ぼやける視界をそのままに、ベッドに横になったまま窓の外へ目をやると、太陽の光が惜しみなく病室を照らしていた。
「……なつかしい」
ぽつりと呟いたその言葉の意味を知る者も、もう少ない。真白はギジリとベッドを軋ませながら起き上がると、窓に手を当てて外を覗くように顔を寄せた。
此処から見る景色も久しぶりだった。少なくとも数十年は大怪我なんて負わなかったから、四番隊に世話になることも――この病室に来ることもなかった。
しばらくぼうっとしていると、静かに部屋の戸が開いた。誰かなんて霊圧ですぐにわかる。真白は振り向かず、外の風景を眺めながら口を開いた。
「…ご迷惑かけちゃいましたね、京楽隊長」
「……起きてたんだね、真白ちゃん」
藍染達が裏切ったあの日、真白が意識を失う寸前に映ったのは京楽だった。そのせいで彼に迷惑をかけてしまったことを、真白は悔いていた。
「迷惑なんて思ってないよ。むしろ役得だった?」
「……お見舞い、ありがとうございます」
「あっ、無視しないでよ〜!」
ふわり、花の香りが部屋に広がる。ああ、京楽の匂いだ。
未だ窓の外に顔を向ける真白だが、不意に香る匂いにそっと目を伏せた。市丸が居なくなったからだろうか――何故か、今日はこんなにも懐かしさを覚えてしまう。
そんな真白の気持ちに気づいたのか、京楽は見舞い品を机の上に置いて、ベッドサイドにあった椅子に座った。
「懐かしいね、この部屋」
「……そう、でしょうか」
「うん。真白ちゃんが最後にここを使ったのは…いつだっけ?」
「私も覚えてないので……もう、数十年は前になりますかね」
「昔はあーんなに毎日此処に居たのにねぇ」
やめてくれ。真白はたまらず叫びそうになった。
昔を懐かしむなら、早く出て行って欲しい。過去のことなんて思い出したくない。いや、むしろ自分がこの部屋から出て行きたい。
なのに、足はちっとも動いてくれなかった。
「さて、と。実はね、真白ちゃんに訊きたいことがあるんだ」
「…訊きたいこと……」
「うん。……市丸ギンのこと」
その名を聞きたくなかった。自分を置いて何処かへ行ってしまった者の名など、真白は聞きたくなかった。
「…なんでしょうか」
声は、震えていなかっただろうか。
窓に添えている手をぐっと握りしめ、真白はドクドクと鳴る心臓の鼓動を感じていた。
「市丸ギンが裏切っていたこと、真白ちゃんは知っていたかい?」
――知っていた?
真白はまさかそんな質問をされるなんて予想すらしていなかった為、一瞬頭が真っ白になった。衝動のままに動きそうになった身体を咄嗟に理性で止め、紛らわすように外を眺める。
「…いいえ、知りませんでした」
「よく一緒に行動していたのに? …そもそも、どうして三番隊に移隊したんだい? それも平隊員…席官から降格するなんて、あまりある話じゃあないよ」
見てなくても判る。きっと今、京楽の眉間には皺が寄っていることだろう。昔からそうだった。
けれど今その理由を語る訳にはいかないし、話そうとも思わない。だって、それを話したら、彼の――ギンのしたことが、企みが、すべて暴かれてしまう。
「それ、は…」
でも、上手な言い訳なんて出来やしない。
だって、彼が自分を三番隊に移隊させた意図なんて、真白自身もつい最近――藍染が裏切ったことで漸く判ったところなのだ。
しかも理由が理由なだけに、真白の口は重たく閉ざされてしまう。
「……言えない?」
「………、」
「…だったら――」
「……て、」
ぼそりと、小さな小さな声が京楽の台詞を遮った。静かな病室だからこそ聴こえたそれに、京楽は続きを言うことなく、真白が口を開くのを待った。
数秒か、数分か。やっと真白は口を開き、無感動に、無感情に言葉を紡いだ。
「三番隊に移隊したのは、市丸ギンが私に来て欲しいと言ったので移隊しました。平隊員になったのは、私が席官は嫌だと断ったからです」
「……それ、僕の目を見て言えるかい?」
「…失礼、でしたね」
