Moon Fragrance

噛み合わないふたり
02



 結局、ルーファウスさんは朝まで眠ってしまっていた。いるべき場所が見つからなかった私は、部屋の外の床に座って、壁に寄りかかり本を読んでいる間に寝てしまった。誰が運んでくれたのか、目を覚ましたときに私は与えられていた自室のベッドの上で横になっていて、ルーファウスさんは既にリビングに下りていた。
 疑問に思いながら部屋を出て階段を下りていく。リビングが見えるところまで降りると、ルーファウスさんはソファーに座って本を読んでいた。その姿が絵になっていて、少し見とれてしまった。
 ハッと我に返ってリビングに足を踏み入れる。

「おはようございます」
「ああ、おはよう」

 ソファーの上で本に目を落としていたルーファウスさんが顔を上げて私を見た。窓から差し込む光に透き通った青い瞳が煌めいた。彼が読んでいた本は、昨日の夜に私が床に座って読んでいた本だった。
 
「あの、お体は……」
「大丈夫だ。昨日は驚かせたな」
「気づかなくてごめんなさい」
「謝らせてばかりだな」

 ルーファウスさんは困り顔で言った。困らせたい訳じゃないんだけれど、もう罪悪感しかないせいか癖のようになってしまった謝罪の言葉は、するりと口から出てくる。
 私は彼に近づいてしゃがみ込み、昨日は特に痛そうだった右手に静かに手を添えた。それをルーファウスさんが静かに見ていた。

「いつから、ですか?」
「昨日、タークスが迎えに来た直前だ」

 そんな、直近で……。手を見つめたまま黙り込む私に疑問を口にした。

「怖くないのか?」

 私はルーファウスさんの顔を見上げた。怖い、初めてこの病気のことを聞いたときは怖かった。あんなふうに体が痛んで、黒い粘液が患部から出てくる。そして時期は違えど、死んでしまう人もいた。
 ルーファウスさんは痛くないときは全く大丈夫のようだけれど、ロッジで療養している患者さんのほとんどは呻き声を上げて苦しんでいる。

「周りでは感染る、などと言われている」
「最初は怖かったですよ。でも、どういう理由で発症するかわかりませんけど、感染らない……と思います」
「なぜそう思った?」
「感染るなら、私も、タークスのみなさんも、もう発症しているはずです」
「なるほど。いい目の付け所だ」

 私もそう思っているとルーファウスさんが言った。その顔は妙に嬉しそうだった。
 そろそろ自分のことをしないとと思うと、リビングの時計が9時を告げた。あ、と思ってルーファウスさんの手を離して立ち上がろうとすると、彼の指が絡められた。

「ルーファウス、さん……?」
「だめか……」

 その言い方は私に聞くと言うより、確認しているようだった。不思議に思って首を傾げると、なんでもないと自嘲するように言った。そしてなんだかちょっと名残惜しそうに手を離した。
 
「患者たちの様子を見に行くんだろう?」
「はい」
「送り迎えに護衛をつけさせよう」

 え、護衛? 私が患者さんたちのロッジに行くためだけに、護衛? それに私を送り迎えをしているときになにかあれば……。

「ほんの数分ですよ? だ、大丈夫です! それにまた、ルーファウスさんになにかあれば……」

 ルーファウスさんの目がすっと細まって、私を推し量るように見た。そして溜め息をひとつついた。私が折れないと思ったんだろうか。

「わかった。だが、なにかあれば必ず言え」
「はい。あ! ベッドに運んでくれたの、ルーファウスさんですか?」

 そう尋ねると、ルーファウスさんはふっと笑っただけだった。たぶん、そうなんだ。怪我してる人に……。いや、あそこで寝てしまった私が悪いんだけれど。
 ごめんなさい、と言いかけてやめた。さっき、謝らせてばかりだと言われたばかりだったから。

