優しい海に溺れたい

駆ける、駆ける。
瀞霊廷内を更木一行が駆け回る。地響きのような足音を立てながら進む剣八の背には、副隊長であるやちると旅禍の織姫が乗っかっていて、その後ろには部下の一角と弓親、真白、荒巻が追いかけていた。

「…で? 次はどっちの方角だ? 女」
「…えーーーっと…多分こっ…」
あっちだよっ!!

ごん! と痛そうな音が聞こえた。やちるが織姫の横顔に容赦なく石頭をぶつけたのだ。そのせいで織姫の左頬は真っ赤に腫れてしまった。

「ひどいよやちるちゃん、何するの!!」
「ねー!! 剣ちゃんもこっちだと思うもんねー!」
「織姫ちゃんに任せた方がいいんじゃないスか? 副隊長、探査能力に関しちゃ無能もいいとこなんだし」
「うるさいぱちんこ玉」

一角の言葉にムカついたのだろう。やちるは剣八の背の上から後ろに振り返り、ぺっと彼に向かって唾を吐いた。見事命中したそれは、べっとりと一角のつるつるな頭から垂れ下がる。

「……………」
「ホラ、おさえておさえて。ていうか、今のはキミの言い方も悪いよ…」
「いつも思いますけど、デリカシーないですよね」
「あァ゙!?」

真白の余計な一言のせいで更に怒りが募る一角をスルーし、大人しく剣八の後ろをついて行く。この中で一番探査能力があるのは真白なのだが、もうどうにでもなれと投げやりになっているため助言をすることなく走っている彼女は、だんだんと近づくある霊圧に案外やちるの探査能力も馬鹿には出来ないなと思った。
周囲の隊士を蹴散らしてある部屋の屋根上へ到着すると、剣八が地面を叩き割った。途端に騒がしい声が聞こえてきて、真白は小さく溜め息を吐くとスタッと軽やかに降り立った。牢の中には、黒崎一護を除く他の旅禍達が揃いも揃ってお縄にかかっている。

「てっテメーは…!! 朽木ルキアの牢の中で見た女…!!」
「テメー? 口の利き方がなってないようですね…本当に志波家の者ですか?」
「つかお前! また勝手にンな所に行ってたのか!」
「ちょっと用事があったんです!」
「用事ィ? 結局は尻尾巻いて逃げ出してたじゃねェか!」
「あれはっ!」

そこからは言葉が続かなかった。逃げた。確かにその通りだ。いくら口では『黒崎一護に託した』だの『彼なら朽木さんを守れる』だの言ったって、客観的に見れば真白は逃げたのだ。
浮竹と白哉の前に、あれ以上居たくなくて。

「…そうですね、逃げた」
「ハッ! やっと認めたのかよ!」
もー!! ゴリーうるさい!! それ以上真白を虐めるなら、あたしがぶっ潰すよ」
「うお、おおお…! い、いや、しねえ、もうしねえよ!」
「ならいーや。ほら、真白行こ! 剣ちゃんも早くー!」

やちるに手を引っ張られ、真白は慌ててついて行く。彼女の台詞が嬉しくて、顔が赤くなっているのを自分でも自覚しているため、顔はうつむかせながらせかせかと足を動かした。

「――真白しゃま」
!!

脳内にぐわんと響く、幼い子どもの声。その声の主が誰か分かるだけに、無視をするわけにはいかなかった。

「すみません」
「どうしたの?」
「…ここから先は、一緒には行けそうにないです」
「…突然どうして?」

弓親が無表情に尋ねる。真白はグッと拳を握りしめたあと、「目的は同じです」とだけ口にした。
彼女の斬魄刀が何故このタイミングで声をかけたのかは判らないが、きっと重要なことに違いない。真白はそう確信して、この先の同行を拒否したのだ。

「…よく分かんないけど、一角が君のことを信用してるし…なにより、僕だって君のことは信じてるからね。気をつけて」

「その美しい顔に傷をつけたら許さないから」と言いながらヒラヒラと手を振る弓親に礼を言い、真白は更木一行から離れた。
遠くからは「あいっつ! また勝手にどっか行きやがったな!」と吠える一角の声が聞こえてきて、真白はくすりと笑ってしまう。一角や弓親とは長い付き合いだが、本当に優しい。その優しさに浸りたくなるくらい、彼らの側は居心地が良い。

