水面下の足音

「それじゃあ、一護くんは無事死神の力が戻ったんですね」
「そうみたいだねぇ。少しは気にしていたのかい?」
「何ですかそれ。まるで私が薄情な奴みたいな言い方……。そりゃあ気にしますよ、彼はこの尸魂界の大恩人ですよ?」

少し頬を膨らませ、真白はごくりと湯呑みに残ったお茶を煽る。最後まで飲み干すと、失礼しましたと礼を言って執務室から出て行った。残された三番隊隊長・鳳橋楼十郎、もといローズはふぅと息を吐くと、静かな室内でぼそりと呟いた。

「百年の溝は、やっぱり深いねぇ」

憂うように言った台詞は、自分だけが思っているわけではないとローズは確信していた。

自分のデスクに戻った真白は高く積まれた書類の山にくらりと眩暈を起こしながらも、やるかと気合を入れてそれを腕で抱える。「行ってきまーす」と残っている隊士達に声を掛けると、「行ってらっしゃーい」という返事を背に真白は隊舎を後にした。
時間をかけて隊を回り、少しずつ腕の中の書類を減らしていく。次は……と考えていると、ひょいっといきなりその書類が腕から消えた。下げていた視線を上げると、そこに居た人物に彼女は思わず名前を呼ぶ。

「ギン」
「真白チャンがサボらず配達してるなんて、珍しいなァ」
「これ終わったら直帰していいって言われたら、そりゃあやるよー」
「えぇなあ。ほならボクも手伝ったるわ」
「いやいらないけど?」
「えぇからえぇから。ほな行こか」

市丸が書類を持ったまま進むものだから、真白は慌てて彼を追いかける。その背には以前まであった三番隊の隊長羽織は無く、一般隊士のそれと同じだ。けれど自分にとってはこれこそが見慣れたものであり、この背中をずっと見たかったのだとふと思った。
彼の隣に並び、ちらりと見上げる。すると市丸は「ん?」と相変わらず目を細めながら首を傾げた。

「……ギンって、いつまで平隊士のままでいるの? その気になれば席官入りだってすぐでしょ」
「まだ当分は席官入りはえぇわァ。仕事で忙しくなるんはイヤやし、頼れるイヅルももうボクの部下にならへんし」
「最低な考え……」
「真白やって、もうそろそろ席官入りせなあかんのとちゃうの? 上がそんな話したそうやけど」
「断固拒否するよ、そんなの。私は平のままで充分」

本当にそう思っているらしい真白に、市丸は心の中でそれは無理だと確信していた。彼女の力は衰えるならまだしも、更に強力なものになっているのだから。それを見逃す程中央は頭の柔らかい者達の集まりではないし、実質護廷の力も不足している。そんな中で隊長格にも匹敵するか、それ以上の力を秘めている真白をいつまでも平隊士のままだなんて、有り得ない。
それはきっと、すぐそこまで来ている。市丸は真白と軽口を叩きながらもその時が来なければいいと願った。

「しつれーしますー」
「ちょっ、ギン!」

配達先へ着くと、市丸はノックもせずに中へ入ってしまった。真白が慌ててノックをして中に入るが、時すでに遅し。市丸は完全に引け腰になっている隊士を相手に、書類を渡していた。

「ほなこれ、ヨロシク〜」
「あ、はっはい!」
「馬鹿! よろしくお願いしますでしょ!」
「あぁ、せやった。よろしくお願いします?」
「市丸がすみません……っ」
「い、いえ、はい、いえ!」

ぺこぺこと何度も頭を下げて、真白はズルズルと市丸を引きずって隊舎から出る。そして扉を閉めた瞬間、容赦無く彼の頭を殴った。

「〜〜〜っ! いきなり何すんの!」
「ほんっと馬鹿! もうギンは隊長じゃないんだよ! 平隊士のままでいたいなら、もう少し礼儀正しくしなさい! それが嫌なら席官入りしなさい!」

その台詞はまるで保護者のようなそれで。市丸は頭を抑えながらもくつくつと笑い、人目も憚らず真白に抱きついた。器用に書類を落とさないように。
突然のことに反応が遅れた真白だが、市丸はそんなこと気にしない。しかも嬉しそうな雰囲気が自分にまで伝わってきてしまうから、余計に拒否出来ない。

