悲しい明日はもう来ない

 ガヤガヤ耳元で聞こえる大小さまざまな話し声によって目が覚めた。あまりしっかり寝た気がしない。目を閉じたままもう一度寝ようかと考えたが、あまりにもうるさいから諦めて目を開いた。

「うあ」

 むさ苦しい。
 やたら気配を感じると思ったら、目の前に男の顔がたくさんあった。その中に一匹だけ真っ白なシロクマ。俺が目を開けた瞬間、男たちはピタリと話すのを止めて固唾を飲んで俺を見つめる。唯一シロクマだけが緊張した面持ちを俺を見下ろす。
 一体なんだと思っていると意を決したシロクマがか細い声で「にゃあ」と鳴いた。なんでシロクマなのに「にゃあ?」と気づけば鳴き声を反復していた。その俺の鳴き声を聴いた男たちが割れんばかりの歓声をあげた。急な爆音に驚いた俺は、自分の意思とは関係なく泣いていた。
 泣くときは、にゃーにゃー鳴けず本能のまま涙と一緒に声を出していると、あまりの五月蝿さに帽子を目深にかぶった男が俺を抱き上げた。ぎこちない動きだけれど、俺が落ち着くように体をゆっくりと揺らしてくれる。その動きで涙は止まったけれど、まだしゃっくりは止まらない。気を抜けばすぐにまた涙が溢れそうだ。泣かないように気を張っていると、遠くで高い声が聞こえた。その声が近づくごとに、周りの男たちが散っていく。そして薄くなった人垣をすいすいと掻き分けて、女性が顔を覗かせた。
 ――女の人!
 と喜んでいる間に女性は、帽子の男から俺を取り上げ、優しく包み込むように抱きかかえて背中をトントンと叩きながら英語で歌うように何かを語りかけてきた。何を言っているかはさっぱりわからないけれど、唯一「ドンクライ」、泣かないでと言っているのはわかった。これはよく歌詞に出てくるからなんとか聞き取れた。
 優しい声に、気づけばしゃっくりは止まっていて、女性は笑って俺の顔を覗きこんだ。
 快活な見た目で癖の強い髪をざっくばらんに縛っている姿は、一見粗暴そうにも見えるけど、俺をあやす手つきは丁寧で、人を見た目で判断しちゃいけないなと反省した。俺だってこんな見た目だけど中身は違うんだし。

「にゃー?」

 女性が周りの男を見て早口で何かを訊いたあと、突然猫語で喋った。さっきまで英語だったのに。
 一応俺も猫語で返すか、と羞恥心に耐えながら「にゃん」と鳴いた。

「にゃにゃ!」
「にゃーにゃ、にゃ」

 猫語で会話が続いてしまった。なにをやってるんだ、俺は。
 遠い目をしながら会話を続けていると、これまた急に女性が英語を喋った。突然だったから、周りの男たちに喋りかけているのかと思ったけれど、顔はたしかに俺の方を向いている。まさか俺に話しかけてる?

「にゃー……」

 残念ながらさっぱり聞き取れなかった。でもちゃんと聞いているよ、と言うかわりに一声鳴いた。
 女性は少し困った空気を出してから、体ごとぐるりと後ろを向いた。急な振動に驚いたけれど、女性はしっかりと俺を抱いていたからあまり衝撃はなかった。
 顔を上げると、目の前に人相の悪い男の顔が現れた。
 女性は人相の悪い男に何かを話しかけている。きっと俺のことだろう。動くこともできない俺は、どうすることもできず頭上で飛び交う英語を聞き取ろうと頑張った。結局無駄な努力だったけど。
 話が終わった女性は、俺をテーブルに座らせた。そこで初めて周りの景色が見えた。たくさんテーブルと椅子がある。遠くにはキッチンがあるから、ここは食堂だろう。そう思ったら遠くからいい匂いがする気がする。
 あちこち視線を動かす俺に、女性はぐいっと自身の顔を俺に近づけた。俺の視界には堀の深い、睫毛が綺麗に上がった女性の顔しか映っていない。
 彼女は、ゆっくり一語一語丁寧に区切って「アイ、アム、ナーウェル」と言った。
 ――私はナーウェル?
 自分の胸を叩くジェスチャーもついているので、自己紹介に間違いない。
 それはわかるけど、ゆっくりでもナーウェルの部分の発音はこれで正しいかわからない。
 ――ナーウェルなんて名前、あるのか?
 でも彼女が何度か同じ言葉を繰り返したのを聞いてもナーウェルとしか聞こえないから、やっぱりナーウェルさんなんだろう。
 「わかった?」みたいなニュアンスのことを聞いてきたので、とりあえず頷いておく。そしたら嬉しそうにナーウェルさんが笑ったので、俺もつられて笑みが溢れた。
 ナーウェルさんは続いて仏頂面の男を俺の前に連れてきた。そして「ヒー、イズ、キャートゥン」とまた丁寧に発音した。キャートゥン? 顔に似合わず可愛い名前だ。だけど何度か聴いていると、キャートゥンではなくキャープトゥンな気がしてきた。でもキャープトゥンなんてナーウェル以上に名前として微妙な気がするし、聞き間違えだろう。そう結論付けて、わかったと頷いた。
 そして、ナーウェルさんとシロクマと、そしてキャートゥンさんが何かを話したあと、また、わっと空気が割れるような歓声がわき上がった。驚いたけれど、すかさずナーウェルさんがあやしてくれたから今度は泣かずにすんだ。
 よしよしと数回揺らされたあと、ナーウェルさんの腕の中からシロクマが俺を引き上げた。

「あー!!」

 心地よい腕が、と声を上げたが、シロクマは気にせず弾む声で「にゃっにゃ!」と鳴いたあとに「アイムベポ!」と元気よく喋った。これはたぶん正確に聞き取れた。このシロクマの名前はベポというのだろう。
 ベポはぎゅうぎゅうと俺を抱き締めながら早口で何かを話しかけてくる。
 まったく聞き取れないが、その中で昔授業で習った「テイクケア」はなんとか聞き取れた。テイクケア、なんだったっけ……。なんか世話をするとかだった気がする。ということは、もしかして俺は、この人たちに拾われたのだろうか。
 ぼんやり状況を把握して、再度周囲を見回す。
 キャートゥンさん以外はみんな笑顔を浮かべていて人が良さそう。拾われて悪いようにはされなさそうだし、しばらくお世話になろう。

ヒトリヨガリ