構築された世界の綻び

「あかんなァ。相変わらず口悪いんやねぇ、キミは。ギンやのうて、市、丸、隊、長。いつまでもそれやったら叱られるで、お兄様に」
「――…失礼しました…。…市丸…隊長…」
「あ、いややなぁ、本気にした? せえへんよ、告げ口なんか。気にせんといて、ボクとキミの仲やないの」

飄々とした態度なのに、どこか捕食者に追い詰められているような感覚に陥るのは、何故だろうか。ルキアはクッと目に力を入れると、恐る恐る口を開いた。

「…何故…、何故市丸隊長が…このような処においでなのですか…?」
「あァ」

ふっと雰囲気が軽くなる。しかしそれも数秒と保たなかった。

「なんや、大した用事やないんやけど。散歩がてら…ちょっと意地悪しに」

――ルキアは、この男が嫌いだった。彼女が護廷十三隊に入隊する少し前、彼女の兄である朽木白哉が六番隊の隊長に就任した。それと時期を近くして三番隊の隊長となった市丸は、ルキアが時折白哉と歩いていると決まって白哉に声を掛けた。

その頃、市丸の斜め後ろには副官ではなく、常に真白の姿があった。席官入りも果たしていない人を何故後ろに従えるのか、ルキアには不思議だった。
常に無表情で、雰囲気の軽い市丸の側に居るからか真白のそれはとても冷たい。ルキアの真白に対する第一印象はそんな感じだった。

世間話をする市丸と、白哉。そんな彼らの後ろに着く真白とルキア。立場は似ているようで、実はまったく違っていた。百年以上死神として護廷にいる真白と、入隊したばかりのルキアとでは、まるで雲泥の差があったのだ。

しかしながら、ルキアは当初、そこまで真白に関心を持ってはいなかった。いや、持てなかったと言う方が正しいだろう。それどころではなかったのだ。初めてルキアが市丸を見た時、全身から刺すような汗が吹き出したことしか、ルキアは憶えていないのだから。

指先も、口も、僅かな眼の動きさえも、全てが蛇の舌嘗めずりに見えて、話しているのは白哉なのに、常に己の喉元に手をかけられているように思えて、瞼一つさえ動かせなかった。

――この男が、嫌いだった。

真白の上司だというのは判っている。彼女がこの男を信頼していることも、よく知っている。だけど、ルキアにはどうしてもこの男に恐怖を感じずにはいられなかった。
理由などない。最初から、己の中の何かがこの男の総てを悉く拒絶していたのだ。

「どないしたん?」

ハッと意識を呼び覚ましたのは、皮肉にも市丸の声だった。

「急にえらいぼーっとして」
「…いえ…」
「あァ、そうや。死んでへんみたいやねぇ――阿散井クン」
「…な…まさか…!

再び身を乗り出して辺りを見渡す。確かに集中して探せば、弱々しいものの阿散井の魄動らしきものは感じられた。けれど、このままでは――。

「死ぬやろね、直ぐ」

ルキアも思っていたそれを代弁され、思わずギリ…ッと歯を噛みしめる。軽い口調でそんなことを言われれば、苛立ちも募るというもの。

「可哀想やなァ、阿散井クン…。ルキアちゃんを助けようとしたばっかりに…」
!? 莫迦な…! 適当なことを言うな!! 何故恋次が私を…」
「怖い?」
「…何…だと…?」

不意に投げかけられた言葉に、先程の勢いもしゅるしゅると萎んでゆく。

「死なせたないやろ、阿散井クンも他の皆も。死なせたない人おると、急に死ぬん怖なるやろ?」
「…………………!!!」

動揺、してしまった。
それをこの男の前で見せるわけにはいかなかったのに。油断してしまったばっかりに、蛇は獲物を捕食しようと舌を伸ばす。

「助けたろか?」

甘美な誘惑がルキアを襲う。そんな望みなど、白哉に切り捨てられたときにとっくに己の中から捨てたはずだったのに。

「い…市丸隊長…!?」
「何を…突然何をおっしゃいます!!」

隊長の台詞に真実味を感じたのだろうか、ルキアを拘束していた者達が慌て、焦りを募らせる。それすら視界に入れずに、市丸はザッ、ザッ、と更にルキアに近寄った。

「どうや? ボクがその気になったら、今スグにでも助け出せるで。キミも、阿散井クンもそれ以外も」

市丸の本心が、ルキアには何一つ判らなかった。何を思ってこの男がこんなことを言っているのか、想像すら出来ない。
だけど、もしも市丸の言っていることが本気なら――…。