「……さて、と」

きっと、穏やかに過ごす日々は終わった。いや、すでに百一年前に終わっていた。仮初めで作られた――市丸が与えてくれた平穏を過ごしていたに過ぎない。
それももう、終わった。終わってしまった。

「ツキ」

見つからないように建物の陰に隠れ、息を潜めて名を呼ぶと、幼い男の子が現れる。ツキは金色の瞳に涙をいっぱいにためて真白に手を伸ばした。ぎゅうっとしがみつく幼子の背に真白も腕を回し、宥めるように頭を撫でる。

「真白しゃま……真白しゃまぁ…!」
「ツキ、泣かないで」
「ごめんなさい、なのです…! ツキは、ツキは…っ!」
「ツキが謝ることは何一つないよ。だから泣かないで…」

どうしてツキが泣いているのか、詳しい原因は真白には分からなかった。でも、一つ確かなのはツキが謝る必要は全くないということだ。
“あの日”以降、ツキはずっと自分を責めている。あれから斬魄刀を始解出来なくなった己に、ずっと。

「真白しゃま」
「なぁに?」
「ツキをぬくときは、きっとほんのうでわかるです。いつぬけばいいのか…真白しゃまのほんのうにしたがってくださいなのです」
「本能……」

ツキがそんなことを言うのは初めてだ。つまり、ツキを抜くときも近いということ。
真白は「判った」と呟くと、今一度ツキを抱きしめる力を強めた。すり…とツキの黒髪にすり寄り、一定のリズムで背を叩く。

「……ありがとう、ツキ」

心からの感謝を口にすれば、ツキは目を丸くしたあと、くしゃりと顔を破顔させて「どういたしまして、なのです!」と元気に答えて、消えた。
一人になった真白は暫くその場に蹲ると、キュッと髪を高く一纏めにして紐で結わえた。靡く白い髪は陽の光を浴びて、より一層その白さを際立たせた。

「行かなきゃ……」

その声は、震えてはいなかっただろうか。
誰も聞いていないそれに尋ねる人なんておらず、真白は震える手を必死に抑えて駆け出した。――真実を、暴くために。なにより…友人を助けるために。





一方その頃、朽木ルキアは双極まで向かうため、厳重な拘束をされて橋の上を歩いていた。瀞霊廷の騒動もここまでは届かず、耳が痛いくらいの静寂が広がっていた。
だからこそ、よく判ってしまう。誰の霊圧が消えたのか。

「…恋……次…?」

今まで巨大すぎて誰の霊圧かはっきりと判らなかったが、今消えたそれは確かにルキアの幼馴染み、阿散井恋次のものだった。自分を捕らえたくせに、なぜ彼の霊圧が消えたのか…ルキアには判らない。

「なぜだ…どうしてお前が…恋次!!」

思わず橋の高い柵に身を乗り出し、動揺をそのままに叫ぶ。そんなルキアを咎めるように彼女を連れて行こうとしていた人達の手が、ルキアの身体に歯止めをかけた時だった。――ギシッと、橋が軋む音が痛いくらいの静寂の中では、なかなかに大きく聞こえた。
ここにはルキアと、彼女を双極まで連れて行く三名の者しかいない。そんな一行の元へ、橋が軋む音は少しずつ、少しずつ、近づいてきた。最後に一際大きくキシッ…と鳴る。ルキアはようやくその音の正体を見ることができた。――瞬間、ゾアッと全身の毛が逆立ち、一気に冷や汗が吹き出た。これは、恐怖だ。

「おはよ。ご機嫌いかが、ルキアちゃん」
「――市丸……ギン…!」

まるで狐のように細められた瞳に、嫌味なほど釣り上げられた口角。何よりも男が――市丸が醸し出す雰囲気に、ルキアは怯えを孕ませた瞳を彼に向けた。