白に塗りつぶされた黒

「…………」

ぱちりと目を開け、シミひとつ無い天井を暫く眺める。ほんの少しジクジクする患部を自然と撫り、小さく舌を打つ。けれど静かな部屋では隠しきれる大きさでもなく、真白は更に自己嫌悪に陥った。

「……はぁ…」

飲み込めなかった溜め息が口から零れたとき、コンコンとノック音が聞こえた。この部屋の存在を知っている人は限られている為、思い浮かぶ人の顔に眉間のシワが寄り添うになるのをぐりぐりと解して「はい」と返事をした。

「具合はどうですか?」
「…烈さん」

扉が開いた先に居たのは、四番隊隊長・卯ノ花烈。隊長羽織を華麗に着こなし、威厳を感じさせる彼女の顔を見た真白は、「まだちょっと痛い…」と呟いた。優しげな笑みを浮かべた卯ノ花は、服の上から患部に手のひらを置き、ゆるゆると撫でる。それが心地よくて、真白はゆっくりと瞼を閉じた。
それから数日。卯ノ花の丁寧な治療のおかげですぐに快復した真白だが、ここで問題が起きた――五番隊に行かないのだ。心配した自隊の隊長・藍染や浮竹、京楽、白哉達が来ても来るなと大声で追い返し、布団を頭までかぶって丸まる。真白は完全に引きこもりになっていた。

「……真白」
「いや…! 行きたくない、真子達が居ないなら…もう外に出たくない…!」

布団のせいでくぐもった声が卯ノ花まで届く。

「死神もやめる、やめて真子を探しに行くっ…」
「…真白、せめて外に出ましょう。浮竹隊長達も心配していますよ」
「絶対出ない! どっか行って!」

卯ノ花までもを突っぱね、真白はそれきり何も話さなくなった。ピクリとも動かない布団の山に卯ノ花は瞼を落とし、静かに退室した。パタン、と閉じた扉の音にようやくもぞもぞと動き出した真白は、身体を起こして窓の外を見た。変わらない景色なはずなのに、まるで初めて見たかのように思えるのは何故だろう。どうせならモノクロに映ればいいのに。そうしたら――…。
――ポトッ

「……? …これ…」

布団の上に落ちたのは、筆だった。先の方は墨が固まってパリパリしているそれは、平子が居なくなったあの日、真白がこっそり隠し持ったものだった。ほんの小さな悪戯心で手に取ったたった一本の筆が、確かに平子が居たという証だった。
ぽた、と一粒、雫が筆に落ちる。

「ふ、…っ…ぁ、ああぁぁっ…! 真子、っ…真子っ…!」

ねえ、何処にいるの。
会いたいよ。
探すのは真子の役目でしょ。
早く来て。
――私は、此処にいるよ。

「っ…し、じ……しんじぃっ…!」

いくら名前を呼んだって、もう貴方は来ない。判っているけれど、その名前に縋らずにはいられなかった。





真白が大泣きした日から一週間。相変わらず誰にも会わず、食事は最低限の量だけで済ませてあとは病室に引きこもる日々が続いていた。卯ノ花の治療で治っていた顔色も再び青白くなり、指だってガリガリに細くなっていた。
今日も今日とて窓から外を眺める一日を過ごそうと、布団から這い出た真白。しかし、パサリと広がった髪が視界に入った瞬間、絶叫が部屋中に響いた。

「どうしたのです!? 真白!」
来ないで!!

部屋には鍵をかけてある。卯ノ花は無理に入ることも考えたが、喉奥から叫ばれた声にびくりと扉の取手にかけていた手が震え、開けられなかった。

「なんで…」

乱れた髪をソッと手に取る。艶やかな黒色だったはずのそれは、色が抜け落ちたかのように透き通る白へと変色していた。

「どうなって…っなんで、なんで!」

ぐしゃぐしゃと痛いくらい乱暴に髪を掻き毟り、首をぶんぶんと振る。それでも黒に戻るわけがなく、真白は「嘘だ…!」と呟いた。

「こんなの、嘘だっ…! 夢、そう…夢だ、夢に違いない…。こんな、こんな色っ……」

――真子に見つけてもらえない。
その考えに至った真白はサーっと血の気が失せ、どうにかして黒に戻せないかと悩んだ。ふと頭によぎったのは“墨”。あれを頭からかぶれば、また黒色に戻るのではないか。
けれど、いくら冷静さを欠いた真白だって、それはあまりにも馬鹿な考えだと自嘲の笑いを浮かべた。

「……もう、どうすればいいの…」

布団の上でうな垂れた真白は、より一層外との通信を遮断した。
――そんなある日のことだった。
コンコンとノックが鳴り、真白は返事をすることなくもぞりと布団の中で動いた。どうせ卯ノ花か浮竹達だろうと、無視を決め込んだらしい。しかしそんな真白の思いとは反対に、「入るでー」となんとも聞き慣れた、けれどここ最近は聞いていなかった声が耳に届いた。条件反射のようにバッと布団の中から飛び起きて扉を見る、と同時に、扉が開いて外からひょっこりと猫背の男が現れた。
男、市丸は、ベッドの上で放心したように此方を見る真白に、目を奪われた。見慣れた黒は何処にもなく、あるのは光に照らされて光り輝く白。キラキラと反射するそれがやけに眩しく、市丸は数秒にも満たない間、目の前の少女に見惚れてしまった。