「嘘」

優しく頭の上に乗せられた手は、ひどく冷たかった。手だけじゃない。声も、雰囲気も、全てが冷たかった。
そのまま市丸はルキアの横を通り過ぎ、軽く右手を挙げてみせる。

「真白チャンと仲良くしてくれておおきにな。ほなバイバイ、ルキアちゃん。次は、双極で会お」

希望は捨てたはずだった。
生きる理由も失った筈だった。未練などない。死ぬことなど、恐ろしくは無いと。
――揺るがされた。希望に似たものをほんのわずかちらつかされただけで、こんなにも容易く、『生きたい』と…思わされてしまった。

「(…覚悟を、)」

崩されてしまった――。

ああぁぁああああぁああ!!!

空に響くルキアの叫びに、市丸はうっそりと笑った。





「(もう朽木さんの処刑の時間がきちゃう…!)」

焦りながら走っていると、前方から見たことのある人物がこちらに向かってきているのが見えた。それが誰か判った瞬間、真白は回れ右をしてその人物に背を向けて来た道を戻る。
だが、敵の方が速かった。

「縹樹〜〜? なんでここにいるのかな?」
「と、戸隠…さん……」

グワシッ! と真白の首根っこを掴んだのは、三番隊三席の戸隠だった。まさかここで出くわすとは思わなかった真白はひくりと頬を引きつらせ、彼の様子をそろっと窺う。

「何処にいた…とかは、もうこの際いいよ。どうせこの戦況の中じゃあ、当初の守護配置なんてあってないようなものだし」
「(ホッ…)」
「それより、市丸隊長を見なかった?」
「…市丸隊長? いないんですか?」

吉良が牢の中にいる今、戸隠が吉良の役割を担っている。故に隊長の側にいなければならない筈なのに、その肝心の市丸がいないらしい。
こんなときにまで、と思うが、それを咎められるほど真白も偉くは無いし、今の今まで自分勝手な行動ばかりしてきたのだ。何も言えない。

「(そう、いえば…私も全然見てない。これだけ動き回ってるのに、一度も会ってない…)」

どうやら真白も知らないと判ったのだろう、戸隠は「とにかく、俺は今から双極に向かう。守護を怠るなよ!」と声を掛けてから真白の横を走り去る。

「……縹樹…?」
「ぇ……あ…、」

走り去る直前、通り過ぎようとした戸隠の死覇装の裾を真白が掴んだ。そのせいで前に進めず、彼は足を止めて真白を振り返る。当の本人はどうやら無意識の行動だったらしく、動揺を隠せずにいた。

「…どうした?」
「そ、の……戸隠さんも朽木さんの処刑は、当たり前のものだと思いますか…?」

掠れ気味の、小さな声だった。自信がないのが直ぐに判る。珍しい真白の様子に、戸隠は目を瞠ってしまった。

「…正しいか、正しくないかは俺には判断できないし、しても良いものではないと思ってる。所詮俺は一介の死神でしかないし、朽木ルキアが処刑されるほどの罪を犯したのかどうかすら知らない。全ては中央の決断だ。それをただの死神が異議を唱えるわけにはいかないだろ」

護廷の死神らしい、まさしく教科書のお手本のような答えだった。
真白は落胆し「そうですか…」と返事をすると、そっと掴んでいた彼の死覇装から手を離した。ほんの少しの沈黙が二人の間を駆け抜ける。真白がすみません、と謝ろうとしたとき、戸隠が「でも、」と先に言葉を続けた。

「俺個人の意見としては、納得いかない部分がたくさんありすぎて困ってるんだけどな」
「え………」
「だってそうだろ? 死神の力を譲渡したっていう罪を犯したとはいえ、それが処刑にまで行き着くと思うか? しかも譲渡の理由が理由だ。ますます処刑にされる意味がわからない」

肩を竦めてそう言った戸隠に、真白は目を見開いた。まさか、彼がそんなことを言う人物だとは思わなかったからだ。
驚く真白に戸隠は「これは秘密な」と笑うと、今度こそ双極に向かった。疑問を感じているからこそ、最後は自分の目で確かめるのだろう。処刑の意味を、真実を。

「……市丸隊長を探そう」

何故か無性に、彼に会いたい。
真白は一人になったその場から瞬歩で去ると、己の隊長を求めて瀞霊廷を駆け回る。
――思い出すのは、側から見ればくだらない、でも真白にとってはとても大切な“想い出”だった。