落ちた椿は涙す

昼間の喧騒が嘘のように静まり返った京の都の夜。

「いくら活気に溢れていようと、この時はその影も見えませんね」

小さく音を立てた砂利に目を向ければ其処には予想通りしかめっ面の彼が立っていた。折角の美貌が台無しだ、と言いたい所だが彼はそんな顔ですらも自分のものとしている。同性から見ればさぞかし憎らしい存在だろう。

「こんな夜分に何処かへお出かけですか?」
『お前には関係ねえ』

紫紺が鋭く細められる。

「まあまあそんな事言わずに。良ければ付き合いますよ」

竹刀を二本目の前に掲げると一瞬目を見開いた彼は即座に眉を顰め御馴染みの顔つきに戻った。その奥に潜む真意は判りかねるが、相変わらず気に食わない奴だとでも思っているのか。例えそれが言葉となって飛び出た所で私は別に驚きはしない。事実故に否定出来ないというのも当然あるが。

『どういうつもりだ』
「どういうつもりも何も、俺はただ自由の無い不便な生活にちょーっとばかし息が詰まりそうになって、日中市内を駆け回り多忙であられる皆様方のお手を煩わせる事の無い様、この時間に外の空気を体に取り込もうと」
『ああわかったもういい、黙ってろ』
「ご理解頂けたのなら結構」

外出を許可されていないとはいえ、彼らも私に逃げる気がないと踏んだのかあまり干渉はしてこなくなった。もっとも、時々刺さるような視線を感じる事はあるのだが。当初に比べれば遥かに信頼を得たといっても過言ではない。私の真意を探るように、しかし何か想いを巡らせるように黙り込んでいた彼は仕方ない、とでも言うように肩を竦めた。

『…着いて来い』

あっさりと背を向けた彼にあら、と目を瞬かせる。珍しい事もあるものだ。

「漸く俺は貴方方の信頼を得ましたか?」

途端、鋭い紫紺が振り返る。

『――妙な真似をすれば、即刻切り捨てる』

最初に出会ったときと同じ鋭さを持って、その言葉はすんなりと私の中に落ち着いた。





境内に響くのはひたすら竹刀がぶつかる音。本来の形が姿を変えながら、重い一撃を受け止める。

『っ、案外やるじゃねぇか』

月の淡い光に照らされて黒髪を靡かせる姿はまさに"新選組鬼の副長"に相違ないと心のどこかで思った。

「お褒めに預かり光栄です」

微笑を浮かべながらも相手からは視線を外さない。一瞬でも隙を見せる事、それは生死を分ける戦の場合"死"を意味する。正面に構えゆっくりと息を吐けば、容赦なく繰り出される斬撃。身を捩って促せば煩わしいとでもいうように彼は攻め入って来た。

『見た事もねぇ動きをするが、お前、流派は?』
「えーっと…天然理心流?」

心底不愉快そうに顔を歪めた彼にニヤリと笑って一撃を決めれば境内に竹刀の落ちる音が響いた。

「――勝負有り、ですね」

ふうっと息を吐いて身近な石段に腰を下ろせば眉間に皺を寄せた土方さんが苛立ったように舌打ちを漏らす。

『随分と嬉しそうなツラしやがって』
「そりゃあ嬉しいでしょう。鬼と称される貴方に勝利したんですから」
この上なく卑怯な戦法とはいえ。
『嫌味か』
「自尊です」
『何処から来るんだよその自信は』

ふっと細められた紫紺に思わず目を見開く。その憎らしいほどの美さを実感せずにはいられない。まさに、生きた芸術。例えそう評価しても世の人は首を縦に振るであろう。しかし指摘すれば恐らく彼は今までの態度に輪を掛けて私を毛嫌いするに違いない。そこはもう確信に近い何かがある。

