泡沫の記憶C

動いたのは、縹樹国之だった。

「何をしている、真白」

なんて冷たい声。とても娘に向ける声じゃない。しかし意識を失っている真白には聞こえておらず、その台詞は霧散した。

「お前をここまで育ててやったのは誰だと思っている」

血溜まりで倒れている真白に近づくと、紅音と紅綺を乱暴に引き離して容赦なく娘の頬を殴った。紅音の引き攣る声なんて気に止めず、国之は更に暴力を続ける。平子達が彼を止めようと動くが、刀を片手にぶら下げた瑠璃香に逆に止められてしまう。彼女の実力を知っているだけに無闇矢鱈には動けなかった。

すると、真白は意識を取り戻したのか、口から血を吐いて咳き込む。国之は娘の腕を引っ張って無理やり立たせると、再度「殺せ」と命じた。

「お前! それでも親か!」
「親だが、何か? 真白コレはもともと死神を殺すためだけに作ったものだ。それを他人にとやかく言われる筋合いはない」

未だ深く眠る理性が、ピシピシと崩壊する音がした。

――おかあさん

「これだと拒絶反応が強いわね…。こっちの花薬はどうかしら?」

――おとうさん

「成功だ! 悲願が叶ったぞ!」

ねえ、おとなしくいうことをきくから。
だから、あのね。
わたしに“あい”をちょうだい。


そう願い続けた少女の夢は、最初から叶わぬ偶像に過ぎなかった。

「――………は?」

何が起きたか判らない、とでも言いたげな声色だった。しかし既にもうその声の主は息絶えている。死んだ――国之の妻・瑠璃香は発狂と共に瞬歩で国之の傍へ蹲った。

「国之さん! 国之さっ……っ、真白! 一体どういうつもり!? 国之さんを殺すなんて!!」
「……………、」
「私達がお前の為に今まで何をしてきたと思っているの!! この恩知らずが!!」
「………うるさいなぁ」

またしても一瞬だった。かつて尸魂界最強と謳われた死神が、こうも容易く死んでしまうなんて。平子達は信じられない思いでいっぱいだった。
刀からはポタポタと真白の血と国之、瑠璃香の血が滴る。それを一瞥すると、次は仄暗い目で平子達へ視線を移した。そんな少女の胸元は、白い実験服の上からでも解るくらい赤く光っていた。

「なんや、あの赤い光……」
「恐らく実験によって何かをされたんでしょう。直接見てみないと何とは言えないっスけど…」
「悠長に話している場合か。……来るぞ!」

夜一の張り上げた声に重なるように、鋭い攻撃が平子達を襲う。何とか避けて反撃の機会を窺うが、全く隙がない様子に敵ながら舌を巻いた。そこへ「加勢するぞ!」と浮竹と海燕が真白へ斬り込む。前方からは平子達が、後方からは浮竹達が迫ってくるという現状に、真白は少し動きを鈍らせた。このまま畳みかけよう――誰もがそう思った時だった。

――廻れ、『月車つきぐるま
「っ! 退がるんじゃ!」

夜一が咄嗟に言ったところでもう遅い。円形になって真白に斬りかかろうとした平子達は、全員少女の解放した斬魄刀の間合いに入ってしまっていたのだから。気がつけば全員が腹や腕から血を流し、倒れていた。

「ゲホッ……解放できるなんて、聞いてへんぞ…」
「そこまでは…ハァッ……情報になかったっス……」
「デタラメな強さじゃないですか…! 浮竹隊長、大丈夫スか」
「あぁ、なんとか…」

死神達は患部を手で押さえながら、悠然と立つ少女を見やる。その手には先程まであった刀ではなく、彼女の――否、ここにいる者全員の背丈を軽く超えた巨大な鎌があった。とてもあんな少女が扱えるような代物ではないのに、真白は容易く平子らを傷つけた。
鎌を持っていない方の腕はダラリと力なくぶら下がったまま、未だポタポタと赤い血を流している。痛々しいその姿に浮竹の眉もハの字になるが、それでも……それでも、自分はあの少女を下さねばならない。

