Moon Fragrance

揺れた瞳
01



 私のせいでかなりの時間をかけて社長の車が停まっている駐車スペースへと辿り着いた。エレベーターは重役専用のカードキーを使うと他のフロアへは停止しなくなるらしい。誰かが人払いしたんじゃって思うほど、ロビーには珍しく人がいなくて誰にも会わなかった。
 社長が助手席のドアを開けてくれて私はゆっくりと車に乗り込んだ。社長も運転席に座ると私に覆いかぶさるようにシートベルトを装着してくれる。余りにも近いから私は無意識に息を止めてしまった。

「すみません」
「謝らなくていい。私がしたくてやっていることだ」
「ありがとう、ございます」

 俯いてお礼を言うと今まで緊張で気付いていなかっただけかな。今初めて社長からふわりと甘い香りを感じた。なんだか知っている気がする。なんでだろう。私もおかあも香水なんてつけたことないのに。チラリと社長を見るとそれに気付いたらしくてこの香りは嫌いか? と聞いてきた。

「いえ、嫌いじゃないです。なんだ落ち着きます」
「それならよかった。じゃあ行こう」

 エンジンを掛けてステアリングを握る社長はやっぱりカッコ良くて落ち着かない。この間のように雨が降っていない分静かで、心臓の音が聞こえてしまいそうだ。私はやっぱりドアに少し寄りかかって縮こまる。それを横目で見た社長がさっきまでシフトレバーに優雅に置いていた右手で、今度は逃がさない、とでも言うように私の左手を優しく握った。狭い車内に逃げ場なんかないのに。
 爆発しそうなほどの鼓動が手を伝って社長にバレるんじゃないかと思えば思うほど、落ち着かない気持ちになっていく。それを知ってか知らずか、私の左手を包み込むように握っていた社長の手が、指を絡めとるような握り方に変わった。嫌がっているわけではないと判断したらしい。確かに嫌じゃない。
 なんだか今日は対向車線をいく車のライトが眩しい気がした。
 このままだとただ息苦しくなるだけだと感じて、思い切って口を開いた。
 緊張で最初の声が思ったより出なかった。

「ぁの……」
「どうした?」

 とても穏やかに響く声が心地よく染み込んでくる。

「今日のお昼に、その、怪我が治ってから話すと言っていた話なんですけど……」
「あれか。気になるか?」
「はい。どうして怪我が治ってからなんですか?」

 私はチラリと前を見つめる社長の横顔を盗み見た。

「今のリクにとっては少なからずショックな話かもしれない。体に障っては困る、という理由もあるがそれは建前だ」
「え……」
「私にとってはいい話なんだが、まだキミの反応を推し量ることが出来ない。それにこの話をしたら、私はキミに答えを求めたくなってしまう」
「答え?」
「話したときにわかる。もう少し待ってくれ」

 そう言われてはい、としか答えることが出来なかった。私は俯いて手を握る社長の手を眺めた。

「キミは、あまり私に興味がないみたいだからな……この話をするには今は私の分が悪すぎる」
「……?」

 どういう意味かと社長を見たら口元に弧を描いただけで、答えてくれる気はなさそうだった。その代わりに、絡められた指の力が少し強くなった。

「さあ、着いたぞ」

 言われて見た社長の家は……家というか屋敷と言った方が正しそうな面構えだ。静かに滑り込むように両開きの玄関の前に車を止めた。
 シートベルトを外して降りていいのか迷っていると少し待っていろと言って、わざわざ助手席まで回ってドアを開けてくれた。さっきまで握られていた左手は、急に社長の体温が無くなって肌寒く感じた。
 社長は掴まれと言って私の左腕を持ち上げて自分の首に回させると、私の腰を支えるように引き寄せて立たせてくれた。

