小さな1歩
そのあとすぐにイリーナさんが来てくれた。体がふらふらしていて上手く起き上がれない私の着替えを手伝ってくれたり、胃に優しい温かいご飯を持ってきてくれたりと3日間熱にうなされていた私はとても助かった。
目眩のような感覚も収まり、ベッドのヘッドボードにもたれて腰掛けていると、イリーナさんと目が合った。
「イリーナさんにまで迷惑掛けてしまってごめんなさい」
「気にしないでください。こういうのってやっぱり女同士のほうがいいですよね」
そうですねと躊躇いがちに答えるとイリーナさんが、それとと強調して言った。
「ごめんなさいじゃなくていいんですよ。リクさんは遠慮しすぎです!」
「あ、ありがとうございます」
「あと、社長も……」
言うかどうか迷っているみたいだけれど、ルーがどうしたんだろうか。じっとイリーナさんの続きの言葉を待っていると、決心がついたようにうんと頷いた。
「社長も、もっと甘えてほしいみたいです」
「でも、る……、社長は星痕なので……。それに、もっと他のことも抱えているので、私まで甘えてしまったら……」
「ほら! それですよ。リクさんがどれだけ社長のことが好きなのかはわかりましたから、もうちょっとガツンと行きましょ!」
が、ガツンって……。悩んで俯く私に、イリーナさんが言葉を続けた。
「社長はそんなことでリクさんを嫌いになったりしませんって。社長のあんなに優しい目、見たことないです」
「ほんとう、ですか……?」
「もちろんです。リクさん! 恋人なんですから、まず敬語なくしましょうよ!」
「へ!?」
そして私が戸惑っている間にイリーナさんは、お風呂の準備をしてくるから待っててくださいと言い残して、そのまま出て行ってしまった。
10分後くらいに戻ってきたイリーナさんに勧められてお風呂に入りに行く。3日ぶりに入れたお風呂はとても気持ちよかった。お湯も好みの熱さで、スッキリとして部屋に戻るとベッドに3日ぶりに会った彼がゆったり足を組んで腰掛けていた。
「あれ、ルー、どうして……」
「イリーナに呼ばれた」
「えぇ!」
イリーナさん、なんで今……。私、まだ咳してるのに。こんな状態で話しても大丈夫なのか悩んでいると、ルーが追い出さないでくれと言った。
ドアの前で突っ立っている私をおいでと誘う。距離を取ったところで仕方がないのに、私は少し間を空けて隣に座ろうとした。その私の腰をぐっと引き寄せて密着させるように座らせる。
「ルー、私まだ……」
「体調管理は問題ない。心配するな。それより、熱が下がってよかった。あと、リクが修理してくれていた医療機器も問題ないようだ。助かった」
そう言って私の髪をくしゃりと撫でた。ごめんなさいと言いかけたのを飲み込んだ私を、どうした? と覗き込んでくる。目の前に見えたルーの綺麗な青い瞳と視線が絡んでドキッとした。
「私こそ、あ、ありがとう……ございます」
イリーナさんが敬語をなくしてみましょうと言っていた通りに頑張ってみようとするも失敗する。多分、ルーは気付いているはずだけれど、なにも言わなかった。
私の頭に置いていた手で引き寄せられて彼の肩にもたれかかる。
「なにか礼がしたいのだが、海に行きたいのか?」
「へ?」
なんでそれをと思って見上げると、寝言で言っていたと教えられた。恥ずかしくなって両手で顔を覆うと、クスッと笑った声が聞こえた。
「なんの夢を見ていた?」
「夢、というより、八番街でシスター・レイ移設のための脚組を造っていたときの記憶……でした」
駄目だ。敬語を抜くなんてできない。ルーの腕が微かに震えている気がするのは、もしかして笑いを堪えているんじゃ……。
「なんでも我儘を聞いてやると言った、その我儘の内容か?」
私がコクリと頷くと、控え目だなと言う。
「じゃあ、ルーはどんな我儘を望んでいたんですか?」
「そうだな。あのとき、仕事で忙しかった私を数日、好きなように連れ回したい、か?」
そんなのとてもじゃないが頼めないと首を横に振る。休んでほしかったけど仕事以外で数日も社長室を空けさせるなんて、とてもじゃないけどできない。それに。
「変わらないじゃないですか」
「リクが言っているのは1日やそこらだろう」