そんな決意を壊したのは、自分と海燕が連れてきた二人の子どもだった。

「ころさないで!」

紅音の声がよく通る。ピタリと動きを止めたのは、平子達だけではなかった。

「……真白ちゃん」
「……真白」

少しずつ、けれど確実に三人の距離は縮まっていく。やがて真白の目の前に来た紅音と紅綺は、ぎゅっと彼女を抱きしめた。労わるように、いつくしむように、優しく、強く。
真白は予期せぬ温もりに包まれたせいで目を瞠いたが、それが自分のよく知るそれだと気づくとふっと力を抜いた。鎌が床に落ちてガシャン、と鈍い音が響いたが、平子達は誰も動けなかった。――抱きしめ合う三人の姿が、その光景が、あまりにも儚くて。

「アカ、コウ………」
「うん。……もう、だれもころさなくていいんだよ」
「おれたちはもう、“じゆう”なんだ」
「“じゆう”………?」
「ああ。もういたくされることもないし、せまいところですごさなくてもいい」
「いっしょに、おそとにでられるのよ!」

じんわりと二人の台詞が奥深くに眠る心に届く。真白は理解したと同時に、紅音と紅綺の肩に顔を埋めた。

「…………かった、」
「え?」
「……よかった、よかったぁ……。ふたりを、ころしてしまわなくて」
「「!!」」
「とってもこわかった。いやだったのに、わたし、おとうさんとおかあさんにさからえなくて。……“いうこと”をきいたら、やっとあいしてもらえるのかなって、おもって……」

吐露される真白の想いは、紅音と紅綺だけでなく平子達にも聞こえた。それに目を合わせて互いに頷きあうと、「感動の再会中悪いけどなァ」と代表して平子が声を掛けた。途端に鋭く平子を睨む紅音と紅綺。二人の腕の中にいる真白は首を傾げた後、そっと目を伏せた。自分が何をしたか判っている。どんな審判が下されようと、大人しく受け入れるつもりだった。

「こっわ! なんやこのガキ、めっちゃ怖いねんけど!!」
「平子サン、それじゃあ歩み寄るのも無理っスよ〜〜。ほらほら、飴ちゃんですよ〜〜」
「いらねーよ、んなあやしいもん」
「怪しい!?」
「茶番は置いといて、ここから出るぞ」

最終的にそう言ったのは、まだ関わりのある海燕だった。ここまで自分達を連れてきた海燕にそう言われれば、紅綺は口を噤んで悩む素振りを見せる。ちらりと浮竹を見れば、偶然にも目が合い、紅綺はらしくもなく慌てた。そんな子どもらしい一面に浮竹は微笑み、海燕の言葉を助長させるように「今日はいい天気だったぞ」と告げる。

「あの、」
「うん?」
「わたしは……、わたしは、そとでころされるのでしょうか」
「いや、君のことは殺さないよ。君だって被害者だ」
「でも、あなたたちをころそうとした」
「自分の意思ではない」

力強い瞳に見つめられ、真白は安心したように、けれど少し居心地が悪そうに頭を下げた。話はまとまったかと平子が問えば、真白達は一度顔を合わせて頷く。漸く決まり、よし、と死神達と真白達が歩き始めた。

「――ダメじゃない、油断なんて」

思わず耳を疑った。全員が後ろを振り返ると、そこには死んだはずの縹樹瑠璃香が立って何かを投げたかのように手を伸ばしていた。真白がツ、と視線を下に向けると、自分の血と混ざり合うように別の人の赤が血溜まりを作っていた。

アカ!!

喉奥から絞り出されたような声が、倒れた少女を呼ぶ。辛そうに肩で息をする紅音を見て明らかに気が動転する真白に、瑠璃香は愉しそうにクスクスと嗤う。

「国之さんを殺した罰よ、真白。さあ……早く戻ってらっしゃい。今ならまだ赦してあげるわ」
「あの時貴女は確実に死んでいた…。それなのに何故……」
「浦原、いつも言っていたでしょう? “目で見たものは全て疑え”って。自ら仮死状態になるなんて、息をするように簡単なことよ」

