虚と少女

「縹樹君」
「……なに」
「虚討伐の任務が来ている。討伐隊を率いて行ってきてくれるかい?」
「…わかった」

隊首室に呼び出され中に入った真白は、一瞬息が詰まるのを感じた。デスクの向こうに座る人物が平子ではなく、藍染だからだ。既に彼が副隊長から隊長に昇格して数日経ったが、それでも見慣れることなんて一度もなく。真白はなるべく見ないように俯きながら、自分に課せられた任務に頷き、すぐに出て行った。
信頼している部下三名を連れ、真白はすぐに討伐に出た。自分の体調が優れないことは自覚していたが、そんな自分に頼むくらいだ。そこまで強い虚は居ないのだろう。今までの経験から推測し、任務地に着いた一行を待ち受けていたのは、荒れ果てた光景だった。

「なん、ですか…これ…!」
「…、遅かったみたいだね」

隣から戦慄く声が聞こえた。それほど悲惨だったのだ。彼方此方に飛び散る血痕に、何かを引きずった跡、ぼとぼとと散らばる肉片。いくら戦闘に慣れたベテラン勢だって口元を抑えて顔色を青くさせるレベルだ。
部下三人を気にしながら、真白は血痕を指先でなぞった。にちゃりと音を立てながら付着し、指を赤く染める。まだ新しい。ぐるりと周囲を見渡して虚の気配を探っていると、女の子が一人ふらふらと現れた。

「せっ生存者!」
「縹樹三席…!」
「……私が行く」

喜びからか、表情を綻ばせる二人に待ったをかけ、真白が歩み寄った。残りの部下一人は真白の考えていることが解っているらしく、目が合うと恐々と頷いた。考えていることの先を恐れているのだ。
一定の距離まで近づき、真白はスッとしゃがみ込んだ。

「無事でよかった…」

この地で何があったのか、どんな虚だったのか、他に生存者はいるのか。訊きたいことは山程あったが、まずは生きていることを喜ばなければ。
真白は久しぶりに自然と笑いかけると、少女はびくりと震えだし、涙を溢れさせた。

「しにがみ、さん…」
「ん?」
「…ごめん、なさい……ごめんなさい…っ」

しきりに謝る少女の様子に、真白はピクリと赤がこびりついた指先を動かした。何かある。その“何か”が解らず、真白は焦る気持ちをなんとか落ち着かせて少女に話しかけた。

「大丈夫、落ち着いて? どうしたの?」
「っ…わたし、っ…ごめ、なさっ…!」

ザッと一歩近づいた時だった。急激に虚の気配が膨らみ、真白はゾクリと肌を粟立たせた。「……げて…」少女の声が微かに聞こえる。何を言っているのかと耳をすませた真白は、次の瞬間には目を瞠った。

「にげて、しにがみさんっ……!」

少女の後ろには、馬鹿でかい虚が居た。いつからそこに居たのか、何故少女の後ろに居るのか。思うことは沢山あるが、それよりも先に部下に命令をしなければ。
バッと振り返って棒立ち状態の三人に「逃げて!!」と叫ぶ。ハッと覚醒した彼らは次々に斬魄刀を抜き、恐怖を脱しようと呼吸を整えた。その間に真白は瞬歩で三人の側まで後退すると、守るように背を向けて刀を構えた。

「縹樹さん!」
「…死なせないから、絶対に…!」

もう誰も奪われたくない。信頼している部下なら尚更。
真白は体調が良くないことに舌を鳴らし、少女の後ろにいる虚を睨みつけた。

「ごめ、なさいっ…わたしのせいなの…! おばあちゃんが死んじゃったのも、みんな、みんな…っ!」
「違う! これは虚の――」
わたしのせいなの!

強く言い切る少女は、静かに虚に擦り寄った。親しげな様子に真白は息を呑んだ。目の前で起こる歪な光景がまるで理解出来なかったからだ。

「なにを…」
「…ごめんなさい…かくしてて、ごめんなさいっ…! でも、どうしても言えなかった! だって言ったら…言ったら…もう、一緒にはいられないってわかってたから…!」

少女は泣きじゃくり、それ以上言葉を紡げなかった。代わりにとでも言うように、虚は暫く思案したあと口を開いた。

「この子は傷ついたワシを癒してくれただけだ」
「…癒して、それから?」
「……ワシを匿ってくれた。このままだと死神に伝わり、殺されるからと」
「だったら、どうしてこの地を襲ったの。どうして皆殺しに…その子のお祖母さんを…!」

