どうか、そのままで

執務室の喧騒は聴こえず、隊首室は静寂に包まれていた。とうに筆を置いていた平子は、大きく息を吐くと重たげに口を開いた。

「……いつから知っとったんや、隠し事しとるっちゅーこと」
「気づいたのは最近だけど…確信を持ったのはついさっき、喜助のところで見た新しい義骸かな…? 上手いことはぐらかしてたけど、喜助が『研究者の性』なんかで新しい実験をするなんて言い訳、聞いたことなかったから」
「あのアホ…」

手のひらで目を覆い、天井を仰ぐ。普段はけろっと嘘を吐くくせに、こういうときは途端に嘘を吐いたことがない子どものようになるのだから、勘弁してほしい。
――無意味なことだと判っていた。危険なことを一切排除して、目を、耳を塞ぐだなんて。真白には到底いらないことだと判っていた。けれど平子は、判っていても止められなかった。何も知らないところで育ってほしいという親心からか、それともまた別の何かか――。どういった感情なのかは未だ自分でも解らないが、ただ知って欲しくなかった。

「今日、拳西達九番隊が任務に行ってた。…それと、関係ある?」
「……ほんま、勘のええやっちゃ…」

ここまで来れば誤魔化せる訳がない。平子は半ば諦めの溜め息を喉元で飲み込み、腹を括って話そうとした。
――ガンガンガン!
しかしそれは、けたたましい轟音によって遮られた。

《緊急招集! 緊急招集! 各隊長は即時、一番隊舎に集合願います!! ――九番隊に異常事態! 九番隊隊長六車拳西、及び副隊長久南白の霊圧反応消失! それにより緊急の――》

耳を打つ音が、鳴り止んだ後も真白にはずっと聞こえていた。

「緊急、隊首会…? 拳西と白の霊圧か消失って…」
「(なんやと…!?)」

苦い顔をした平子は、ザッと立ち上がって隊首室から出て行こうとする。長い金髪を視界の端で捉え、真白は咄嗟に「真子!」と叫ぶように呼び止めた。

「…帰って、くるよね…。ま、白達、無事だよね…?」

なんてか細い声。情けなく震えたそれは、普段の真白なら有り得ないものだった。けれど平子にとってはひどく懐かしく、彼女と出逢った頃を思い出すものでもあった。

「アホ。帰って来るに決まっとるやろ。アイツラも無事や」
「ほんと……?」
「なんや、帰ってこん方がええんか?」
「っ、」

どこにきっかけがあったのかは解らないが、突然ハラハラと涙を流す真白を、真子は強く抱きしめた。自分は此処にいるとでも言うように。強く、つよく。

「かっ…帰ってくるの、待ってるから…!」
「別に待っとかんでもええわ! あー…あれや、前言うたやろ」

くしゃり、と黒い髪を撫で、平子はいつものように自尊心溢れた笑みで見つめ返した。

「『何処におっても探したる』」
「ぁ……」
「真白の行きそうなトコなんか目ェ瞑っても判るわ。せやから何処でも行っとけ。帰ってきたら真っ先に真白を見つけたる」
「……わかった。…行ってらっしゃい、真子」
「“平子隊長”や、アホ」
「…ひらこ、隊長」
「イヤそうに言うなや!」

「ほな、行ってくるわ」ヒラヒラと軽く手を振る平子の背に、真白は思い出したようにまた引き止めた。

「おはぎ!」
「ハァ!? おはぎぃ!?」
「白と約束したの! 帰ってきたらみんなで行こうって! もうリサにも言ってるからっ…ぜ、絶対、絶対行こうね!」
「…しゃーない、行ったるわ! 美味いトコやないと行かんからな!」

憎たらしい台詞を吐いて、今度こそ平子は出て行った。人のいなくなった隊首室は、来たときのように静寂を取り戻していた。先程まで握られていた筆を暫く見つめ、手が汚れるのも構わずに持ち上げた。
墨のせいで真っ黒になる手のひら。まるで自分の髪色のようだと思いながら、真白は筆を洗って懐にしまった。帰ってきたときに筆が無くて困ればいい。そんな、小さな悪戯心だ。
それがまさか、もう返せなくなるなんて。この時はまだ、予想すらしていなかった。





「火急である!」

鋭い声がその場を走った。
一番隊舎の中は緊急招集に応じた隊長達で並び、皆各々厳しい顔つきをしていた。

「前線の九番隊待機陣営からの報告によれば、夜営中の同隊隊長・六車拳西、同副隊長・久南白、両名の霊圧が消失。
原因は不明! これは想定し得る限りの最悪の事態の一つである!」