美しく佇む女は、カツンとヒールの音を立てて歩み寄る。バクバクと喧しく鳴る胸を服の上から抑え、必死に呼吸を整える真白の前に、見慣れた背中が立ちふさいだ。

「こ、う…………?」
「いけ」
「え……」
「さっさとここからでろ、真白」
「なに、いってるの…。コウもいっしょに、」
「はやく、いってっ……!」
「アカ!?」

倒れていたはずの紅音まで、辛そうに片目を閉じながら紅綺と並ぶように立つ。とても力強いはずなのに、真白の目には今にも消えそうに見えた。

「いやだよ! アカとコウもいっしょじゃないと“いみ”ない!」
「失敗作如きが、私を止められるとでも? 随分と甘く見られたものね」
「……おい、しにがみ」

瑠璃香の言葉を聞きながら、紅綺は平子達を呼ぶ。臨戦態勢に入っていた平子達は、何だと真白と同じように紅綺の背中を見た。

「真白をそとににがしてやってくれ」
「それじゃあ君達が、」
「わたしたちのことはいいの。おねがい、真白ちゃんを――」

瑠璃香の攻撃が二人を襲う。それを避けると、再び守るように真白の元へ戻る。

「やだ、いやだ! アカ、コウ!」
「はやく……」
「しかし、」
はやくいけ!!

語気が強まった紅綺に、平子は一瞬だけ考えて真白を抱き上げた。彼の意図を汲み取った浦原達は、紅音と紅綺に背を向けて走り出す。遠去かる二人の後ろ姿に手を伸ばしながら、真白は声が枯れても名前を呼び続けた。

「真白ちゃん」
「真白」

名前を呼ぶだけだったが、二人はそれで充分だった。不要な言葉なんていらない。ただ彼女の名を呼べることが、そして彼女に名を呼ばれることが二人のしあわせなのだから。

「ふふ、ここから出て、しあわせになんてなれると思わないことね……。その“花”が満開に咲く頃、あなたの命も終わるわ……。生きてしあわせになんて、絶対になれやしないのよ」

涙を散らして手を伸ばす己の娘に、ルージュで染まった唇が弧を描いた。

真白が平子に抱かれながら施設を出る。入り口にて待機していた藍染は、自分の隊長が抱える少女の存在に僅かばかり目を瞠った。
涼やかな風が頬にあたる感触を、真白は皮肉にも初めて知った。トサ…と草の生える地面に降ろされ、空を見上げた。

「……“そらがあおい”って、ほんとだったんだ」

ぽつりと、少女が呟く。

「しるときは、みんないっしょだってしんじてた」

自身でつけた肩の傷から血が流れ、草を赤く染めていく。真白は鈍い痛みから逃れるように空を仰ぎ、くしゃりと顔を歪めさせた。
――ドカァァン!!
背後にある実験施設が爆発した。悔しげに拳を握る平子達。そんな中、少女の慟哭がその爆発音に掻き消された。




実験施設から救出された真白は、その後一週間目を覚まさなかった。初めは四番隊の入院室で寝かされていたのだが、実験の影響か、霊力が安定せず四番隊の隊員や平隊士らが次々と倒れていく始末。なんとか出来ないかと皆で悩んだ結果、特別に霊子濃度を高くした部屋を作り、そこを真白にあてがった。

あの日実験施設壊滅に携わった者が、交代で真白の様子を見に来る日々。今日の当番は平子だった。始業前の朝早い時間に病室に訪れた平子は、慣れたようにベッド近くの椅子に座って少女の寝顔を眺める。病院服から見える腕や首には多数の鬱血痕があった。

「……なんべん見ても胸クソ悪いわ」

足を組んで肘をつき、口元に手を当てる。何かを考え込むように何処かを見つめる平子は、微かに聞こえた衣擦れの音で考えるのをやめてベッドを見た。固く閉ざされていた瞼が開き、虚ろな瞳が覗いている。

「おはよォさん」
「………だれ」

起きてすぐに声を掛けられるとは思わず、真白は言葉に詰まりながらも問いかけた。微かに首を動かして顔を平子に向ける。すると少女は眩しそうに目を細めた。

「なんや?」
「……………しい」
「あ?」
「まぶしい………」

腰下まで伸びた、窓から射し込む朝日をたっぷり浴びた金色の髪がキラキラと輝く。そんなに眩しいものを見たことがなかった真白は、あの施設で紅音や紅綺と絵本で見た“たいよう”のようだと思った。