百十年前

――これは、まだ敬語も上手く使うことの出来なかった縹樹真白が、五番隊三席として在籍していた頃の話である。時間にしておよそ、約百十年前。
綺麗な黒髪を靡かせた背丈の小さい彼女の顔には、いつだって笑顔が浮かんでいた。



トタトタと床を踏む音を鳴らしながら、真白は黒髪を靡かせた。「おはようございます、縹樹三席!」と元気の良い挨拶に「おはよう!」と此方もまた元気に返事をすると、次々に挨拶が飛び交った。
五番隊隊舎に着くと、ちらほらと既に数名の隊士が出勤していた。ここでも挨拶をすると、真白は自分のデスクに座って足をぶらぶらと揺らした。タワーの様に積み重なっている書類には目もくれずに。
どれほどそうしていただろうか。再び挨拶のオンパレードが始まり、真白は頬杖をつきながらちらりと扉の方に視線を向けた。入ってきたのは綺麗な金色の長髪を揺らし、何とも眠そうな顔を隠すことなく晒す――我らが隊長、平子真子であった。

「おはようございますっ平子隊長!」
「おー、おはよォさん」
「おはようございます、隊長!」
「おはよォ」

律儀に挨拶を返す彼の目が、此方に向いた。そのまま平子は真白の元へ行き、ぐしゃぐしゃと彼女の髪を乱した。

「もー! 真子!」
「平子隊長やって何回言えば分かんねん!」
「はいはい平子隊長ー」
「おまっ……はー、エエわ。俺はオトナやからな。広い心で許したるわ」
「あっそ」
「なんっちゅー態度や! …あーもー…」

朝っぱらからひどい言い合いだ。けれどこれが毎朝の恒例行事となりつつあるのだから、慣れって怖い。
諦めたように肩を落とした平子は、自分で乱した真白の髪を整えるように撫でた。

「おはよーさん、真白」
「おはよ、真子」

とりあえず当面の目標は、コイツに敬語の使い方と隊長呼びさせることやな。
ひっそりと平子がそんなことを思っているだなんて知らない真白は、去っていく彼の背中を目で追いかけた。

「やぁ、おはよう縹樹君」
「あ、惣右介くん。おはよう」
「君はまた…昨日も言ったばかりだろう? 目上の人には――」
「『目上の人には敬称と敬語がセットだよ』」
「……判ってるのなら、ちゃんと使うこと。君はもう“三席”なんだから」
「判ってるんだけど…咄嗟に上手く使えなくて。これから練習していくつもりなの」
「なら、まずは僕のことを――」
「明日からね!」
「……それ、確か昨日も聞いた気が…」
「じゃ、行ってきまーす!」
「は? ちょっ…縹樹君!」

藍染の声など知らない振りをして、真白は隊舎から飛び出した。彼が追ってこないことを知っている分、逃げやすいのだ。
毎日毎日ネチネチと小言を言われれば、おちおち仕事もしてられない。そう自分に言い聞かせたのは、果たして何回目か。都合の良い言い訳をしながら向かう先は、十三番隊だ。

「十四郎ー」
「お、真白!」
「えへへ、来ちゃった」
「ちょうど良いところに来たな、菓子があるぞ」
「えっほんと? 十四郎がそんなに言うなら…仕方ない、お相伴に預ろう!」

キラキラと輝く菓子を見て、真白は偉ぶったように雨乾堂に上がった。どうやら今日は体調が良くないみたいだ。布団の上でたまに咳をする彼の側に座り、下から顔を覗き込んだ。

「いつもよりひどい?」
「…いや、真白が来てくれたからな。随分とマシになったさ」
「ほんと?」
「ああ!」

こっくりと頷く浮竹にホッと息を吐いた真白は、ここで漸く勧められた菓子を手に取った。もぐもぐと菓子の甘みを噛み締めていると、トントンと扉がノックされる。浮竹が返事をすると、扉はスーッと開いた。

