堕ちる僕らの宝物@

「真子!」

名前を呼ばれるのが好きだった。他でもない、彼女に。
いつもは偉ぶって『隊長と呼べ』なんて言っていたが、言い終わった後は後悔するのがお決まりだった。もしもこれから名前で呼んでくれなくなったらどうしよう――なんて、柄にもないことを思ってしまうくらいには、大切だった。
一体いつからだろう、こんな感情を持つようになったのは。

「やっぱし…お前やったんか…」

地面に突っ伏した平子は、頬にこびりつく血を拭うこともせずに側に立つ男を睨んだ。滲む脂汗が今は気にならない。

「気付かれていましたか、流石ですね」

涼しげな笑みを浮かべて平子を褒めたのは、彼の副官――藍染惣右介だった。背後の空に浮かぶ三日月が目に入り、平子は微かに目を細めた。

「当たり前やろ…」
「いつから?」
「オマエが母ちゃんの子宮ン中おる時からや…ッ」
「成程」

九番隊隊長・六車拳西と副隊長・久南白の霊圧が消失し、三名の隊長と鬼道衆副鬼道長、そして八番隊副隊長の計五名が現場へ到着。しかしそこには、思いもよらぬ光景が待っていた。
霊圧が消失したはずの拳西と白は、死んだのではなかった。――虚となっていたのだ。いや、完全な虚ではない。姿は変わらないが、顔に虚を模した仮面をつけているのだ。そして何より、理性がない。
そんな彼らを前に、先に到着していた十二番隊副隊長・猿柿ひよ里は刀を抜くことができず、逃げ回っていたところに平子達が到着したのだが、結果的に皆やられてしまったのだ。

「俺はずっとオマエを…危険やと…信用でけへん男やと思っとった…。せやから俺は、オマエを五番隊ウチの副隊長に選んだ…。オマエを…監視する為や、藍染…!」

グッ…と身体を起こし、己の考えを語る平子に、藍染は口元の笑みを崩さず、「…ええ、感謝しますよ」と言った。訝しげな視線を送る平子に、藍染は更に言葉を続ける。

「あなたが僕を深く疑ってくれたお陰で、あなたは気付かなかった」
「…気付いとった言うてるやろ…」
「いいえ」

平子の台詞を否定する藍染。ゆっくり、ゆっくりと、彼は解りやすく己の隊長に語りかけた。

「気付かなかったでしょう? この一月――あなたの後ろを歩いていたのが、僕ではなかったという事に」
…な…!?

思いもよらぬカミングアウトに、さすがの平子も理解するには時間が必要だった。いつ、どこで。いくら思考を過去に巡らせても、平子には思い当たることなど何もなかった。

「“敵”にこの世界のあらゆる事象を、僕の意のままに誤認させる。それが僕の斬魄刀『鏡花水月』の真の能力です。その力を指して――“完全催眠”と言う」
…完全……催眠やと……!?
「あなたは鋭い人だ、平子隊長。あなたが普段、他の隊長が副官に対するそれと同じように僕に接していたら、或いは見抜くことができたかも知れない。
だが、あなたはそうしなかった」

藍染を深く疑っていたがために、平子は気付かなかった。常に一定の距離を保ち、心を開かず、情報を与えない。そうして藍染に立ち入ろうとしなかったが故に防ぐことのできなかった。落ち度は、明らかに平子にあったのである。

「あなたがそこに倒れているのは、あなたが僕のことを何も知らないでいてくれたお陰なんですよ、平子隊長」
「…藍染…」

突きつけられた現実に、平子はただ名前を呼ぶことしかできなかった。

「…それからもう一つ。あなたは先程僕に、『監視する為に副隊長に選んだ』と言いましたが、それは間違いです」

隊長が自身の副官を任命する権利、通称“副隊長任命権”と同様に、隊士側にはそれを拒否する権利、通称“着任拒否権”がある。実際にそれが行使されることは稀だが、藍染には拒否する権利があったのだ。それをしなかったのは――…。

「…理想的だったからです。あなたのその僕に対する過大な疑念の警戒心が、僕の計画にとってまさに理想的だったからです」

解りますか、と藍染が問うた。

「“あなたが僕を選んだ”んじゃない。“僕があなたを選んだ”んです、平子隊長」

これぞ愚の骨頂。自分が思考を錯誤させて決めたことだったはずなのに、それすらも藍染の手の内にあったことなのか。平子はグッと下を向き、浅い息を吐き出した。

「あなたは仲間達に謝罪すべきかもしれませんね。あなたが僕に選ばれたが為に、あなたもその仲間もそこに横たわる羽目になったんですから。――彼女・・も、ね」
……! 藍染…! オマエ、彼奴にまで手ェ出したんか!

