ハロー、世界

あれから「まぁまぁ、お茶でも飲んで落ち着きましょう」と浦原に促され、平子はフンと鼻で息を吐いてお茶を啜った。彼に倣って真白もゆっくりと湯飲みに口付ける。まだ涙はじわりじわりと滲むものの、少しは落ち着いたようだ。

「……ごめんなさい」

謝ると、また平子の顔にピキリと青筋が浮かぶ。夜一はやれやれと肩を竦めると、謝るのは終いだと言った。真白も平子の様子にそれが正解だと思い、側にあったティッシュで鼻をかみながら頷いた。

「それで、いきなりどうしたんスか? 具合はもう大丈夫なんです?」
「……どうしてそれを喜助が?」
「ボクらが言うたんよ。…真白を救ける方法が、“月車”を刺す以外で何かあるんやないかって」
「それって………」

そう、全て言わなくても真白には判った。――それは自分のことだったのだから。
平子と市丸は、自分の為に浦原の元を訪ね、自分の生きる方法を考えてくれていたのだ。

「あのね――」

真白は語った。自分に起きた昨晩の出来事を。紅音と紅綺のことは伏せて。
自分達をあの研究所から助け出してくれた平子達も、真白と同じくあの二人は死んだと思っている。今二人が何をしているのかは知らないが、あまり容易に言わない方がいいだろうと思ったのだ。

「“花蜜”、っスか……。聞いたこともないっスね」
「ホンマに大丈夫なんか?」
「うん」

そう言って真白は胸元を少しはだけさせる。覗いた胸元に咲く花の刺青は、赤から青に変化していた。

「青………」
「もう“紅い花”も見なくなったの」
「それって、じゃあ、」
「うん。……もう、死ぬ心配はしなくてもいいんだよ」

ふわりと笑った彼女に、一番に抱き着いたのは市丸だった。小さな彼女をすっぽりと抱き締めた彼は、ほんの少しだけ震えていた。

「…良かった」
「ギン………」
「ほんま、よかった…」

百年だ。百年もの間、彼は“紅い花”に怯える真白を側で見守ってきたのだ。喜ばない訳がなかった。
もぞもぞと腕の中で動いて、ゆっくりと腕を市丸の背に回す。ポンポンと優しく叩くと、より一層抱きしめる力が強まった。しかしそんな微笑ましい二人の抱擁を、この男が黙って見ているはずもなく。平子は真白と市丸を力付くで引き剥がすと、彼女を自分の腕の中におさめた。

「ちょっと、何ですの」
「くっつきすぎや」
「真白も嫌がってへんかったで? ほら、平子サンとの方が嫌そうに見えるけど」
「ハァ? 眼医者行け阿呆。これの何処が嫌がってんねん!」
「百年経っても、そういうところは相変わらずですなァ」
「お前は百年経っても減らず口やのぉ……!」
「もう! いい加減にして!」

二人の不毛な言い争いにピシャリと叱咤した真白は、平子の腕から抜け出してすぐに夜一へ飛びついた。突然だったが彼女は難なく真白を抱き止め、柔らかく微笑む。それはさながら、母親のようだった。

「なんじゃ、儂が恋しかったか?」
「………うん」
「随分と素直じゃのう」
「だって、……だって私、前に夜一さんを無視した」
「前?」
「一護君達が尸魂界に来たとき。…会うチャンスは幾らだってあったのに、わざと会わなかったの」

別れの挨拶にすら行かなかった。そのことを今更悔いているらしいこの娘に、夜一はビヨーンと彼女の愛らしい頬を引っ張った。

「ひょっ、ひょるいひはん!?」
「過ぎたことをいつまでもグチグチと言うでない。確かに、傷つかなかったと言えば嘘になるが……それでも、お主の気持ちも判っているつもりじゃ」

ゆるりと瞳を細め、頬から手を離す。そのままゆるゆると少し赤くなったそこを優しく撫でると、ほれ、と浦原の方へ促された。
おず…と浦原を見ると、彼はとても、本当にとても優しい笑みを浮かべていた。何でも許してくれそうな、慈愛の篭ったそれに、真白は迷わず駆け寄った。

「っ、…きすけ、」
「はい」
「きっ…きすけぇ……!」
「はぁい」
「あ、あいっ……あいたかった! ずっと、ずっと……うぇっ、っ、あいた、かっ……〜〜〜っ…」

また顔中を涙で濡らす真白を、すっぽりと包んでやる。きっと『会いたかった』という台詞すら、彼女にとってはずっと言えなかったものだろう。

髪が白くなった。
髪が長くなった。
背が伸びた。
敬語が使えるようになった。

変わったところは沢山あるけれど、それでもやっぱり、この子は真白だ。自分達の大事な“宝物”。

「えぇ。……僕らも、会いたかったっスよ」

長い長い月日が経ち、漸く彼らは本当の意味で再会を果たしたのだった。




チュンチュン、と雀の鳴く音が部屋の中まで聞こえてきた。こんもりと山のように盛り上がった布団がごそり、と動いたと思えば、またすぐに静かな空間に逆戻り。それから十分後――置き型時計から爆音が鳴り響き、ようやく布団に潜り込んでいた者はのっそりと起き上がった。

