想いの深さ

結局一睡もせずに夜が明け、真白はベッドから立ち上がった。

「ツキ、どう?」
「ばっちりなのです」
「目の腫れが引いてよかった。……それじゃあ、行こうか」

部屋から一歩外に出る。するとツキは瞬く間に居なくなり、彼女の腰に差さった。帯刀は認められていないが、このまま部屋に置いておくこともしたくない。卯ノ花なら判ってくれるだろうと思いながら、真白は歩みを進めた。

ノックをすると「どうぞ」と柔らかな声が聞こえる。スゥ、と一度大きく息を吸うと、覚悟を決めて中へ入った。

「失礼します」
「あら、真白? 珍しいですね、貴女がこんな時間に此処へ来るなんて」

“紅い花”のせいで情緒が不安定だった真白に対し、いつも通りに接していた卯ノ花。彼女は隊主室に入ってきた真白を見て穏やかな笑みを浮かべた。
けれど知っている。この人が、寝る間も惜しんで自分が助かる方法を模索してくれていたことを。それなのに自分は他のことを考えず、一方的に突き放した。
込み上げてくる熱いそれをぐっと押し込み、真白は目尻を緩めた。

「烈さん」
「っ、! ………いま、今、何て……」
「……流石にもう呼び捨てには出来ないけれど。…烈さんで勘弁してね」

へにゃりと情けない笑みで笑うと、暖かい温もりに包まれた。何かなんてすぐに解った。自分よりも大きい背中に腕を回すと、それに応えるように自分の背に回った彼女の腕がぎゅっと強くなる。
たったこれだけのことなのに、それはひどく懐かしい温もりだった。

「烈さん」
「はいっ………」
「私はもう、大丈夫だよ」
「え………?」
「もう大丈夫」

そっと身体を離し、下から卯ノ花を見上げる瞳は、数百年振りに力強く輝いていた。

「――強く、なったのですね」

真白が出て行った後も扉を見続ける卯ノ花は、嬉しさ半分、寂しさ半分を抱えながら仕事に戻った。




「現世!?」
「う、うん。市丸隊ちょ……じゃなくて、市丸さんは平子隊長と一緒に、朝から現世に行ったよ?」
「朝から……ありがとうございます」

四番隊から出て、すぐに五番隊へとやって来た真白に、雛森が答える。その返答が思いもよらないものだったから、真白はつい大きな声を出してしまった。
体調が回復して良かったね、と喜ぶ雛森に頭を下げて、五番隊から踵を返す。向かうは――…。


「――で、僕の所に来たんですか」
「頼れるんはもうお前しかおらんやろ」
「とは言ってもねぇ……。やっぱり、まだ見えてたんスね」

浦原の台詞に市丸は首を傾げ、「見えてない時なんか、この百年間あらへんかったよ」と告げる。ハァ…と溜め息を吐いた浦原は、目深く帽子を被って「これも自業自得っスか」と一人ごちた。
彼が溜め息を吐くのも無理はない。何せ彼は真白に嘘を吐かれていたのだから。そのことを知らない平子と市丸は、やはり首を傾げるだけだった。

「斬魄刀……しかも“月車”を胸に刺すことだけが、唯一の治療方法とは…。さすが国之サンと瑠璃香サンっスね、ただでは転ばない」
「阿呆、そのせいで今どないすることも出来へん言うてんねやろ。早よせな時間ないんやぞ」

そう言われても、浦原にはさっぱり案が思いつかない。一時期はあの刺青を調べたものの、初期段階から解明できず途中で頓挫してしまった。それだけ縹樹夫妻の研究は複雑かつ高度なものだったのだ。

「…………あ、」

すると市丸が何かに気がついたかのように声を上げた。言い争っていた平子と浦原は何だと言いたげな目を市丸に向けると、彼は気がついていない二人にニンマリと笑った。
浦原商店を出て、空を見上げる。続いて出てきた二人に背を向けて、市丸は口を開いた。