激昂を孕んだ瞳が藍染を貫く。立っているのもやっとなくせに、少し彼女の存在をチラつかせればこの反応。やはり、彼女は生かしておいてよかった。藍染は心の内でほくそ笑むと、高まる平子の霊圧に物怖じせず彼の怒りを静観した。
平子は男の余裕な顔を崩さんが為に刀を抜こうとするが、己の目や口から何かが溢れ出るのが解った。――霊力、はたまた魂だろうか。それを名称づけるにはあまりにも時間がなく、急すぎた。

…が…ッ!?
「…安い挑発に乗って頂いて、ありがとうございました」

くらむ視界で、皮肉げな藍染の礼が嫌に耳に残った。

「くそ…ッ……俺もか…!」
ぐぅ…ッ

後ろから、仲間の苦しげな声が聞こえた。バッと振り返ると、倒れていた仲間達も自分と同じような状況に陥っていた。初めて客観的に見たそれに平子は目を見開き、すぐに藍染に怒鳴った。

藍染!! 何やねんこれは!? オマエ一体何がしたい……ッ…

メキッと嫌な音が自分の頭の中で響いた気がした。すぐに声を耐えきれないほどの痛みが平子を襲い、彼は絶叫した。その様をジッと観察する藍染の口からは「虚化」という、聞き慣れない言葉が出てきた。

「……虚化……!? 何や…それ…?」
「知る必要はない」

ほんの少しだけ戻った意識も、藍染に一蹴されて再び痛みが全身を駆け抜ける。平子の叫び声がその場に響く中、「…シ…シ…ン……ジ……?」と普段とはかけ離れたひよ里の声が入り混じった。藍染は目ざとく彼女を見やり、側に控えていた東仙の名を呼んだ。東仙は「はい」と返事をすると、平子の制止に耳を貸さず、彼の目の前でひよ里を躊躇なく斬り捨てた。

「――終わりにしましょう、平子隊長。
あなたは完璧な上官だった。あなたは僕を警戒していたが故に手元に置き、警戒していたが故に距離を取った。あなたはその目で見ることで、僕の動きを抑制しようと考えた」

「…最後に憶えておくと良い」藍染が続けた。ス…と抜かれる斬魄刀に月明かりが反射する。

「目に見える裏切りなど知れている。本当に恐ろしいのは、目に見えぬ裏切りですよ、平子隊長。――さようなら」

右手で持った刀を、空へと掲げる。

「あなた達は素晴らしい材料・・だった」
…く…そ…おォォオオオオオオッ!!!

最後の最後まで皮肉で飾られた言葉に、平子はただただ叫んだ。なぜ、どうしてこうなったのか。いくら考えど答えなど出てくるはずもない。今や片目しか見えていないそれを瞠ったときだった。音もなく藍染の背後に迫った人物が現れた。藍染はそれを咄嗟に躱したが、ドッという鈍い音とともに五番隊の副官章が空を舞う。

「………ほう。これはまた…面白いお客様だ…」

ガラン…ガラン…ガラン…。地に落ちた副官章が名残惜しげに音を鳴らす。そんなことすら気にかけず、藍染は眼鏡の奥に潜む双眸を向けた。

「…何の御用ですか? 浦原隊長、握菱大鬼道長」

いつもの死覇装の上から黒装束に身を包んだ浦原と、彼の後ろに佇む鉄裁。間一髪のところでやって来た二人は厳しい顔つきで藍染らを見ていた。

「あかんやん、見つかってもた」
「斬ります」
「いや、いいよ」
「しかし…」
「要」

藍染の言葉に食い下がる東仙を、名を呼ぶだけで反論を許さない雰囲気を作り上げた。

「僕は、“いい”と言ったよ」

たった一言。霊圧も変わりない。それなのに東仙の身体にはゾアっと悪寒が走った。

「は…! 僣上な物言いお許し下さい!」

すぐ様片膝をついた東仙に、藍染が目をやることはない。
そんなやり取りの最中、未だ虚化の途中で意識が朦朧としている平子が荒い呼吸で浦原の名前を呼んだ。

「なんで…来たんや…。…アホが…」
「…何スか、その趣味の悪い仮面は?」
「言うてくれるやんけ…」

まだこうして話せることに安堵したのか、平子と浦原、両者の口元には笑みが広がった。しかしそれもすぐに消える。浦原は首だけで後ろを振り返り、うつ伏せで倒れているひよ里を静かに視界に入れた。

「藍染……副隊長」
「はい」
「ここで何を?」
「何も」

即答する藍染は、いつもの副隊長の仮面を被っている。優しくて頼りになる、藍染副隊長の仮面を。

「ご覧の通り、偶然にも戦闘で負傷した魂魄消失案件始末特務部隊の方々を発見し、救助を試みていただけのことです」

倒れる彼らを背に、藍染の淡々とした声は嫌に響いた。