善悪の定義を放棄した

背中にあった“ミミハギ様”は浮竹の顔に乗り移り、そのまま天へと伸びていく。何処まで伸びるのかなど、そんな愚問をする人は誰一人としていない。

「ツキ、どうやったら十四郎を助けられる!?」
「もうツキにも“かんしょう”できないほどに、このものは“みみはぎさま”と……“れいおうのみぎうで”とふかくむすびついているです。………どうすることも、できないのです」
「そんなっ……!」

ツキとしても、真白の願いならば何とかしてやりたい気持ちでいっぱいだが、流石に霊王の右腕ともなれば此方から干渉することは難しい。それにあれ程深く、強く結ばれているのだ。引き剥がしたとしても依り代となった浮竹自身の安全も保障されない。

天を仰いだままビクッ…ビクッ…と小さく痙攣する浮竹。そっと手が伸びるが、結局彼に触れられなかった。

だがいつまでもグズグズしていられない。砕蜂が「この安定も浮竹の命が尽きる迄のものだろう。それはいつまでだ?」と冷静な声で浦原に訊ねる。その言い方にぴくりと反応した真白だが、理性で怒りを押しとどめた。――だって、その通りだから。

「……わかりません。この“神掛”というもの自体、アタシ自身見聞きするのも初めてです。どのくらい保つかなんて見当もつかない……」
「だからこそ、十四郎が霊王の身代わりになってくれている間に、早く『門』を創らなきゃならない」

浦原の言葉を引き継いでそう口にした真白は、ぎゅっと珠を持つ手に力を込めた。

「十四郎の想いを無駄にはしない。絶対に」

絶望なんてしてやるもんか。
これは、我々の大いなる反撃一歩なのだから。

それでも、浮竹の居なくなった穴は大きい。彼の霊圧量は隊長格の中では群を抜いていたため、出来かけていた門も霧散していく。
焦る伊勢を宥めるようにリサ達も入ってきた。皆でまた霊圧を集めようとしたその時、穴の空いた天井からひょこっとマユリとネムが顔を出した。

「成程成程。門を創る為に、全員の霊圧を結集させていると。――解せんネ。膨大な霊圧が必要なら、何故先に…」

勝手知ったる自分の研究室を闊歩し、何やらカタカタとボタンをタッチしていく。ものの数秒の間にモニターが扉のように開いた。

「霊圧の増幅器を用意しない?」

奥から出てきたのはその名の通り、霊圧増幅器。ここぞとばかりに役に立つ物に、皆の声色が喜色した。
しかし突然、浮竹を依り代にして天まで昇っていた霊王の右腕がボッと爆発する。支えを失った浮竹は液体の中に倒れていく――その寸前に真白は身体を滑り込ませ、彼が完全に倒れるのを防いだ。

「十四郎!」
「これは――…! 霊王の右腕が消えていく――!? いや、これはまるで……吸い取られているかの様な………」

浦原につられて真白も天を仰ぐ。ボボボボッという音を立てて、空へ吸い取られた霊王の右腕の影を見えなくなるまで睨みながら、己の腕の中にいる浮竹へ目線を移した。――次の瞬間、消えたはずの影は空を覆うかのように拡がり、瀞霊廷は暗闇に包まれた。

「夜になった………?」

立て続けに起こる現象に頭がついていかない。一先ず浮竹を十三番隊三席の二人に引き渡して、もう一度空を見た。遮魂膜が一部欠けている。このままだと敵の標的になってしまう。
すぐにそれを見抜いた砕蜂は一気に天井上まで跳び上がったが、空から降ってきた謎の物体に押し潰される。間一髪で二番隊副隊長の大前田が倒したが、黒い謎の物体はその数を増やし続ける。

全員が斬魄刀を始解して、それを研究室に入れないようにするが何せ数が多い。キリがないと舌打ちする一角を横目に、真白はズァッと霊圧を少し上げて周囲の黒い物体を地面へ圧し潰した。
そんな真白の行動と同時に、自分とは別の霊圧がこの場に走る。彼女と同じように黒い謎の物体が地面へと潰れていく光景を見ていると、暗闇から静かな声が聴こえてきた。

「滑稽だな」

真白は自分の肌が粟立つのが判った。

「何をちまちまと刀で払っているのだ」

何故、何故――。

「縹樹君と同じように、霊圧で一息に圧し潰せば済むものを」

そう言っている間にも、藍染の霊圧によって謎の物体は次々と潰れていく。しかし研究室に集う一同はそれどころではなかった。

「……莫迦な…。貴様は……――藍染………!」

ルキアの声が、どこか遠くの方で聴こえた。


不敵な笑みを携えたままルキアと話す藍染から目が離せない。真白の意識は完全に彼へと向いていた。藍染の背後から登場した京楽が彼を無間むけんから連れ出したらしい。けれど一角達は『はいそうですか』と素直に納得出来るものではない。何せ藍染が犯した罪はこの尸魂界を揺るがすものなのだから。