「なんで、来たの……」

ハッと意識を取り戻すことができたのは、真白の震えた声のおかげだった。市丸は一瞬崩れた笑みを再び型取り、ベットサイドへ近づいた。しかし残りあと少しのところで、頬にチリっと一筋の切り傷がついた。
見れば、真白が人差し指と中指をくっつけ、此方に向けていた。まさに今、彼女は自分に鬼道を放ったのだ。

「……えろう物騒なもん向けるなァ」
「うるさい! 出てって!」
「なんでやの。そろそろ仕事戻らな――」
「真子達がいないのに、行く意味なんてない!!」

次々と鬼道を放つ真白に臆さず、市丸は動かずにジッと少女から目を離さない。長い間動かなかったからか、たった数回鬼道を使うだけで肩で息をしている真白はグッと奥歯を噛み締めて「………見ないでよ………」と声を絞り出した。

「真白……?」
「……見ないで、こんな、なんで白くなったの…。こんなの私じゃない、っ……わたしじゃない……!」

吐く息は震え、今にも消えそうな真っ白の髪になった少女。市丸は何かを言おうと口を開いたが、結局そこから音が出ることはなかった。

「だから入ってこないでって言った……。こんなの見せたくなかった、ギンには特に!」

再び鬼道を放とうと顔を上げて指を向けた真白だが、市丸と目を合わせた瞬間、それは力無く降ろされた。トサッ…とベッドに腕が落ち、くしゃりと顔を歪めさせてポロポロと涙を流す真白。

「……なんで、抵抗しないの……」
「…………」
「いくらギンでも死んじゃうよ…?」
「……せやな、死んでまうかもなあ」
「だったら! なんで大人しくしてんの!」

叫んだ後、ごほごほと咳き込む。叫びすぎて喉が枯れたらしい。それでも目は鋭く市丸を睨んでいた。当の本人はいつもの笑みを浮かべながら、手を差し伸べて一言。

「ボクんとこおいで」

真白の思考を止めるには、十分すぎる台詞だった。意味を理解するのに数秒かかり、飲み込めた瞬間これでもかと言うほどに目を見開いた。

「…な、に言ってるの……」
「ん?」
「ギンは五番隊の隊員でしょ……? それを『ボクのところ』って……」
「んー。…ボクな、隊長なってん。三番隊隊長」
「は……?」

呆ける真白が面白いのか、悪戯が成功した子どもみたいにケラケラと笑った市丸は、未だ差し出した手をそのままにもう一度告げた。

「ボクんとこおいで」

なんで、どうして。そんな想いがぐるぐると真白の中を駆け巡るが、考えたってこの狐の思考回路など解る筈もなく。差し出される手と市丸の目を交互に見つめ、やがて何かに引き寄せられるようにその手に己のそれを重ねた。長い時間が経とうとも、その手は初めて会った日と同じように冷たかった。

「平隊士からがんばりな、真白チャン」
「……でも、こんな髪の毛…」
「ボクは好きやで」
「え?」
「黒い髪も、白い髪も。中身はなんも変わらへん、どっちも真白やろ?」

くしゃりと髪を撫でると、そのまま濡れる頬に指を滑らせる。零れ落ちる涙を人差し指で掬うと、目元を親指で優しく拭った。

「………あとね、」

真白はその優しい手つきに絆されたのか、浦原と平子しか知らない“ヒミツ”を口にした。

「“紅い花”?」
「うん。……もう、ずっと見えるの。チラチラ花びらが舞うだけの時もあれば、視界を覆い尽くすくらいの時もある」
「なしてそんなん……」

疑問に思った市丸がついそのまま口にすると、真白はギュッと彼の手を握り、瞳を合わせた。

「これは、私の最大の“ヒミツ”」

その言葉から始まった“ヒミツの話”は、市丸でさえ驚愕するものだった。





「ほなら、新しく入隊することになった縹樹真白チャンや。みんな仲良くしたってな」
「え、あの……それって五番隊の…」
「んー、まあ細かいことはええやん。ちなみに平隊士やから、よろしくなイヅル」
「ぼっ僕ですか!?」

窓の外を眺めるだけの生活は終わりを告げ、新しい居場所を手に入れた真白は、落ち着いたようにニコリと微笑んだ。

「ご紹介に預かりました、縹樹真白です。どうぞよろしくお願いします」

あれほど使わなかった敬語。綺麗な礼。重力に従って靡く白い髪。その全てが皆の知っている『縹樹真白』とは大きく異なっていた。やがて戸惑いがちだった隊士達も数日経てばぎこちなくも彼女を受け入れ、長い年月とともに彼女が“五番隊三席”の位に着いていた事実さえ風化され、人々の中から消え去った。
このまま“三番隊平隊員”として終えるのかと、真白でさえ思っていた。しかしそれが約百一年後に覆されることになろうとは、この時の真白は思いもしなかったのである。――ただ一人、ある男だけは、いずれ来たる崩壊の日を待ちわびてうっそりと笑った。

「――ご免な」

ああ、また今日も切ない声が、月夜に落ちた。