「…正直、この国は馬鹿げていると思うんです」

唐突に切り出した話題に、彼は一人分の距離を空けて腰掛ける。

「心持は同じだった筈なのに、いつのまにやら身内同士の殺し合い。佐幕だ倒幕だと罵り合って、意思を違えた者を真っ向から否定して。このご時世仕方ないとはいえ、翌々考えてみれば酷く滑稽な話ですよ」
『――つまりは俺達が、馬鹿だと?』
「いいえ、寧ろ反対です。貴方方の志は尊敬に値します」

ならただの自虐か。そう言いたげに視線を向けてくる彼に同意して、ざあっと境内に流れ込む夜風。

「俺はただ、死ぬのが怖いだけの臆病者です」

死とは正に恐怖そのもの。恐怖の代名詞。言葉だけ綺麗に着飾った人の終焉。御国の為、藩の為と刀を手にする彼らを嘲るつもりは毛頭無い。先程も言ったように寧ろ尊敬の念すら抱く。けれどやはりその考えに賛同は出来ないし、する気もない。どうせ短い人の人生、如何生きるかなんて高が知れている。でも、だからこそ私は。

「必死にもがいて、這ってでも生き延びてやる」

絶対に、死んでなんかやるもんか。そう、冷たい音が唇から漏れた。思わず自嘲的な笑いが込み上げてくる。この国は尊敬すべき馬鹿ばかりだが、一番の馬鹿は私だ。酷く滑稽で醜く、欲に駆り立てられた惨めな、保身の塊ともいえる人間。しかし裏を返せば、所詮人間など己の身可愛さ故に他人の事など二の次にしか考えていない。非情だと笑われようとも、それはある意味備え付けられた本能のようなものなのだ。致し方ないと言えば済んでしまう話。

「人の命を奪う事がどれほど残酷なことか…まだ、あの頃の俺は知らなかった。そして人を斬り続ける限り、いつか自分自身にも報いはやってくるという事も」

目を見開く土方さんから視線を逸らして呟く。

「人が運命に逆らって生きる事は到底叶わぬ夢です。それこそ、代価に支払うものが腕の一本なんて安いものでしょう」

人としての一生を終えること。同等の代価を差し出すとすれば結果的に導き出されるのはそれのみだ。しかしその答えが正解なのかどうかもわからないまま、人間は愚かにも同じ過ちを繰り返すのだろう。

『…山南さんの怪我は仕方なかったと、そう言いてぇのか?』
「彼はその代価を支払うのが少しだけ"早かった"。けれど誰もが結局は同じ末路を迎えるんですよ、俺も、恐らく貴方も」

ひゅおっ、夜風が一層不気味に鳴いたところで石段から腰を上げた。

「要は、貴方はこんなところで立ち止まる人間じゃない、って言いたいんですよ。馬鹿なりの励ましです。俺が偉そうに言っても貴方に不快感を与えるだけでしょうけど」
『…変わった奴だ』

そう言って肩を竦める様子は普段の目を吊り上げて怒鳴り散らす"鬼の副長"とはかけ離れているように見える。もしかすると彼は本来こんな人間だったのではないか、と。漠然とそう思った。

「さて、体が冷えます。そろそろ戻りましょうか」

ぱしっと掴まれた腕に振り返れば何処か遠くを見つめる彼がいて。

「…土方さん?」

声を掛ければ彼自身も何をしたのか理解できていなかったようで慌てて腕を放した。

『お前は、一体何を抱えている?』
「――…」

探るような瞳の奥に私の身を案じるような、そんな感情に気付き思わず目を逸らした。その瞳は私を戸惑わせ、困惑させ、行く行くは堕落させる。酷く迷惑な好奇心。―――苦手。言葉で表すとすればそれだ。

「生憎、此方が教えなければならない義務はありませんが」

ふっと笑えば何処か悔しそうに眉を顰める彼に言い放った。

「多くを望んだ畜生は、鬼の手により其の身を滅ぼされる」

驚いたように此方を見上げてくる土方さんは、私が何を言いたいのか薄々と感づいているのか。つまり、噛み砕いてしまえばこうだ。


「これ以上無駄な詮索をするようなら、お前を殺す」