仮初めの平穏な日々

けたたましい音が部屋中に轟く。山のように盛り上がった布団の中からにゅっと手が伸び、うろうろと彷徨ってからばちんと音を止める。再び静かになった部屋には、心地好さそうな寝息が微かに聞こえた。
それから数時間後――のそのそと起きた真白は、すっかり日が昇った空を見て漸く動き始めたのである。

「また君は…これで何度目だい…?」
「えへへ、ごめんなさい」

にへら〜と笑う真白に怒る気も失せた吉良は、軽い注意だけして仕事に促した。自分のデスクには限界まで積まれた書類の山が二つ三つある。見ているだけで気が滅入るが、真白はテキパキと行動して物の見事に書類を捌いた。
藍染の裏切りが発覚して数日。尸魂界は表面上の平穏を取り戻していた。吉良も無事釈放され、今は三番隊の副隊長の座に戻ってきている。しかし隊長のいない穴は大きく、吉良の目元にはくっきりと濃い隈が出来ていた。

「(…吉良副隊長、きっと寝てないんだろうなぁ…)」

こうなったら、無理やりにでも休んでもらわないと。
寝坊した真白が言う台詞ではないが、それは三番隊の皆が思うことだった。だが、吉良はきっと休まない。部下である自分が言ったところで、彼は素直に聞く人物ではないからだ。
そうこうしていると、文字通り山積みだった書類はあっという間になくなり、真白は大きく伸びをした。ざっと二時間弱。休憩しても良いだろうと勝手に決めつけ、ちょうど休憩から帰ってきた戸隠に声をかけた。

「戸隠さん、」
「縹樹、おはよう」
「おはようございます! あの…」
「?」

コソコソと吉良から隠れるように戸隠を引っ張り、休んでもらってはどうかと提案する。すると、戸隠も吉良の体調を気にかけていたようで、すんなりと頷いた。
あとは戸隠に任せておけば大丈夫だと安心した真白は、「では、失礼します」と彼の横を通り過ぎた。

「縹樹? 何処に行くんだ?」
「ちょっとお散歩に行って参ります!」
「おー、気をつけて……ってちょっと待った! あの山積みの書類は!?」
「全部処理済みでーす!」
「てことは……待て待て待て! 配達……っ、あ、んの…莫迦…」

戸隠は、山のように積み上がった書類を見て肩を落とした。またこのパターンか、と。定着化してきたやり取りから気をそらすために、真白は吉良のことを先に言ってきたのだ。そのことに漸く気づいてももう遅い。真白の策略にまんまと嵌ってしまった戸隠は、先に吉良に休んでもらおうと隊主室に足を向けたのである。

「あっ」
「! 真白!」
「ふふ、ルキアも休憩中?」
「ああ。真白もか」
「うん」

のんびりと話し込む真白とルキア。そこへ阿散井が「何やってんだ?」と二人の間へ割り入ってきた。

「のんびりまったり中です」
「恋次は来るな」
「冷てぇな…」

ルキアの態度にヒクヒクと口角を引きつらせた恋次は、「俺は仕事中だから」とさっさと行ってしまった。

「そうだ、最近朽木隊長とはどうなの?」
「ん? あぁ…最近は、今までの時間を取り戻すかのように、私との会話を大切にしてくれているのだ。亡くなられた私の姉様である緋真様のことも、ぽつぽつではあるが教えてくださって――…」

その後、随分と話し込んだ二人は互いに手を振り合って別れた。一人になった真白は、しばらく悩んだ末歩き始めた。

「……あーもう…」

その数秒後、視界の端にチラチラと綺麗な紅色の花弁が舞い始めた。途端に顔を歪めた真白は、耐えるようにその場に蹲ると、ふわりと誰かに頭を撫でられた。小さな手だ。

「……ツキ、」
「真白しゃま、そろそろおやすみになったほうがよいのです」
「んー…そう、かなぁ…?」

吉良のことを心配していた真白だが、実は彼女もあれからその身に余るほどの仕事量をこなしていた。午前はいつも通り寝過ごしているが、出勤してからは馬車馬のように働いているのだ。それこそ、夜がどっぷり更けるまで。

「でもね、寝たくないんだよ」
「……真白しゃま…」
「…寝て起きたら、全部夢だったらいいのに……って、何回望んだだろう…」

膝を立てて座り込み、そこに額を乗せて吐露する真白に、ツキは何て声をかけたら良いのか判らなかった。何が正解で、何が不正解なのか…それは真白自身にも到底知り得ないものだった。

「なんて! ごめんね、ツキ。暗い話しちゃって」
「っ……」
「…全部過去のことなんだから。あの人たちが居なくなったのも、ギンが裏切ったのも。…所詮、どうすることも出来ない。思い出すだけ無駄だよ」
「そっそれは――」

それは違う。
ツキはそう言おうとしたが、最後まで言えなかった。顔を上げた真白の表情が、割り切った台詞とはまったく逆だったから。
辛くて、悲しくて、悔しくて。けれど――会いたい。
本音を口にしないのは、出来ないから。弱り切った心で本心を口になどしたみたら、それこそもう止まらないだろう。どれだけ強がったって、どれだけ“過去”と言ったって、真白の中では“現在”であり、“過去”ではないのだから。

「……戻ろっか、ツキ」
「…はい、なのです、真白しゃま…」

キュッと手を繋ぎ、隊舎に向かう。夕日に照らされて伸びた二つ分の影は、やがて一つになり、ゆらゆらと揺れた。