一切感じなかった。むしろ安心するような、何度もこうしてもらったことがあるような錯覚さえ感じた。錯覚、そう、たぶんそれは気のせいだと思う。
 緊張していることには変わりなかったけれど、私の体からは力が抜けた。それを嫌じゃないと受け取ったのか、ルーファウスさんの腕に力が籠もった。

「リク……。無事で、よかった」

 耳元で聞こえた噛みしめるような声に、心臓を鷲づかみされたような気がした。その声色は本当に私に向けられるべきものなのか、判断がつかなかった。
 思わず喉がゴクリと鳴る。詰まりそうな息にどう呼吸をすればいいかわからなくなる。
 数分くらいだと思う。短い? 長い? それすらわからない頭で、いつまでこのままなのかと暴れ出して煩い心臓のために考えた。
 ルーファウスさんの手が私の髪をすっと梳いたとき、ぐっと苦しげな声を上げて勢いよく体を離した。どうしたのかと彼を見ると、右手から黒い膿のような粘液がボタボタと落ちてきた。
 この症状、ルーファウスさんも?

「ルーファウスさん!?」

 脂汗を流し、荒い息で痛みに耐えている。心配をかけまいとしたのか、涼しげな顔を作ろうとした表情は歪んでいた。
 なんで? いつから? カームにいたときから? それとも誘拐されている間に発症した? 包帯は怪我のせいだと思っていた。どうして気づかなかったのだろうか。

「大丈夫ですか? 待っててください、薬を貰ってきます」

 そう言って慌てて立ち上がる私の腕をつかんで、いいと言った。でもかなり痛いみたいで、その手に力が入っていた。私はその手に、そっと手を添える。

「すぐに戻ってきますから。横になっててください。その方が座っているより、楽だと思います」

 痛みに歯を食いしばっているのに、それでも手を離そうとしない。そんなルーファウスさんに、大声でツォンさんを呼びますよと言えば、諦めたように手を離して横になった。うずくまるその姿は、今まで話していた彼からは想像できないほどつらそうだった。
 もう1度待っててくださいと呼びかけて部屋を飛び出した。1階に下りて彼らがいるであろうリビングへ向かう。

「ツォンさん、薬ありませんか!? ルーファウスさんが!」
「わかった。イリーナ」
「はい」

 声をかけられたイリーナさんが、奥から黒いアタッシュケースを持ってきた。包帯と小瓶を渡され、ツォンさんと一緒に部屋に戻ると、ルーファウスさんが痛みに耐えベッドで横になったままバツの悪そうな顔をした。
 薬を飲んで少し落ち着いたころ、小さな声ですまないと言った。それは誰に言ったものなのか私にはわからない。そして粘液が止まって包帯を変えている間に、ルーファウスさんは眠ってしまった。
 当たり前、だよね。帰ってきてすぐ、報告を受けるという仕事をして私のところに来てくれた。明日でいいと言うべきだったのに、私は配慮が足りなかった。私は、ルーファウスさんに甘えてしまっている。
 俯き加減に静かに寝息を立てているルーファウスさんを見ていると、ツォンさんが口を開いた。

「少しの間、ここで寝かせてやってくれないか」
「それは構いませんけど……。どうして黙っていたんですか?」
 
 みんなが落ち着いていたということは、発症していることを知っていたんだ。リビングで彼らが私のことを見る目は、知られてしまったかというふうだった。

「本当に噛み合わないな。今の社長と、キミは」

 ツォンさんは脈絡もないようなことを言った。

「どういうことですか?」
「いずれバレただろうが、男の厄介なプライドだ」

 これ以上は社長の沽券に関わると言って、人差し指を口元に当てる。ツォンさんが以前に言ったとおり、本当に私は鈍いのか意味がわからなかった。
 ツォンさんが静かにドアの方へと向かった。

「誰か1人は必ず置いていく、なにかあったらそいつに言ってくれ」

 それだけ言い残して、私が返事をする前にツォンさんは部屋を出て行ってしまった。
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