「ううん、真白ちゃんがそういう態度を取るのは昔からだし、僕は久々に本当の真白ちゃんに会えたみたいで嬉しいから、失礼なんて思ってないよ。ただ――今言った台詞を、今度はこっちを向いてきちんと言えるのかなって」
ふう、と頭にかぶった笠を取って、京楽は真っ白な髪を光に晒す真白を見つめた。
「真白ちゃん、嘘つくときは人の目を見ないから」
簡単に嘘を見破った京楽に、だから自分の過去を知っている人は厄介なんだと胸中で罵った。けれどいくら罵ったところで、振り返ることは出来なかった。
より強く拳を握りしめ、外から目を離さない。真白がそうする理由を悟った京楽は、片目を閉じて呆れた溜め息を吐いた。
「……いつまでも強がってないで、ほら、おいで」
優しい声だった。彼にこんなに優しく「おいで」と言われたのは、果たして何年振りか。
真白は反射的に窓から手を離し、恐る恐る振り返った。その顔は京楽の予想通り、涙で濡れていた。くしゃりと目からとめどなく涙を流し、眉は八の字に垂れている。まるで幼少の頃の真白のようで、京楽は暖かな眼差しを向けて腕を広げた。
「おいで」
最後の後押しと言わんばかりにもう一度言われれば、真白は抗えなかった。ベッドを軋ませて、思い切り京楽に抱きつく。その広い胸に顔を預けて、とうとう真白はわんわんと子どものように泣きじゃくった。
「春水…しゅんすい…っ!」
「やぁっと名前、呼んでくれたねぇ」
「ごめんなさい……ごめんなさ、っ…っ! わたし、しら、知らなかったの! そっ、惣右介くんが裏切ってたことも、っ、ぎ、ギンが…裏切ってたことも…!」
背に回る京楽の腕が暖かくて、真白は余計に涙を流した。いつだってこの腕は、自分を優しく包み込んでくれた。嬉しい時も、悲しい時も、まるで父親のように。
「っあ、会いに行けなくて…っ、ごめん…!」
「そうだよ〜? どうして会いに来てくれなかったの?」
「だって……っ! か、髪の毛が真っ白になっちゃった…!」
ぎゅうっと、京楽の女物の着物を強く握りしめる真白の口からは、ぽろぽろと百年溜めた想いが溢れ落ちる。
「みんな、みんな真白の真っ黒な髪が好きだったのに……! ま、ま、真っ白になっちゃったっ…!」
吐露された台詞に、京楽は目を見開いた。視界に映る白い髪が、まさかこんなにも彼女を縛りつけていたなんて。
嗚咽交じりになんとか言葉を繋ぐ真白の髪を撫で、サラ…とそれを持ち上げた。太陽の光はここまで届いていない。それなのにこんなにも輝いて見えるなんて不思議だ。
「僕は好きだよ、この真っ白な髪」
「うそだ……」
「どうして嘘だって判るの? 確かに真っ黒な髪は真白ちゃんの象徴みたいなものだったけど…、今は、
京楽の手に優しく撫でられ、真白はさらに涙を流した。彼の言った言葉が嘘じゃないと判ったからだ。いや、最初からこの男が自分に嘘なんて吐くはずがない。
そもそも、頭のどこかで判っていたんだ。たかだか髪が真っ白になったくらいで、京楽や浮竹の態度が変わるはずがないと。
しかし否定してしまった。真っ白になった自分を、真白自身が。
「春水……」
「ん?」
「…ごめん、なさい」
ぐす、と鼻をすすりながら小さく謝った真白に、京楽はようやっと安心した笑顔を浮かべた。腕の力をさらに強め、小さな存在をもう逃さないように抱きとめる。どうやら彼自身もこの百年間、いつも後ろを付いて回っていた真白に距離を置かれて、寂しかったみたいだ。
「いーよ。真白ちゃんの我儘には慣れっこだからねぇ」
「わ、がままって…!」
「あれ? 違った?」
顔を覗き込まれて、たちまち頬を赤く染める真白はハッとして京楽の膝から降りた。衝動のままに彼に飛びついたが、こんな場面をもしも他の隊士にでも見られてみろ、処罰ものだ。
「…じゃ、本当の理由を話してくれるね?」
柔らかくなった空気の中、京楽が当初の目的を口にすると、真白はベッドの上に座って小さく頷いた。彼女は白い病人服の裾をぎゅっと掴み、やがて二人の目が合わさった。