「外で会うんは久々やなァ――真白」
「「は?」」

何処に真白が、と言おうとした二人を遮るかのように、穿界門が現れた。ゆっくりと扉が開くと、そこからは地獄蝶を連れた真白が出てきた。

「座標軸問題なし、と」

風で靡く真っ白な髪が、太陽の光に反射してキラキラと輝く。暫しその光景に目を奪われていた三人を見つけた真白は、空から降りてきた。

「やっぱり真白や」
「何で判ったの? 霊圧消してたのに」
「何年一緒に居ったと思てんの」

けろっと口にした市丸の台詞に、息が詰まった真白。ふ、と息を吐くと「そうだね」と柔らかい笑みを浮かべた。
それに面白くないのは平子と浦原の二人。一瞬ブスっとした表情を浮かべたものの、慌ててそれを消していつも通りに真白に話しかけようとした。しかしそれよりも先に、真白が浦原に話しかけた。

「喜助」
「はいな…………って、」

普通に返事をした浦原だが、まさかあの頃と変わらない呼び方をされるとは思わず、固まってしまう。その反応を予想していた真白は、構わず話を続けた。

「どうしてあの日、私を置いて行ったの」

ずっと訊きたかったことをついに尋ねた真白に、市丸は一人息を飲んだ。平子達が居なくなり、三番隊に移隊した彼女だったが、あの頃は酷かった。

日中は笑わなくなった。仕事をしている時も常に無表情だった。あれほど敬語を使わなかったのに、移隊してからは今までの態度が嘘のように敬語を使い、礼儀作法も完璧にこなした。
けれど夜は違った。部屋に戻ると眠れず、例え眠れたとしても必ず泣いて飛び起きてしまう。そんな彼女の霊圧を感じた市丸が、どんな時間だろうと部屋へ赴き、朝が来るまで側に居た。

「どうして! どうして、わたしを置いてったの! っ…どうしてぇっ……!」

市丸の胸元にしがみつき、泣き崩れる真白。そのまま寝落ちてしまい、始業の鐘が鳴った後に起きるのは常となりつつあった。
それから十年、二十年と過ぎ、心の整理がついたのか、それとも諦めたのか。真白は夜に泣くことは無くなった。その代わり目覚ましで起き上がることが出来なくなり、遅刻する日が増え、今では昼前に出勤すれば早い方とまで認識されるようになってしまった。

「……私が、子どもだったから?」
「違う、……とは、言い切れないっスね」

帽子を取り、隠れていた瞳を真白のそれと合わせると、中へどうぞと誘った。店先で話すより、落ち着いて座りながら話した方が良いだろうと思ったらしい。
軽く頷いた真白を見て、浦原を先頭に平子が続き、その後ろに真白、市丸と中へ入って行った。

「おっ、お茶です」
「ありがとう、雨」

湯気の立つお茶が目の前に置かれた。それを運んできた少女は、以前にも会ったことのある少女だった。雨は真白と目が合うとぺこりと礼をして、静かに部屋から出て行った。
暫く誰も口を開かず、静寂が部屋を包む。その静寂を打ち破ったのは浦原だった。

「雨が淹れてくれたお茶は美味いっスよ」

困ったような笑みを浮かべた浦原に、彼も少なからず緊張しているのだと察し、そろ…っと湯飲みに手を伸ばした。一口お茶を飲むと緊張が少し和らぐ。ホッと息を吐くことが出来た真白を見て、浦原はやっと長かった過去の出来事を語り始めた。

「いろいろ理由はありますけど……、結局は僕らの我儘っス」
「わがまま?」
「はい。……百年前のあの日から、先日の藍染の裏切り発覚まで。僕らは尸魂界を裏切った死神として、上層部からは認識されていました。勿論そう思われることは判っていた。だから貴女を連れて行かなかった」
「なに、言って………」

湯飲みから顔を上げて、目を合わせる浦原。そこには動揺した真白がカタカタと小さく震えながら佇んでいた。それでも浦原は口を噤むことをしない。彼女は充分待ったのだ。そして選択した――“知る”ということを。

「何よりも、誰よりも大切な真白を、僕らと同じところには堕としたくなかった。これから何十年、何百年と背負わなければならない罪を、他でもない真白には背負わせたくなかったんス」