「恥知らずめ……!」と京楽を罵る砕蜂。それを京楽は「面子じゃ世界は護れない。悪を倒すのに悪を利用する事を、ボクは悪だとは思わないね」と厳しい眼差しで告げた。
途端に口を閉ざした副隊長達。室内に一瞬の静けさが戻る中、ここで漸く彼女が口を開いた。

「――惣右介くん」

まさか真白が話しかけるとは思わず、ルキアも、一角も、皆が固唾を呑んで彼女を見た。藍染も唯一見える左目で少女へと視線を向ける。
不思議だ。先程まであんなに怖くて身体が震えていたのに、彼と目が合った途端にそれら全てが無くなった。

「久しぶり、元気にしてた?」
「…………はぁ、こんな時でも変わらないのか、君は」
「そんな風に呆れられるのも懐かしいね。あの頃はいつも惣右介くんに溜め息ばかり吐かれてたから」
「誰のせいだ、誰の」
「……私のせい?」

こてりと首を傾げて、わざと惚けてみせる。すると藍染は疲れたようにまた溜め息を吐いた。

「私を恨んでいるだろう。なのに何故そんな態度が取れる」
「勿論恨んでるよ。この百年間のことを思えば、いくら憎んだって恨んだって足りない。――でも、あの時に私は全部吐き出したから」

空座町で刃を交えたあの時に、恨みつらみは全て言った。

「でもね、どれだけ憎んでも、恨んでも……私にとって惣右介くんは、やっぱり特別なんだよ」
「特別? 理解し難いな。そこまで君と関わったつもりもなかったが」

真白の口から出た“特別”という科白に、ルキア達は目を見開いた。一体どんな繋がりがあるのか皆目見当もつかないからだ。
だが、ルキアも、一角も、弓親も、檜佐木も、阿散井も、雛森も。この場に集う副隊長達は全員知らない。真白の生い立ちを、過去を。どうやって死神になったのかを。

「何言ってるの! 特別だよ。……真子も、十四郎も、春水も、夜一さんも、喜助も、海燕も――惣右介くんも。あの日、あの時、私を……私達を救けてくれたのは、間違いなくこの七人なんだから」

だから、と真白は一歩を踏み出した。慌てて京楽が彼女を止めようとするが、その手をするりと躱し、ついに藍染の目と鼻の先にまで来てしまった。だが京楽の心配は杞憂に終わる。
彼の周囲に押しとどめている霊圧が、真白に影響しないのだ。先程の無間では一人の手が消し飛んだのに。

「何故消し飛ばない?」
「今の私は、ツキの力と同化した存在。――縹樹夫妻が夢にまで見た、実験の完成体だからだよ」

縹樹夫妻? 実験?
自分達の知らない単語ばかり飛び交い、とうとう頭がパンクしそうなルキア達。そんな副隊長達を他所に、平子達は大慌てで真白の元へ駆け寄った。

「なっ何言ってるんですか! 完成体ってどういうことっスか!?」
「そもそも何やねん完成体って! 何勝手な事しとるねんこのど阿呆!」
「ヒッ……!」

まるで鬼の形相で真白に詰め寄る浦原と平子。途端に泣きそうな表情を浮かべた少女をある男が横から抱きしめた。

「やめェなお二人サン。真白がびっくりしとるやんか」
「ギン……」
「コワァイお兄さん達からボクが護ったろなァ〜」
「さっさと離れェ…………!」

ぎゅうっと真白に抱きつく市丸を無理やり引き剥がした平子は、上から真白を見下ろして強く睨んだ。

「詳しい話は全部終わった後に訊くから、覚悟しときや」
「はいはい…(過保護……)」
「おまっ……!」

やっとの事で追及から抜け出した真白は、もう一度藍染と向き合う。

「惣右介くんがいつから尸魂界を裏切っていたのかとか、どうしてあんな事をしたのかなんて私にはもう関係ないし、どうでもいい」
「ど、どうでもいい……」

信じられないとでも言いたげな阿散井を無視して、彼女は藍染に笑いかけた。

「だって、やっぱり惣右介くんは惣右介くんだから」

それに、と真白は楽しげに言葉を続ける。

「今の惣右介くんと一緒なら、百人力じゃん」

藍染から目を離し、京楽を見る。隻眼となってしまった彼と目を合わせると、へにゃりと力の抜けた笑みを浮かべた。

「ありがとう、春水」

やはり、キミには敵わない。
京楽は被っていた笠をグッと下げて、あの頃よりもずっと大きくなった少女を抱きしめた。