「そうですけど……」
「で、海に行きたいのか?」
ルーがまた、優しく聞いた。甘えてほしい、なんてイリーナさんが言っていたけれど、大丈夫だろうか。
今すぐじゃなくていいんだ。いつか、本当に落ち着いたら。
「うん。海に行きたい……」
意を決してみたけれど、結局ですと小さくつけてしまって、とうとうルーが声を上げて笑い出した。やっぱり気付いてた……。
「惜しいな。やり直しだ」
「へ!?」
仕事で書類を修正させるような口ぶりで笑いながら私の襟足をくすぐっている。やり直し、しないときっと話が進まないだろう。
「……うみ、いきたい」
「わかった。まだ先になるだろうが、必ず連れて行ってやろう。その前にも約束していたからな」
そうなのかと見上げると、ロケット村にハイウィンドを借りに行く途中のヘリの中でだと教えてくれた。私はそれほど海に行きたかったみたいだ。
太陽の光がキラキラと反射して綺麗だろうなと考えているとルーが抱えていたらしい疑問を口に出した。
「それにしても今日はどうしたんだ?」
私がいきなり敬語をやめようとしたことが気になるらしい。
「イリーナさんにまずは敬語をやめてみたらって言われた、の……。うぅ……」
「まるでルーと名前を呼ばせたときのようだ」
「慣れるまで待ってください」
「そうだな。期限を設けよう。でないといつまで経っても曖昧な口調のままだろうからな」
とんでもないことを言い出したと目を白黒させていると、私がロケット村に1度帰るまでだと告げた。もうすぐクラウドさんのバイクの改造も終わるだろうとわかっててその期間にしたみたいだ。時間はあまりない。
「そんなに、敬語を抜いてほしい……?」
ですかをなんとか飲み込んだのをルーがくすりと笑う。
「その方が遠慮もなくなるだろう」
私としては遠慮をあまり抜きたくないのだけれど。張っていた気を緩めて、ルーに何度か見られている威勢のいい素が出やすくなってしまったら困る。可愛いと思われたいわけじゃないけれど、嫌われたり幻滅されたりするのは嫌だ。
「嫌いになったりしませんか?」
「なぜそうなる」
「気が緩んで、あまり、素を見られたくないと言いますか……」
「あの威勢のいいリクか。キミは職人気質だからな。今更そんなことで嫌いになると思うのか?」
私はいろいろやらかしているみたいだから、もっと他に嫌われるかもしれない要素はあったのはわかるけれど……。でもこれから先ずっといたいのに、もし抑えていても積み重なってしまったらと思うと。
「私は、リクの全てを私に向けてほしいのだが」
「な、なんでそんな恥ずかしいことを言うんですか……!」
「やめるつもりはない。慣れろ、と言ったのは覚えているか?」
思い出している、覚えてもいる。でもやっぱり慣れないし、恥ずかしくてまた顔を覆ってコクンと頷く。それに、また敬語が出てきているぞなんて追い打ちをかけなくてもいいのに。
「さあ、今度は知恵熱が出たら困るな。これくらいにしておこう」
横になれと言って座る位置をずれるとベッドを空けてくれる。私はそれに従ってのそりとした動きで座っている体勢から四つん這いへ、そしてベッドに横になろうとすると、ふむと考えるように声を漏らしながら私を見ていた。そして横になった私に軽く覆い被さると、私の喉元に啄むように口付けた。
「る、ルー、なにやって……」
「我慢するのも大変だな」
その一言にぎょっとした。一体なにでスイッチが入ったのかわからないけれど、一頻り首回りにキスの感触を残して離れる。
「口はまだお預けなんだろう?」
「……うん」
「なら仕方ないな。明日も1日ゆっくりしろ」
「わかりました。ルー」
「ん?」
「……ありがとう」
掛け布団で顔を隠しがちだったけれど私がそう言うと、優しく微笑んで頭を一撫でして頷いてくれた。そしてゆっくりと立ち上がり、明日からはまた私の部屋で寝ると告げて出て行った。
自分でそうしようと決めたことなのに、明日から敬語をなくすための矯正が本格的に始まると思うと頭を抱えたくなった。でも確実に一歩は距離が近づけた気がして、少しだけ嬉しくなったんだ。- 77 -*前 次#
Moon Fragrance