ひくりと喉が震える。

「恨まれたってよかった。憎まれたってよかった」

ただ、と浦原は一度言葉を切った。涙が浮かび、目の前に座る彼がぼやけて見える。

「ただ、忘れないでいて欲しかった」

もう我慢が出来なかった。涙は次から次へと溢れ、頬を濡らしていく。 拭っても拭ってもそれは止まらず、ついには嗚咽まで漏れてきてしまった。

「なんて、ただのエゴっスけどね」

苦笑して頭を掻く浦原に、真白はもう涙を止められなかった。吐露された想いは、自分の想像を遥かに超えていた。

恨んだ日も、憎んだ日も、数え切れないほどあった。けれど月日が経つごとにそれは風化し、残ったのは虚無感だけだった。それを埋めてくれたのは市丸や、三番隊のみんな。
だが――浦原や平子達を忘れたことなんて、一度もなかった。忘れるなんて出来やしなかった。

行きつけだった甘味屋では、大好きな白玉善哉を見るたびに思い出した。鍛錬場では打ち合う隊士達を見るたびに、此処で何度も鍛えられたことを思い出した。
あちこちに散りばめられた思い出は、例え何年経とうが風化することはなかったのだ。

「儂らが背負う咎を、お主は知らぬままでいて欲しかったんじゃよ」

ふと、この場にいるはずのない声が部屋を走った。声のした方を振り向けば、そこには褐色の肌に長い黒髪を高い位置で括った女――四楓院夜一がいた。
ぽろぽろと涙を流しながら、呆然と彼女を見つめる真白。夜一は小さく笑うとぎゅうっと包み込むように、けれど強く彼女を抱きしめた。

「よる、いち、さんっ……!」
「すまなかった。……お主を黙って置いて行って」
「っ…………」
「真白を理由に使っておるが、結局は儂らのためじゃ。儂らが勝手に『お主の為』と言って程の良い理由を作っただけ」

じわりと移る温もりに、真白は夜一の肩にしがみつきながらくぐもった声を出した。

「……んな、そんな言い方ずるいよ」
「じゃが、本当のことじゃ」
「それでも、私のためだった」
「………………、」
「…結局私は、守られてばかりだった。何も知らずに、ただ置いていかれた絶望を抱えて、勝手に恨んで、憎んで、泣いて、諦めて。みんなの葛藤も哀しみも辛さも、何一つ判ってなかった…」

ぐいっと夜一の肩を押して、距離を取る。顔は下を向いている為、一体彼女がどんな表情をしているのか判らない。けれどぽたぽたと落ちる雫だけはこの場にいる全員が見えた。

「……めん、…なさい…」
「…顔を上げて下さいっス、真白」
「いまは、むり、」
「真白」
「っ……、」
「顔、上げェ」

平子の強い言葉に促され、真白はゆっくりと顔を上げた。くしゃりと歪められた瞳に、たっぷりと溜まる涙。それが落ちて頬には幾つもの涙の筋があった。

「ごめん、なさいっ……! ごめっなさ…、めん、ごめん、っ……ごめんなさい………!」

手のひらでぐしぐしと瞳を擦り、何とか涙を止めようとする。

「わたし、ばかだから! なんにも、っ…ほんとに何も、考えなかった…! みんながいなくなった理由なんて、少し考えればわかったことなのにっ……」
「真白」
「それなのに、自分だけ被害者ぶって、悲劇のヒロインを演じて、沢山の人を巻き込んで……!」
「真白」
「ほんとに、っ…ごめんなさ――」
真白!!
「っ!」

何度目かの謝罪を強く遮った平子は、厳しい目つきで真白を睨んだ。睨まれた本人はどうすれは良いのか判らず、唇をきゅっと噛み締めるしかない。

「思いあがんのも大概にしとけ」
「え………、思い上がるって、何を…」
「俺らが居らんくなった理由が、ちょっと考えれば判るやと? 藍染の裏切りがはっきり判るまで気づきもせんかった奴が、ヨォ言うたのぉ」
「それは!」
「アホ抜かせ。……お前がそれで判ってもたら、喜助や夜一さんが真白に何も言わんと出て行った意味が無いやろ」

死覇装の裾を強く握りしめる。

「恨んでも、憎んでもえぇ。ただ忘れんといて欲しかった。――笑って過ごして欲しかった。俺らが望むんはそれだけや」

その想いの深さに、彼女の涙はまた頬を濡らした。