「ふぁ、ぁ………」

大きな欠伸をした女は、緩慢な動作で爆音を止めて暫くぼーっとする。そのまま布団の温もりが恋しくて、気づけばまたぱたりと布団に横になって眠っていた。
スヌーズ機能のない時計はもう鳴らない。次に起きたときはすでに午後に差し迫っている時刻になろうことは、間違い無いのである。

「おはようございます」
「おはよう、じゃなくて『おそよう』な」
「と、戸隠さん………」
「ほら、あっちで吉良副隊長がご立腹だぞ」
「うわぁ……に、逃げちゃダメですかね」
「逃げるくらいなら最初から遅刻すんな」
「はーい……」

正論にぐうの音も出ない。素直に返事をしてとぼとぼと怒っている吉良のもとへ歩み寄った。そこから説教ウン時間コース、からの山積みの書類整理はもう毎日の流れだった。

結果的に、真白は五番隊へ移隊しなかった。ローズが彼女の移隊届を用意しており、平子や総隊長にも話は通っていたし、何より平子もまた彼女が五番隊へ来ることを心の中で望んでいた。あとは彼女が頷くだけだったのだが、この話を聞いた彼女は首を横に振ったのだ。

「確かに、五番隊へ戻りたくないと言えば嘘になります。……けれど私の居場所はもう、彼処ではなく――三番隊ここですから」

五番隊に戻りたい、と思ったこともあった。平子が戻ってきたと知ったときはより強く思った。
けれど、自分はもう三番隊の平隊士なのだ。

「んーっ……終わったぁ……」
「おーお疲れ」
「あっ戸隠さん! これ、終わったんで見てもらえますか?」
「あぁ、いいよ。……うん、大丈夫。相変わらず仕事も早いし、ミスもないな」
「へへ、ありがとうございます」

ヘラっと笑うと、真白は椅子から立ち上がった。

「どこ行くんだ?」
「お散歩行ってきまーす」
「あぁ散歩な。行ってらっしゃ……って待て待て! おい縹樹、書類これどうすんだ!」
「では行ってきまーす」

戸隠が慌てて引き止めてももう遅い。彼女は既に戸を開けて出て行った後だった。
毎日のやりとりとは言え、何故こうもするっと抜けだされるのか。戸隠は自分の不甲斐なさに溜め息を吐くと、山積みになった処理済みの書類を見てまた溜め息を吐いたのだった。

「あっ」
「おや、珍しいお客さんが来たねぇ」
「春水と十四郎こそ! 雨乾堂に居なくていいの?」
「たまには外も良いかと思ってな。そうだ、真白」
「うん?」

いつものお昼寝場所に座っていたのは、浮竹と京楽。二人に遠慮なく近づいて話しかけた真白は、浮竹に差し出されたものに目を輝かせた。

「わぁ、みたらし団子!」
「さっき買ってきたんだよ〜。お食べ」
「ありがとう」

二人の間に座り込んで美味しそうにみたらし団子を頬張る。その様子に浮竹と京楽は、互いに顔を見合わせて笑い合った。
そんな良い雰囲気を壊しにきたのは――。

「なんや、エライ楽しそうですなァ」
「ボクらも混ぜてもろてええですか?」
「平子、市丸」

現れた二人にも浮竹はみたらし団子を渡した。どれだけ買ったんだと思いながら、真白は二つ目のみたらしを頬張る。

「今日も寝坊したんやって?」
「耳が早いね、ギン……」
「そんなん聞かんでも判るわあ」

ケラケラと可笑しそうに笑う市丸に、少し膨れる真白。そこへ「まーた寝坊したんか、この寝坊助」と揶揄うのは平子だ。ギャーギャーと言い争う三人を見ながら、浮竹は背凭れにしているこの大きな木を見上げた。

「この木に花がついたら、みんなで花見をしてもいいかもな」
「おっ、イイねぇ。それなら他の隊の人達も呼んで、盛大に宴にしちゃう?」

やっと平和が訪れたのだ。少しくらい羽目を外しても文句は言われないだろう。何よりも、この百年間頑張った真白へのご褒美だ。

「春水! 十四郎! はやく!」
「あれ、どこ行くの?」
「甘味屋! 真子がみたらし全部食べちゃったの! 次は絶対に餡蜜買ってもらうんだから……」

恨めしそうに平子を憎む真白に、当の本人は全力で変顔をして余計に彼女を煽っていた。浮竹と京楽は苦笑すると、重たい腰を上げる。

「はーい、今行くよ」

青空の下、コロコロと鈴の音のように笑う声がいつまでも響いた。