とても綺麗な銀色だった

その日は厄日だった。
目覚まし時計が壊れて寝坊するし、朝食を食べそびれて頭は働かないし、そのせいで書類は誤字まみれ。確認と称した平子に見つかり散々説教され、くたくたになったところで書類配達を命じられ、背丈を軽く超えた量を渡されて、隊舎を出ようと一歩足を外に出したらつまづいて、大量の書類をぶちまけてしまった。
挙げ句の果てには――。

「市丸ギンや、よろしゅうな」
「……だれ、これ」
「今名乗ったやろ、新しい隊士や。なんでもたった一年で真央霊術院を卒業した、天才くんや!」
「ふーん」
「で、真白にはギンの教育係を頼むわ」
「ふーん……って、ハァ!? なんで私!? もっと他に適任者がいるでしょ!?」
「敬語使えアホ! 新人の前やぞ!」
「うるっさい!」

人に何かを教えるだなんて、絶望的に自分に向いていないと自覚している真白は、平子の命令に牙を剥いた。それは他でもない平子が良く知っているくせに、何故そんなことを頼んでくるのか。
するといつまで経っても言い合いをやめない二人の間に、藍染が割り込んできた。怒りマークを浮かべた彼は、低い声で「話をさっさと進めて下さい」と先を促す。

「そりゃー、真白の他にも適任はおるけどやなァ」
「ほら! だったら――」
「せやけど、俺はお前に頼みたいねん」

そう言われてしまえば、ぐうの音も出ない。何かを言おうとした口はゆっくりと閉じ、此方を見下ろす平子の目を見返した。

「……わかった」
「ちょろ」
「っ! っ…、っ!」
「縹樹君落ち着いて。その気持ちは判るけど、隊長に斬魄刀を抜くのは駄目だ」
「だって、見てよ惣右介くん! 真子のあの顔!」

不細工な面を前面に押し出してくる平子を指差す真白を、藍染は苦く笑いながら宥めた。自分としてはなんとも言えないのだ。

「…市丸ギン、だっけ」
「おん」
「私は縹樹真白。よろしくなんてしないから」

フン、と偉そうに腕を組んで言ってみたはいいものの、背丈が変わらないためそこまでの効果は得られない。市丸はニコニコ笑顔を崩さず、また「真白チャン? よろしゅうなあ」とヒラヒラ手を振った。

「…ちょっと、名前で呼ばないで」
「なんで?」
「あんた新人でしょ? 私は三席なの。馴れ馴れしく名前で呼ばないで」
「せやけど、真白チャンは隊長サンのこと名前で呼んではるやん」
「うっ……そ、それは…」
「確か副隊長サンのことも……」
「わっわかった! わかったから…名前で呼んでいいよ…」

「くそ…狐みたいな目してるくせに…」とブツブツ言いながら真白は唇を尖らせる。市丸はどこか楽しそうにニィッと笑うと、真白の手を取って隊舎から飛び出した。これには平子と藍染も驚いたらしく、「どこ行くねん!」と慌てて叫ぶも、二人の姿はもう何処にもなかった。

「ちょっと! どこ行くのさ!」
「んー? どこ行こなあ」
「考えもなしに飛び出したの!?」
「やって、あそこにおりたなかってんもん」
「…………、」

その台詞に含まれる意味とは何か。真白は一瞬だけ考えたが、早々に諦めて今度は自分が市丸を引っ張った。「どこ行くん?」踊るような市丸の声が後ろから聞こえる。「黙ってついてきて」ほんの少し荒い真白の声が、後に続いた。
ザッ…と土を踏みしめる音が止まり、市丸は改めて連れてこられた先を見回した。 尸魂界が一望できる高台に、存在を主張する大木。サァ…と風が吹けば豊かな葉が揺れ動く。

「ええ景色やなあ…」
「私のお気に入りの場所なの」
「ええの? お気に入りの場所をボクに教えてもて」
「いーの。どうせまだ死神になって日が浅いし、安らげる場所なんて知らないんでしょ、市丸」

よいしょと木の根元に腰を下ろし、大きく伸びをする真白は、ふと何もないところを見上げて眉を顰めた。まるでそこに何かあるように、忌々しげに睨む瞳。そこになんだか放っておけない何かを感じた市丸は、彼女の隣に座ってギュッと手を握った。

「なんか見えとるん?」
「…別に、見えてない」
「ふーん?」

見えていないと言ったくせに、握る手には力が込められる。真白の言うことを全く信じていない市丸は、トン…とすぐ側にあった肩に頭を預けた。

「(……最近見えなかったのに…なんで――)」

掻き消すように前髪をぐしゃりと乱し、俯く。たとえ瞼で視界を塞いでも、“紅い花”が消えることはなかった。
ああ、やっぱり今日は厄日だ。朝から寝坊するし、朝食は食べ損ねたし、誤字は多くて説教され、そのせいで書類配達に無理やり行かせられてぶちまけて。挙げ句の果てには教育係。なんともツイてない。

「真白チャンあったかいなあ」
「…市丸は冷たいね」
「ボク低体温やねん」
「夏場は重宝しそう」

ここに来るまで、たくさんの目が自分達を追っていた。純粋に驚きの眼差しならまだ良いが、大半は嫉妬や恨みといったドロドロした感情が含まれていた。
昔から、真白はそういう視線を浴びることには慣れていた。真央霊術院に行ってもいないのに死神入りし、五番隊の三席を務めているのだ。恨みつらみなら山ほどあるに違いない。だが市丸は違う。彼はきちんと真央霊術院を卒業し、順序を踏んで護廷にやって来た。ただそれが速すぎただけのこと。それなのに、どうして市丸までそんな視線を浴びなければならないのか――真白には理解できなかった。

「……ねえ」
「ん?」
「…何で死神になったの?」

霊力があったから。それだけの理由の奴らならたくさん見てきた。けれど市丸は違うと、心のどこかで確信していた。
だからこそ彼は、未だ真白の肩に頭を預けたまま身動き一つせず、口を閉ざす。ここで嘘を吐くのが市丸の常なのだが、何故か真白には嘘を吐けなかった。

「…ある目的があんねん」
「もくてき?」
「おん。まだ誰にも言えへんねんけど、そのうち真白チャンには教えたるわ」
「……目的、果たせるといいね」

そっと呟くと、市丸は「おおきにな」と柔らかい声色で礼を言った。

「なーなー、何で真白チャンは死神なったん?」
「ギンが大きくなったら教えたげる」
「ほんまに? って…今、名前……」
「…私のことも、真白でいいから。その…――」

はふ、とどこか照れたように息を吐いた真白は、隣に座る市丸に見えないようにそっぽを向き、ウロウロと目を泳がせた。

「…これからよろしく、ギン」

今日は厄日だ。なにせとことんツイてない。――だけど。

「こちらこそよろしゅうな、真白」

ギンとの出逢いは、それほど悪くなかった。
そっと隣を盗み見ると、ちょうど市丸と目が合う。ニンマリと笑うその顔にべしっと軽く叩くと、真白は立ち上がって手を差し伸べた。「帰ろ」「おん」と短い会話の中に、確かに繋がった糸が見えた気がした。
――いつの間にか、“紅”は見えなくなっていた。