「ありがとうございます」

 うまく笑えているかわからなかったけれど、そう言うと驚いたようだけど満足そうにルーファウスさんが頷いた。

「いってこい」
「いってきます」

 口元に笑みを浮かべて言ってくれる。なるべく元気に応えてリビングを出た。
 玄関のドアを開けるとフィルさんがいて驚いてしまう。

「おはようございます!」
「お、おはようございます……」

 今日も勢いがよくて、ぐっと体を引いてしまう。私は何故かチラッとリビングの方を盗み見た。今の声は多分、リビングにいるルーファウスさんに聞こえていると思う。もしかしたら、ロッジの中のどこかで待機しているタークスの誰かにも。
 私はどうして気まずいと思ってしまったのかな。なんで、知られたくないなんて思って……。

「どうかしました?」
「い、いえ」

 少しぼーっとしていると、フィルさんがずいっと近づいてくる。それを押し返すように大丈夫だと言った。
 ロッジからも、フィルさんからも逃げるように、行くなら行きましょうと言って私は歩き出す。フィルさんといるとなんだか調子が狂う気がした。

「そういえば、昨日どうしたんですか?」
「昨日? ああ、ちょっと外せない仕事ができてしまったので……」
「そうだったんですね。患者さんたちのいるロッジに来なかったんで、心配していたんですよ」

 昨日はツォンさんに、誰が来ても合図じゃない限りは出るなと言われていたから。きっと何度か鳴ったチャイムの音はフィルさんだったんだろう。それはそれで開けなくてよかったと、なぜか思ってしまった。
 患者さんたちのいるロッジに着いても、フィルさんはずっと喋り続けていた。同期のミンスでもこんなに喋らなかった。というより、ここまでグイグイも来なかった。よく喋るレノさんですらいい間合いで話してくれるし、イリーナさんは元気で女の子って感じで話しやすかった。距離感が近くてもルーファウスさんの話し方は落ち着いているし、心地いい。
 うん。ルーファウスさんの低くて静かな声も、好き……? こんなところで、それを思い出して、顔が熱くなった。
 もう途中からフィルさんの話が入っていなくて、生返事をしていた。
 患者さんたちの包帯替えなどが終わってロッジに戻ろうとすると、ルーファウスさんたちについてきたキルミスターという医者に話しかけられた。フィルさんは外で待ってますねと言って先に出ていった。

「なあ、お嬢さん。あんた、神羅のロッジにいるんだよな」
「そうです」
「これを社長に渡しといてくれないか」
「わかりました」

 先生に書類用の茶封筒を渡される。それと先生を交互に見比べていると、変なものは入っちゃいないと言われた。

「報告書みたいなもんだ。それとお嬢さん、エンジニアなんだろ?」
「はい」
「本社ビルにある医療機器を修理してくれって言ったらできるか?」
「る、社長から許可が下りればやります」

 ルーファウスさんと言いかけてやめた。社長。そうだ、記憶のない私には実感がないけれど、なんともない彼らにとっては社長なんだ。どう呼ぶにしても、呼びづらい。また自分の乖離した記憶に悩まされる。

「そうか。ま、今はいい。いずれ頼む。今んとこは患者の包帯替えやってくれてて助かってる」

 頼まれましたからと言うと、先生は嫌な笑みを浮かべた。失礼しますと言って今度こそロッジから出ようとすると、それとと続けた。

「一応、診てやるから気が向いたら来るといい」
「私のこと知ってたんですか」
「私に頼むのは凄く嫌そうだったが、社長がな」

 こんなところでも気を遣わせてしまっていたとは思わなかった。今度、どうしてそんなにも気にかけてくれているのか聞いてみよう。

「気が向いたら、来ます」

 ドアに手をかけた。後ろから来なさそうだなと聞こえて、バレてると思った。病院はあまり好きじゃない。なんだか自由が、な、い……? 頭がずきっと痛んで、よろめいた。

「おいおい。お嬢さん、話して早々それか」
「もう、治まりました……」
「なにか思い出しそうなんだろ。痛いのはキツいかもしれんが、まあゆっくりな」
 
 お辞儀をして今度こそロッジを出た。
 私、長い間どこかで療養していた? 肩と胸の辺りを固定されていて、入院? でも病室のような感じじゃなくて、とても広い部屋だった。なんだか至れり尽くせりのような感じで、あれはなんの記憶?
 玄関を出たところで立ち尽くして見えたものを思い出そうとしていると、下から呼びかけられた。ロッジの階段下ではフィルさんが私を待っていて、私を見て屈託なく笑った。

