例えあの日に戻れても

「……現世任務、かぁ」

夕暮れ前。真白はごろりと原っぱに横になって空を見上げていた。邪魔なもの一つない空はとても美しくて、それでいて憎かった。
思い出すのは出勤したときに聞いた話。あの朽木家に引き取られた十三番隊の平隊員、朽木ルキアが現世任務に行ったというものだ。それを聞いたとき、真白は思わず六番隊に走りそうになった。

「無事に帰ってきてくれるといいなぁ」

真白自身、ルキアと話したのはほんの少し。お互い平隊員という役職だが、隊も違うことから話すことはあまりなかった。何せ真白が書類配達に行かないし、浮竹がいるという事情から十三番隊には近づかないようにしていたのだから、会うこともなければ話すこともない。だが、確かに二人は“友達”だった。
今回の現世任務に向けて真白はお守りを渡したのだが、その時のルキアの喜びようと言ったら…。こちらまで嬉しくなるような笑顔だった。

「平隊員にいるのも、兄からの根回しなんだもんねぇ……よくやるよ、あの人も」

過保護、と呆れた顔で呟いた真白は、自然と目を閉じる。しかし眠気は襲ってこず、ただ風を感じていた。

「ほんまお前は…夜はちゃんと寝ぇ言うてるやろ」

不意にそんな声が聞こえ、真白はガバッと飛び起きた。ハァッと荒く息を吐き出し、胸元をグッと握りしめる。しばらくして落ち着いてくると、途端に嫌悪感を露わにした。

「なんで思い出すかなぁ…っ…」

もう百年以上も昔なのに、彼の声はちっとも消えてくれやしない。それが何よりも憎くて、嫌いで――嬉しかったなんて、真白は思いたくなかった。
座ったままぼーっとどこかを眺めていると、真白の視界には“紅”がちらつき始めた。ああもう、今日はいったい何なんだ。かぶりを振ってみても紅い花が消えることはなく、余計に苛立たしさを募らせるだけだった。

「――真白しゃま」

呼吸が荒くなってきたそのとき、突然幼い子どもの声が真白の名を呼んだ。舌ったらずなそれに、真白の顔もホッと安心したようなものに変わる。
目を向けると、そこには一人の小さな小さな少年がいた。まるで夜空を連想させる濡れた黒い髪に、月を思わせる金の瞳。この世のものではない儚さを携えた少年は、座り込む真白に真正面から抱きついた。腕を首に回し、甘えるように首元に顔を寄せる。

「真白しゃま、こわがることはないのです。ツキがここにいるから、あんしんしてくださいなのです」

彼の名は“ツキ”――もとい“月車つきぐるま”。正真正銘、真白の斬魄刀である。
彼女の斬魄刀はひとりでに擬人化することが出来るが、その姿を見せるのは主人である真白の前だけ。誰も“月車”の擬人化した姿を見たことはないのだ。

「ツキ……」
「真白しゃま、まだあのおとこたちのことおぼえてるですか? ツキなんてすっかりわすれていたです」
「ふふ、ツキは嫌いだったもんねぇ」
「だった、じゃなくて、いまもきらいです。真白しゃまをきずつけるやつらなんて、みんなみんないなくなればいいです」

耳元に唇を寄せて吐く言葉は、幼い子どもには似つかわしくないもので。真白は優しく宥めるように少年の頭を撫でた。

「もうそろそろ、うごくときがくるです」
「もうそろそろ…かぁ…。ツキはいつもそれしか言わないよねぇ…具体的に聞いても?」
「…こればっかりはいえないです…ごめんなさいなのです…」
「いーよ。ツキのことは信じてるから」
「はいなのです!」

ツキの言う『もうそろそろ』が訪れたとき、真白はやっと始解を許される。だからこそ、そのときが待ち遠しくて――真白はずっと待ち望んでいた。
草の匂いが鼻腔をくすぐる。穏やかな空間が二人をすっぽりと包んでいた。

「おそとで真白しゃまとこうするの、とってもひさびさでツキはうれしいです!」
「私も、ツキと一緒に外で会えて嬉しいよ」

きゃー! と喜ぶツキはまるで猫のようにすりすりとすり寄った。時折当たる髪がくすぐったくて、真白は片目を細めて耐える。
――いつしか紅い花は、消えていた。

「……ありがとう、ツキ」
「ふふふ、ツキはあたりまえのことをしたまでです!」
「それでも、だよ。…ありがとう」

何百年も共にした斬魄刀に、改めて感謝の言葉を告げて真白は立ち上がった。陽が沈みかけ、あたりはオレンジと黒で包まれる。次第にオレンジは消え去り、すっぽりと夜の黒が尸魂界を覆う。その黒に溶け込むように、ツキは真白を見つめた。

「“そのとき”がきたら、ツキを呼んでくださいなのです、真白しゃま」

“そのとき”とは――幾度も問いかけたそれに、応えが返ってきた試しなどない。真白は自然と頬を綻ばせると、やがて一つ頷いた。

「もちろん。今まで呼ばなかった分、たくさん呼ぶからね――“月車”」

主人の返事に、少年はそれはそれは嬉しそうに笑った。





ところ変わり、現世では――…。

「あ〜〜〜〜…」
「………」
「あ゛〜〜〜〜……」
「うっさいねん!!」
「ブヘッ!!」

小柄な少女が、自分で履いていたサンダルを容赦なくオカッパ男に投げた。見事顔面にクリーンヒットしたそれは地面に落ち、男の頬は赤くなっている。
一見して倉庫のようなこの場所は、彼らの“家”だった。

「お前は相変わらず手が早いのぉ!!」
「なんやと!? いつまでもあーあー言うとる奴に言われたないわハゲ!!」
「はいはい、お前らそこまでにしろ」

顔を近づけて罵り合う二人を、また別の男が止める。もちろん止まったのは一時だけで、男の目が別に行くとまた唾を撒き散らしながら互いに罵倒し合う。

「ええ加減にしーや、あんたら」
「リサ…」
「あの子を置いてったんはあたしらや。今更悔やんだってしゃーないやろ」

寝転びながら本をペラペラとめくる女は、冷静に言い放つ。オカッパ男は分かっているとでも言いたげにブスッと顔を歪めた。その顔にまたもやサンダルが飛んだのだが、それはもうお約束というやつだ。

「隊長!」

花が咲くように笑い慕ってくれていた彼女は、今は何をしているだろうか。まだ五番隊にいるのか、それとも別の隊に移隊したのか、藍染に何もされていないだろうか。
とてつもない心配が後から後から募るが、それでももしあの日に戻れたとしても、自分達は真白の伸ばした手を取ることはないだろう。彼女まで巻き添えにするわけにはいかない。例えそれが独りよがりの偽善だとしても――。

「シンズィー! あそぼー!」
「あーあー、俺は今忙しいんや」
「えー!」

花が舞う。紅い紅い花が。
その花の名がなんだったか、今はもう忘れてしまった。

「百一年前は覚えとったんに……」

悲しげに呟いた男は、途端にガラリと雰囲気を変えて再び女をからかいに行くのだった。