怒りからブワッと霊圧が上がり、辺り一帯を支配する。真白の霊圧が充満し、少女は苦しそうに喉を抑えた。

「…腹が空いたからだ」
「は……」
「少女の持ってくる食事だけでは、足りぬ。故にワシは喰らったのだ。この地に住まう者を」
「――…!」

激しい怒りが身体中を支配した。目の前が真っ赤に染まるのを感じながら、真白は解号を口にせずに斬魄刀を始解し、すぐさま斬りかかった。

「やめて! おねがい、しにがみさん! ころさないで!」
「…こんな、この子の想いを…お前は踏みにじったんだ…!」
「…虚が人間を襲うのは当然の摂理。それの何がいけないことだ?」
「……だったら、その虚を死神わたしが葬るのも、当然の摂理ってことでいいんだよ、ねっ!」

虚の腕と刀が交わる。金属音に混じって、微かに少女の泣き叫ぶ声が聞こえた。

「ちがうの…虚さんは悪くないの…! そのひとは、わたしをっ…」

けれど、少女の言葉は真白には届かなかった。傷が再び開いた虚の動きが鈍り、その隙をついて大鎌を高く振りかざす。まん丸い満月を背に虚を見下ろす様は、まさしく死神に相応しかった。

「さよなら」

鈍く光る刃を振り下ろす。寸前、虚を守るように小さな人影が動いた。――少女だ。
真白はピタリと皮一枚の差で“月車”を止め、「何してるの!」と怒鳴った。至近距離で声を張り上げられ、少女はびくりと震える。が、涙で腫れた眼はしっかりと真白を捉えていた。

「ちがうの…」
「やめよ、幼き者」
「もう、だまってられないよ…」

グッと一度強く唇を噛み締め、少女は涙を止めて口を開いた。

「わたしなの。この村をおそったのは」
「……は…?」

少女は、そっと目を閉じて自分が犯した罪を話し始めた。

「…わたし、ほんとうは今日、死ぬはずだったの」

それは、少女の口から語られるには重く、苦しく、悲しいものだった。

――少女が生まれたこの地区は、七十二地区『水無みずなし』。そこは貧窮のどん底に陥り、明日生きていくことすら困難だった。護廷からの支援もなく、見放されたこの地では死ぬ未来しかなかった。
そこで人々は考えた。神に生贄を捧げれば、生活も豊かになるのではないかと。それは何の根拠もない、ただの思いつきからであったが、思考もままならない彼らはそれが『正しいこと』と思い込み、やがて生贄の儀を風習として取り入れることにした。
効果が無ければ、人々はまた諦めて『死』を受け入れる日々に戻ることができた。ただの気晴らし程度で始まった、記念すべき第一回目。神に捧げられたのはこの地区で一番綺麗と評判の女だった。女は必死に抵抗したが、大の男数人には到底敵わなかった。そしてそれから数日後――作物が実り始めたのだ。今までまともに穂すらつかなかったのに。

「『神に生贄を捧げれば、この地は豊かになる』。そうかくしんづいた人たちは、それからつぎつぎに生贄の儀を行いました。生贄は一年に数回、年齢はさまざま、けれど必ず“女”。そのような“あんもくのりょうかい”すら立ち、とうとうわたしにその順番がまわってきたのです」

幼い頃から祖母にもこの地区の住民達にも虐げられてきた少女は、傷だらけの虚と出会った。まともに見る虚は初めてで、けれど怖いとは思わなかった。無意識に伸ばした手は震えておらず、ぺたりと触れた感触は未だに覚えている。
それからは、ずっと一緒だった。誰にも見つからないように隠れながら虚に会い、たくさんの知識を教えてもらった。これ以上ないくらいの幸せな日々だった。それが覆されたのが――今日。

「いつもわたしをいない者扱いしてきたくせに、朝おきたら今までにないくらいお世話をしてきて…。…うれしかった、すっごく。やっとわたしを愛してくれるんだって。わたしを見てくれるんだって。…でも、ちがった」

生贄の儀に捧げる生贄の順番が、まわってきただけだった。縄でグルグルと巻かれ、大きな松明の元へ連れていかれた少女は、始まった生贄の儀に涙を流して叫んだ。いやだ、やめてと。
そう言った少女に、彼女の祖母がこう言った。

「初めて貴女が価値ある人間だと思えたわ」

その笑みは、まるで卑しい老婆そのものだった。迫る火、ガンガンと聞こえる人々の声。
――たすけて。
少女は音もなく呟いた。その瞬間、人々の声はたちまち悲鳴へと変わり、気がついたら辺りが血の海と化していた。飛び散る肉片に血溜まりがそこかしらにある。その中心に居たのが、少女が助けた虚だった。

「…これが、すべてです」

ごめんなさい。
何度も言われたその台詞の意味が、ようやく解った。