その花の名は

あれから平子と真白は、この百年間を埋めるようにぽつぽつと話し合った。けれど隣に彼がいることが信じられない真白は、チラチラと何度も平子を見てはホッと息を吐く行為を幾度か繰り返した。それに気づいている平子だが、それだけ深い傷を彼女に負わせたのだと思うと何も言えず、そのままにしておいた。

「では、私は仕事に戻りますね」
「……さっきも思たけど、その喋り方なんなん?」
「何って、上司に対する妥当な話し方だと思いますけど」

先程とは打って変わって話し方が敬語になった真白に、平子は半目で「ほーん?」とどこか馬鹿にしたように相槌を打って立ち上がって「行くでー」と声をかける。真白も立ち上がり、此方に背を向けてゆっくりと歩きだしている平子を追いかけた。

「…………あ、」

その背中を見て真白は自然と足が止まった。追いかけてこない事に気がついた平子は、立ち止まって後ろを振り返る。「何してんねん、はよぃ」と手招きをして真白を呼ぶと、彼女は目が潤んでいるのを隠すように笑って頷いた。
その背中に“五”の数字があることが、こんなにも嬉しいだなんて。ああ、私は待っていたんだ――あの背中を。

「おかえり、真子」

聞こえないようにそっと呟いたそれは、風が攫っていった。
三番隊に戻ると、隊長が呼んでいると吉良に言われてドキドキしながら隊主室に入る。するとローズが「ああ、来てくれたかい」と思ったよりも穏やかな声で出迎えてくれた。思えば彼が声を荒げるところはあまり見たことがないと真白は思いつつ、「先程はすみませんでした」と突然逃げたことを謝った。しおらしく謝る様子にローズは驚いて目を瞠り、「百年、か」と改めて時の長さを感じた。

「大人になったね、真白」
「い、いきなり何ですか……」
「何でもないよ。それより、真子からは聞いたかい?」
「? 何をです?」
「(話してないね、これは……。全く、肝心なことは話さない癖を何とかしてほしいものだ)」

深く息を吐いたローズは、懐から折り畳まれた紙を取り出した。それを真白に渡すと、彼女は怖々と広げた。そこには真白が三番隊から五番隊へ移隊する旨が記載されていた。全てに目を通すと、それをまた畳んでローズに突き返す。これは受け取れないという、明確な意思表示だった。

「どうしてだい? 君なら喜んでくれるかと…」
「平子隊長が帰ってきたからと言って、はいそうですかと五番隊に戻るわけにはいきません。…私は、三番隊の人間ですから」

平子が、浦原が、みんなが居なくなって、抜け殻のような自分の手を引っ張ってくれたのは、市丸だった。そしてそんな自分を受け入れてくれたのは、三番隊だった。初めから友好的だったわけではない。特に片倉とは今よりももっと険悪だった。

「平子隊長にも、勿論鳳橋隊長にもお会いしたかったですが、今の自分の仕事を投げ出してまで五番隊に戻ろうとは思いません」

失礼しますと頭を下げると、真白は隊主室から出て自分のデスクへ向かう。手加減無しに大量に積まれた書類に苦笑しながら、仕事をするために筆と墨を準備し、一番上の紙を手に取った。そして手慣れた動作で書類整理を始めたのだった。
本音を言えば、五番隊に行きたい気持ちは大きい。今すぐ仕事を投げ出して平子の元へ駆けつけたい思いだってある。だがそんな勝手なことは出来ないと、理性が彼女を押し留めた。きっと百年前の彼女ならすぐにでも平子の元へ行っていただろうが、それだけの月日が流れた。真白はもう、無垢なままの子どもではない。

「終わったぁ〜〜。あ、戸隠さん」
「あれ、隊長からの呼び出しは行った?」
「とっくに行きましたよ。それと書類も終わったんで、確認して貰えますか?」
「ん。………うん、大丈夫。ほんと仕事早いのなー」
「前にも言いませんでした? それだけが取り柄ですって」
「嘘つけ。お前があんなに強いなんて知らなかったぞ、俺は」
「え〜〜?」

軽口を言い合いながら、真白は筆と墨を片付けて捲っていた袖を戻し、席を立った。まだパラパラと書類を見ている戸隠に「では、お願いしまーす」と頭を下げて、向かうは三番隊の扉。

「どこ行くんだ?」
「もうお昼時ですよ」
「昼飯?」
「ふふ、お散歩です」
「あぁ、散歩か。行ってらっしゃ――じゃなくて! おま、ちょっと待て縹樹!」
「じゃあ行ってきまーす!

