泡沫の記憶@

朝なのか昼なのか夜なのか、今が一体何時で、晴れているのか雨が降っているのか判らない。そんな毎日が、少女にとっては当たり前だった。

「真白、起きなさい」
「…………はい」

女の人の声で起きた少女・真白は、起きたくないとぐずることなく立ち上がった。真っ白な部屋に、真っ白な服。彼女の視界はいつだって“白かった”。まだ眠っている男の子と女の子の顔をちらりと横目で見ながら、真白は白衣を着た女の人の後ろを裸足で着いて行く。ぺたぺたと冷たい廊下を踏みしめながら歩いた先には、たくさんの器具と女の人と同じような白衣を着た人達、それから少し高い位置に寝台があった。
ひょいっと真白を抱え上げたのは、この場にいる研究員達を束ねる男。――所謂、真白の父親だ。そして彼女を起こしに来た女が母親である。

「それでは、始めるぞ」
「はい………」

父親の台詞に真白は返事をし、ゆっくりと目を閉じる。そこからは、まるで地獄のような時間だった。

「いだい゛!! やだあああああ!!」
「これでは拒絶反応が強すぎるか……。体内の霊力を減らして、もう一度試すぞ」
「はい」
「やだっいやぁ――っ、アァァア゛ア゛!」
「そのまま続けろ」
「はい」

実の娘の叫び声を気にも止めず、男は何やら機械のメーターを見比べ、数字のついたダイヤルを回す。途端にビクッと真白の身体は痙攣し、やがてガクリと力を失った。ぴくりとも動かなくなった少女に、これ以上は続けられないと判断した男は中止を告げ、バインダーに何かを書いていく。その間に別の研究員が真白をまた白い部屋まで運んだ。
室内では、先程まで寝ていた少年と少女が目を覚ましていた。二人は運ばれてきた真白を見てグッと唇を噛み締め、研究員が出て行くと同時にベッドに駆け寄った。

「真白!」
「真白ちゃん!」

二人が呼びかけても当の本人は目を覚まさない。腕や脚に痛々しい跡の残っているのを見た少女は、涙をぽたぽたとシーツに落としながら「なんで、いつもっ……!」と膝から崩れ落ちる。少年は静かに涙を流しながらぎゅっと真白の手を握りしめた。
それから数時間後。ふるりと目蓋を震わせて目を開けた真白は、視界に映る『白』を無感動に眺めながら首を傾ける。彼女が目を覚ましたことに気づいた少年と少女は、「おはよう!」「ぐあいはどうだ?」と声を掛けながらぺたぺたと真白の身体を触り、痛がっていないか確認する。

「………おはよう、紅音あかね紅綺こうき
「おはよう、真白ちゃん」
「おはよ、真白」

二人の目元は赤く、困ったような、安心したような表情を浮かべていた。いつもそうだ。二人が眠っている間に自分があの場所へ行き、意識を失って帰ってくる。それから目を覚ますと、いつも二人はこの顔をしているんだ。

「へへ……、ちょっとねぼうしちゃったかな?」
「っ……もう、ばかっ…!」
「ちょっとどころじゃねーよ、ねぼすけ」
「ふふ、ごめんね。アカもコウもいつおきたの?」

だから真白は、いつもこうして笑うんだ。

紅音と紅綺。二人とも、ある日突然この施設に連れてこられたのだ。初めは見るもの触れるもの全てを拒絶し、真白に対しても酷い暴言を吐いていたのだが、毎日この部屋で一緒に暮らしていたら嫌でも目に入ってしまう。――真白がいつも気を失って運ばれてくる姿を。それから少しずつ二人は打ち解け、やがて笑顔を見せるようになったのだ。
血のように真っ赤な髪を持つ紅音と紅綺は、艶やかな真白の黒髪に触れながら泣きそうに歪む表情をなんとか堪え、他愛のない話を続ける。

「ねえ、“そと”にはなにがあるのかしら!」
「えっとねぇ、まえに“ごほん”でよんだことあるよ。んーと、んーと、」
「“うみ”だろ」
「そう! って、コウのばか! わたしがいいたかったのに!」
「だって真白おせぇんだもん」
「おそくない!」