「痛くないか?」
「大丈夫、です」

 首筋に当たった社長の息がくすぐったくて、心臓がドキッとはねた。
 再び社長に支えられてゆっくりと歩くと、自動ドアかと思うほどなんの前触れもなく玄関の扉が開いた。社長がご苦労と言った先には数人の男女がいた。服装を見て察するに、お世話係の人、かな。
 屋敷の中に足を踏み入れると口を揃えてようこそいらっしゃいませ、と言われたものだから硬直してしまう。こんな世界が本当にあるなんて……。まるで夢かお伽話のようだ。
 腰を支えてくれる腕を通して社長が微かに笑ったのがわかった。
 社長のお宅では車椅子を用意してくれていた。随分と社長に迷惑を掛けたから素直に座らせてもらうことにする。
 あとは私のお世話をしてくれるという中年の女性2人を紹介してくれた。風呂には入っていいからゆくっりしてこいと言われて1度別れた。
 どうやってお風呂に入るんだろうと考えていると、先ほど紹介してくれた女性2人がせっせと準備を整えていく。まさかと思っているうちにあれよあれよと着っぱなしだったツナギを脱がされ、下着まで脱がされた。
 自分でやりますって言っても、右肩に支障が出ることはやらせるなと仰せつかっていますので、と拒否される。頭を洗ってくれるのも、体を洗ってくれるのも自分でやるよりもかなり丁寧でまるで高級スパにでも連れてこられたような気分だった。
 お風呂からあがると下着も部屋着も用意されていて、それも全て着せてくれたので頭が下がる思いだった。
 用意してくれてた部屋はとても広かった。私のアパートの部屋が3つ4つは入りそうだ。ベッドも大きいし何より目の前には大きな窓にテラス、そして見たことないくらい大きな庭が広がっている。

「お、落ち着かない」

 ベッドに腰掛けてそわそわしていると部屋の扉がノックされた。

「ど、どうぞ……」

 控え目に返事をすると静かにドアが開いて社長が入ってきた。社長も既にお風呂に入ったらしく、会社ではオールバックに整えられている金糸のような髪が下されていた。
 普段は冷徹そうに見えるのに、髪を下ろした社長は優しそうで少し幼く見える。どっちが好きだ? と聞かれて見惚れていたことに気づく。

「あ、えと、その……」

 なんて答えていいかわからずしどろもどろになっていると、社長が今日は勘弁してやると言って笑った。少し動くたびに揺れる柔らかそうな髪にドキドキが止まらない。
 この状況、なんだか非常にヤバい。逃げ場なんてないのに体が無意識に逃げそうになって、ベッドから立ち上がろうとしたところを社長に左手を取られる。

「だから逃げるな。取って食ったりはしない」

 その言葉に今日はな、と続いて顔に熱が上がった。
 む、無理……いっそ殺してください。1人で勝手にソワソワしていると、社長が私の全身を見る。

「用意させたものだがちょうどいいな。似合っている」

 固定している右腕も通しやすいように前開きになっているワンピースの様な部屋着。もちろん肌触りもよくて、こんなの今まで着たことない。

「あ、あの、手放しで褒めるの、やめてください……。恥ずかしいです」
「なぜだ? いいものを褒めるのは当たり前だろう」

 あ、だめだ……。言えば言うほどストレートに返ってくる言葉はくすぐったすぎる。どうにも慣れない社長の言葉は蜂蜜のように甘すぎた。
 
「ふっ。少し遅いが軽食を用意した。食べるか?」
「は、はい」
「俯くな」

 そう言って私の顎を指ですくい上げる社長の目はいつも透き通っていて真っ直ぐで、何もかも暴かれてしまいそうだ。
 食事が運ばれてくる間、社長はずっと私の左手を握っていた。
 部屋に用意してくれた軽食はサンドイッチやスープなど、どれも片手だけで食べやすいものばかりだった。

「美味しかったです。ごちそうさまでした」
「やっと私に笑ってくれたな」
「え……」
「会社で会った時からずっと驚いた顔か申し訳なさそうな顔しか見てなかったからな」
「す、すみません」
「だから謝るな。笑ってくれている方が嬉しい」

 少し、慣れたのかな。久しぶりに夜ご飯を誰かと食べてなんだか温かくなった気持ちに、はいと言って今できる限り、にっこりと笑ってみせた。
 社長はそれでいいと満足げに微笑んで、ゆっくりしなさいと私の髪を一撫でして部屋を後にした。ほんの一瞬だけ触れた首筋が熱い。
 なんだかここに居たらダメになりそうな気がすると思いながら眠りについた。
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