つい先日まで、ほのぼのとした瀞霊廷だったはずなのに。今や原因不明の事件に踊らされる羽目になるとは、なんとも情けない。
そんな想いを胸のうちに抱えているのは、一人二人ではないはずだ。

「昨日まで流魂街で起きた、単なる事件の一つであったこの案件は、護廷十三隊の誇りにかけて解決すべきものとなった! よってこれより、隊長格五名を選抜し、直ちに現地へと向かってもらう!」

総隊長である山本の台詞が終わると同時に、ダンッと大きな音が一つ響いた。開いた扉の先で肩で息をするのは、十二番隊隊長、浦原喜助だ。
長である山本に「遅いぞ」と言われても、彼は動じなかった。隊長に任命されたばかりの頃とは大違いだ。

「ボクに……行かせて下さい…!」
「ならん」
「ボクの副官が現地に向かってるんス! ボクが…」
喜助!!!

否と言われても尚噛み付く浦原の名を叫んだのは、卯ノ花の横で待機していた四楓院夜一だ。元々の上司である彼女には、浦原も容易には逆らえない。それまでの勢いを失った彼に、夜一は更に言葉を続けた。

「情けないぞ、取り乱すな! 自分で選んで行かせた副官じゃろう! おぬしが取り乱すのは、其奴へと侮辱じゃというのが解らんか!!」

飛ぶ叱責に、浦原は反論出来なかった。

「…続けるぞ」

漸く落ち着いた浦原に、山本は冷静に命令を下す。

「三番隊隊長・鳳橋楼十郎、五番隊隊長・平子真子、七番隊隊長・愛川羅武。
以上三名は、これより現地へ向かってもらう。二番隊隊長・四楓院夜一は別名があるまで待機。六番隊隊長・朽木銀嶺、八番隊隊長・京楽春水、十三番隊隊長・浮竹十四郎の三名は、瀞霊廷を守護。四番隊隊長・卯ノ花烈は、負傷者搬入に備え、綜合救護詰所にて待機せよ」

つらつらと述べられていくそれに否を唱えたのは、最後に名を呼ばれた卯ノ花だった。

「お待ち下さい、総隊長。負傷者の処置を考えるのであれば、私は現地へ向かうべきではないでしょうか」
「状況が不明である以上、治癒部門の責任者を動かす訳にはいかん。現地には別の者を向かわせる。――入れ」

ギィィィィ…と重たそうに扉が開く。姿を現したのは鬼道衆を取りまとめる鬼道衆総帥、大鬼道長の握菱鉄裁と、副鬼道長の有昭田鉢玄の二人。普段表に姿を表すことのない人物に、長年隊長を務めている浮竹や京楽でさえ驚いたのであった。





「…大丈夫かな、拳西と白…」

晴れない顔で大切な人達の安否を憂いた真白は、縁側で足を揺らしながら平子達の帰還を待っていた。あれから数刻が経ったが、誰一人帰ってきていない。緊急招集を呼びかけるくらいだ、よほど件の事件が大事になっていることくらいは判っているのだが、いかんせん事件の内容を知らない真白には、今何がどうなっているのかは解らないのである。
ふと、腰に差す斬魄刀が震えた気がした。何だろうとその名を呼ぼうとしたが、キシッ…という床が軋む音に反応し、勢いよく顔を上げた。

「すまない、驚かせてしまったかな?」
「…惣右介、くん……」
「また君は……。いや、今夜くらいはいいか」

眼鏡の奥にある瞳が優しげに細まる。よく見知った人物にホッと息を吐いた真白は、その斜め後ろに居る存在にすぐ気がついた。

「ギン」
「あらら、バレてもた」
「霊圧すら隠してないのに、何言ってんの」

隠れる気すらなかったくせにと言うと、いつもの笑みを浮かべる市丸。それには慣れた真白は、ギンから目を外して藍染を見上げた。

「今からどっか行くの? あ、もしかしてあれ? 緊急招集の…」
「ああ、実はそうなんだ。人手が足りないらしくてね」
「じゃあ私も――」
「その必要はないよ」

よいしょっと立ち上がろうとした真白の背後を、藍染が捉えた。まさに一瞬の出来事に、真白は反応出来なかった。トン…と首裏を叩かれ、だんだんと意識が遠くなる。
薄く開かれた瞳に映る人物の表情は、いつもと変わらない柔和な笑みを携えていた。

「しん――」

呟こうとした名は最後まで言うことが出来ず、真白はゆっくりと意識を失った。

「……ご免な、真白」

誰かの許しを請う声が、憎いくらい晴れ渡った夜空に溶けていった。