いつぞやと似たようなやり取りをしたことなど、二人は気づかない。真白は引き止める戸隠に手を振りながら、瞬歩で三番隊から離れた。着いた先は彼女お気に入りの場所、大きな木がある高台だ。木の幹に腰を下ろした真白はどんよりとした空の下、ローズに手渡された紙の存在を思い出していた。

「……ほんと、私って変なところで意地っ張りだな」

再会した時、本当はもっと怒ってやろうと思っていた。むしろ明確な線引きをして、以前のような会話なんて絶対してやるもんかとすら考えていたが、実際に彼を前にして話をしてしまうともうアウト。意地なんて張れなかった。
だからこそ、真白は今回の移隊の件に関して“否”と唱えることで『平子の思い通りにはさせない』と反発してみたのだ。ローズは特に何も言わなかったが、真白への移隊命令は確実に平子が噛んでいるに違いない。そこまで見越してローズに突き返したのだ。

どれほどそうしていただろうか。戸隠はもう書類配達を終えた頃かと立ち上がると、ポツポツと雨が降り始めた。次第に雨足は強まり、真白はすぐに溝鼠のようにびしょ濡れになった。

「うわっ、雨降りそうだったけど、降りそうだったけど! ほんとに降る!?」

急いで隊舎に戻ろうとした時だった。ひらりと紅い花が舞い、真白は立てない程の急激な目眩に襲われた。ずるりと足を滑らせてその場に倒れた彼女は、真っ赤に染まる世界にギリギリと奥歯を噛んだ。

「なんでっ、こんな……!」

泥まみれの手でぐしぐしと目元を擦るが、紅い花は消えない。そんなこと判っているのに、何かせずにはいられなかった。顔は手で擦ったせいで泥がこびりつき、その上から雨が滑る。綺麗な白髪が茶色で汚れている様は見ていて痛々しい。

「真白しゃま!」
「つき……!」
「真白しゃま、おちついてくださいなのです! 真白しゃま!」
「だって、全部紅いの! あかくて、紅くて、赤くて!」
「“おもいだす”のです!」

具象化したツキは、真白の上に馬乗りになりながら彼女の頬に手を当てて、必死に伝える。すると遠くから水溜りの上を歩く音が聴こえてきたが、二人の耳には届かない。

「思い出すって……わ、私は全部覚えてる!」
「いいえ、いいえ真白しゃま……。真白しゃまはわすれているのです。あのちっぽけで、せまくて、いたかった“せかい”を」
「だから! 覚えてるって――」
「でしたら、そのむねにさく“はな”の“な”を、おぼえているですか?」

ツキの台詞に咄嗟に真白は胸元の服を握った。雨でぐっしょりと濡れたそれは、ぺたりと肌に張り付いていた。

「あそこにいた“おとこのこ”と“おんなのこ”を、おぼえているですか?」
「男の子と、女の子……?」
「おもいだしてくださいなのです、真白しゃま」
「思い出すって、だから何を、」
アカン真白!

大声を張り上げたのは、平子だった。その後ろからは市丸が肩で息をしながら着いてきている。平子は真白の上で馬乗りになるツキを押し退けると、少年から隠すように真白とツキの間に立った。その瞳はかつてないほど鋭い。

「ええ加減にしーや、月車」
「おまえがぼくのなまえをよぶなんて、おこがましいにもほどがあるのです」
「これ以上真白を混乱させんな」
「その“ちゅうとはんぱ”な“ちしき”が、真白しゃまをころしてしまうですよ!」
「何やと!? 俺が何も知らんと思っとるんか!?」
「かんじんなことをしらないっていってるですよ!」

鬼の形相で言い争う二人を他所に、市丸は泥にまみれてながら涙を流す真白の肩をソッと抱いた。「ギン…?」とか細い声が自分を呼ぶ。

「っ、真白しゃま!」
「ツキ――」

平子越しにツキと目が合う。紅しかない世界に、幼い少年の金色の瞳が色を放った。

「その、“あかいはな”のなまえは――!」

ツキの声と、どこか懐かしい女の人の声が重なった。

「“千日紅”って言うのよ」
「“せんにちこう”なのです!」

ぶわりと花が舞う。紅い花が、地面を、空を、覆い尽くす。やがて全てが“紅”に染まり、自分の名を呼ぶ幼い少年と少女の声が聞こえてきた。

「真白!」
「真白ちゃん!」


――ああ、そこに居たんだね。