実際、市丸は嬉しくて仕方がなかった。やっと、やっと彼女と自分の目線が対等になったのだ。
百年前は自分の地位が低く、そしてこの百年間は彼女の方が低かった。決して対等にはならなかったのに、こうして平隊士になって初めて彼女と同じ位置で話が出来るなんて。彼にとってこれほど嬉しいことはなかった。

「何やってんねん!!」
「〜〜〜〜っ!? いっいきなり何ですの……」
「こっちのセリフやボケェ!! 仕事サボった挙句、こんなところで何してんねんお前!」
「イヤやなぁ、嫉妬?」
「おまっ、ハァッ!? だっ誰が嫉妬なんかするか! アホ!」

霊圧を消してまで接近してきて、市丸の頭を殴ったのは彼の隊長である平子真子。しかも殴ったところは、偶然なことに先程真白が殴ったところと一緒だった。

「今一緒に書類配達してるところですねん、邪魔せんといてくれますぅ?」
「オマエには別の仕事があるやろ、さっさと来ぃ」
「それじゃ、書類は返してもらうね」

サッと書類を奪い返した真白は、市丸に意地悪そうに笑うと平子に「それでは平子隊長、失礼します」と頭を下げて次の隊舎に向かった。

「……羨ましいんやろ、隊長サン」
「うらやっ!? ……別に羨ましくないわアホ!」
「ボクは羨ましかったで。すぐ敬語やなくなった黒崎クンが」

素直に自分の気持ちを告げた市丸に、平子は彼の首根っこを掴みながらため息を吐いた。

「あの日は何やってん……俺の幻か?」
「真白の事やから、一日だけって決めてたんとちゃう?」
「何でやねん……」
「今の三番隊長サンも敬語使われてるみたいやし、しゃーないわ」
「ローズも昔はめっちゃ懐かれとったんやぞ……。…はぁ、百年は長いわァ」

二人がそんな会話をしているなんて知らない真白は、残りの書類を配達し終えるとそのまま自室に帰った。

「真白しゃまっ!」
「うわっ、ツキ? どうしたの?」

もう既に空は茜色の夕焼けから真っ暗な夜へと変貌している。三日月のか細い月明かりが尸魂界を照らす中、自室に帰って早々に彼女の斬魄刀である“月車”もといツキが具象化し、真白に抱きついた。

「……なんだか、ずっといやなよかんがするです」
「嫌な予感?」
「はいです。……それに、だれかにみはられているかんじもするのです」
「見張られているって……」

咄嗟に周囲の霊圧を探ってみるが、死神以外のそれは感じない。だがただの勘違いと一蹴するつもりもなく、真白は顔を上げたツキの瞳と己のそれを合わせた。金色の瞳が不安げにゆらゆらと揺れ、死覇装を掴む手がきゅっと強くなる。

「ツキたちの“かんち”しないところで、なにものかがうごいてる……そんなきがするです…」
「ツキ…………」
「もっもちろん、ツキのかんちがいかもしれないのですが、でもっでも!」
「判ってる」

ゆっくりとしゃがみ込み、ツキと目線を合わせて濡れた夜空の様な黒髪を優しく撫でる。それだけでツキの瞳から不安の色は消え、大人しくその温もりを享受した。

「この部屋に結界を張ろうか。万が一の時のために」
「はっ…はいです!」

パァッと表情を明るくしたツキは、すぐに部屋の中央へ移動し、目を閉じる。広げた両手に光が凝縮したのを確認すると、それを床にぺたりとついた。途端にそこから光が走り、やがて部屋中に充満すると光はパァン!と弾けて元通りの静けさが戻った。

「鬼道での結界でもよかったけど、月の光を使った結界の方が万全だし、一先ずはこれで安心だね」
「はいです。もしもなにかあったとき、ツキや真白しゃまにすぐにつたわるようになってるですからね」
「うん。……何もないといいけど」

だが、きっと恐らく、その願いは叶わないだろう。
真白はそう確信しながら、「今日はあの部屋に行こうか。今ので月の力も大分使っちゃったし、何かあった時のために霊力は多い方がいいから」とツキに伝えると、こくりと頷いたのを確認して真白は部屋を後にした。

その翌日、この平和が崩れるだなんて。この時はまだ真白もツキも知らなかった。