ぎゃあぎゃあと言い合う二人の間に、紅音が「はーいはい! ねえ、“くるま”ってどんなものかしら?」と次の話題を振ってくる。それに真白と紅綺は食いついて「おっきいの!」「“ひと”がいっぱいのれるやつ!」と言い合う。「じゃあ……」とまた紅音が次の話題を振ろうとした時だった。

「紅音、紅綺、真白」

自分達を呼ぶ声に、三人は瞬時に笑みを消す。大人達に手を引かれながら部屋を出る少年と少女らは、一切の表情を浮かべず、ただ義務的に脚を動かしていた。


「実験施設ぅ?」

机にグダーッと寝そべりながら、平子は浦原の言ったそれを復唱した。浦原は「はいっス」と頷くと、「まだ詳しいことは何も解っていない状況ですけど、たった一つだけ解っていることがあります」と続けた。

「何やねん。どーせしょーもないことが解っとんねやろ」
「しょーもない……。まぁ、そうですね」

「実験施設の場所が判明したんス」浦原の台詞に、平子はガバッと身体を起こして「ハァ!? 全然しょーもなくないやんけ!」と声を荒げる。
実験施設。その正体は何も解っておらず、何処で、誰が、何を実験しているのか。その全てが謎に包まれていたのだが、護廷十三隊総隊長・山本がそろそろ本腰を入れて解明せよと号令をかけ、浦原が動いたというわけだ。

「場所さえ解れば此方のものっス。けど、大勢で行って勘付かれるのは避けたいので、少数の部隊で突撃することにしました」
「ま、それが妥当やろ」
「ハイ。なので平子さん、よろしくお願いしますね」
「…………は?」
「あとは京楽隊長と浮竹隊長、夜一さん、藍染副隊長、志波副隊長っス」
「何やねんそのメンツ……」
「出発は三日後っスから、準備等忘れないように」
「はいはい」

げんなりとした様子で「何で俺やねん…」と苦言を吐く平子に背を向けた浦原。

「……頼りにしてますよ」

小さく呟くと、浦原は五番隊の隊主室から出て十二番隊へ向かう。その表情は固く、中にいた猿柿ひよ里や涅マユリは声をかけられず、奥に引っ込んだ浦原を見送った後に互いに顔を見合わせて首を傾げた。

「(平子さんにはああ言ったっスけど……)」

本当は、解ったのは場所だけでは無かった。誰が、というのも解っていたのだ。

「縹樹国之くにゆき、縹樹瑠璃香るりか……」

その名を知らぬ者はいないだろう。部下からの信頼も厚く、隊長達からも頼りにされ、圧倒的な実力を誇った二人の死神。そして浦原が作った技術開発局とは別に、虚に関する様々なことを分析、研究し、成果を上げていた研究者でもあった。しかしとある任務にて命を落とし、彼らの死を誰もが悲しみ、悔やんだ。
だからこそ、浦原は言えなかった。平子にも、そして今回同行をお願いした京楽達にも。

「まさか生きていて、しかも実験施設まで作っていたなんて……」

どうして実験施設なんて作ったのか。そこで何が行われているのか。知りたい気持ちとは裏腹に、彼は心のどこかで知りたくないと思ってしまった。

それから三日後。浦原は夜一、平子、京楽、浮竹、藍染、海燕を連れて目的の実験施設へ向かった。見た目は普通の一軒家なのに、その周辺には結界が張られてあった。それだけで夜一達は気づいてしまった――ここにいる者は、元死神だと。

「……喜助ェ」
「…すみませんっス」

平子の咎めるような声色に、謝る浦原。

「解っていて隠すなんて、お主らしくないのう。なんじゃ、そんなに儂らと所縁のあるヤツか?」
「……………」
「黙秘、と。最近反抗期か? まぁいい、どうせ――」

行けば解る。夜一はグイッと口布を上げると、扉を開けた。