「浮竹隊長、身体の具合はどうです……って…」
「あ、海燕」
「出たなチビ助……! また仕事サボりやがって…」
「サボってないよ、十四郎のお見舞いに来たの」
「口の周りに食べカスつけてる奴の言うセリフじゃねーよ」
「………」

まさか付いていたとは。無言でゴシゴシと食べカスを拭った真白は、持っていた残りの菓子を全部口に放り込み、もぎゅもぎゅとリスのように頬張った。
そんな姿を見てしまえば、怒るに怒れない。いや、むしろ本気で怒れるなど思ったことすらない。ふかーい溜め息を吐いた海燕は、ガシッと真白の首根っこを掴んで扉へ向かう。

「わ、わっ! ちょっと海燕!?」
「そんなに暇なら、ウチの仕事手伝っていくよな?」
「あっ…あーあー! えっと、暇じゃなくて…そうだ、惣右介くんに頼まれてたことがあったんだった! いっ急いで行かなきゃ」
「そうか、俺がいないからな。真白が手伝ってくれるなら百人力だな!」
「浮竹隊長もこう言ってることだし、行くぞ」
「…なんでこんな目に……」

がっくりと肩を落としてうな垂れた真白を見て、浮竹と海燕は噴き出すように笑った。
雨乾堂から出て隊舎へ向かう途中、ぽつぽつと会話する海燕と真白。さながら兄妹のように見えなくもない二人の後ろ姿を、他の隊士はすれ違いざまについ目で追ってしまった。

「真白」
「………」
「………」
「…………」
「上司の呼びかけに無視すんじゃねーよ…!」
「上司じゃないし」
「他隊でも俺とお前は上司と部下の関係だろーが!」
「もー、判ったってば。で、なに」
「…………」

――ゴツン!

「〜〜〜〜っ…!」
「よしっ」

容赦無く頭をグーで殴られ、しゅうしゅうと煙が出ている。真白はあまりの痛さに頭を抱えてしゃがみ込んだ。下から涙目でキッと海燕を睨み、ガウッと噛み付いた。

「何すんのさ!」
「お前が何してんねん」
「私は何もしてっ――……」

海燕ではない声に、真白は最後まで言えなかった。朝以来聞いていなかった声、珍しい関西弁。何度も感じたことのある霊圧。
真白はギギギギ…と、壊れたブリキのようにゆっくりと後ろを振り返った。

「し、真子……」
「よォ」
「な…何でここに…」
「伝令神機で連絡来てたんだよ。どうせまた十三番隊ウチに来てると思うから、捕獲しとけって」

何とまあ用意周到なこって。ここまで行動パターンが読まれているとは思いもしなかった真白は、冷や汗ダラダラ。今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られたが、それをこの男が許してくれるはずも無い。

「で、何しとったんや?」
「なっ…何もしてないよ!」
「せや、お前は何もしとらん」
「だったら――」
「仕事もしとらん、な?」
「あ……」

それを言われると耳が痛い。朝、見て見ぬ振りをした書類のタワーを思い出し、真白は「あははー…」と笑って誤魔化そうとした。

「えぇご身分やのォ! 俺が汗水流して仕事しとるっちゅーに!」
「だって、書類整理苦手なんだもん」
「苦手は克服するためにあんねんドアホ。さっさ行くで」
「はーい…。じゃーね、海燕」
「ちゃんと仕事しろよー」

最後の海燕の台詞には返事をせず、真白は平子に引っ張られながら五番隊に帰った。彼女を出迎えたのは、朝よりも山積みになった書類達。それが一つでは無く三つあるのは見間違いではないだろう。

「し、しんじ…」
「ほな、頑張りや」
「こっ…これをひとりで…?」
「みんなこれくらいしとる。気張ってやったらすぐや」
「気張ってって……」
「…終わったらいつもんトコ連れてったるから」
「!」

その一言でやる気が出たらしく、真白はこくこくと何度も頷くとすぐにペンを持って仕事を始めた。最初からこの手を使えば良かったかと悩んだ平子だが、いや、奥の手で取っておこうと隊首室へと入った。