「話終わりました?」
「はい」
「戻りましょうか。送っていきます」
「ありがとう、ございます」

 住んでいるロッジに着くまでの少ない時間でまた考える。その間もフィルさんはずっと喋っていた。ロッジに着いて、ではと中に入ろうとすると腕を掴まれる。ほんの少し、ゾワッとしてしまった。

「あの、マックハインさん。もっと、お近付きになりたいです。明日も、その、迎えに来てもいいですか……!」

 ここでそんなに大きめの声で言わないでほしい。それに私は、断る理由を持ち合わせていない。勢いに負けて、はぁと気のない返事をしてしまう。
 フィルさんがよかったと顔を輝かせる。きっと私の顔は反対に引き攣っているはずだ。さっさと中に戻ってしまおうと考えたら、後ろでドアが開いた。
 少し視線を下げると車椅子に乗ったルーファウスさんがいた。歩けないことはないのにと考えると、落ち着いた声が聞こえて嫌な気持ちが消えた。すぐ後ろの方でルードさんがこちらの様子を窺っている。
 ルーファウスさんが掴まれている私の腕を不愉快そうに一瞥した。

「戻ってきたのか」
「ただいま、です」
「おかえり。さぁ、入りなさい」

 彼がふわりと笑うと、まだ腕を掴まれたままの私の左手の指を絡めるように取って、中へと引き入れてくれる。睨む、とは違うけれど、ルーファウスさんの強い目がフィルさんを見据えた。フィルさんの目が泳いで、一歩後ろへと下がる。

「彼女の手伝いをしてくれているそうだな。感謝する」
「い、いえ……。好きでやっていることなんで」
「そうか。なにかあれば、スーツを着た彼らに言ってくれ。力にはなろう」

 チラッとルードさんを一瞬見やって、再びフィルさんに視線を戻すルーファウスさんの声は固かった。タークスの皆さんと話をしているときとはまた違った、まるで牽制しているような声。一瞬ルードさんを見たのも、そのつもりがあったのだろう。
 フィルさんが戻ります、と言って逃げるように去っていった。

「ふむ。怖いもの知らずでなければいいが。いつからだ?」
「いつから?」
「最近、あの男に絡まれているんだろう」
「ここに来て、3日くらい経ったころです。弟さんが病気で亡くなったから、話し相手が欲しいと言ってたので」

 そう話すと、ルーファウスさんはポツリと、弟かと呟いた。少し後ろへと下がって、ルーファウスさんが玄関のドアを閉めた。

「グイグイ来るのは少し困っているんですけど、患者さんたちの包帯替えを手伝って下さるのは助かってるんです」
「そうか……。気をつけろ」
「あの、レノさんもですけど、どうしてそんなに……」

 疑問を口にすると、ルーファウスさんは勘だと言って笑った。そんなことを言うような人には見えなかったので驚いてしまった。
 ルーファウスさんが私が手に持っている茶封筒を見て、それは? と聞いた。

「キルミスター先生、からです」
「確かに受け取った」

 ルーファウスさんは茶封筒を受け取って車椅子から立ち上がると、ゆっくりとリビングの方へと向かっていった。その様子を私の隣で車椅子を片付けながら見ていたルードさんに尋ねる。

「なぜ、車椅子を?」
「……動けないように見せた方が、油断させられる」
「なる、ほど……?」

 と言うことはフィルさんに? なぜそんなにも気にするのかいまいち状況を飲み込めずに独り言のように言うと、ルードさんはわからなくていいと言って彼もリビングの方へと行ってしまった。
 その言葉の意味と、なぜあんなにも気をつけろとルーファウスさんとレノさんが言っていたのかを理解するのは数日後だった。
 
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