赤点だらけの答案用紙

旅禍は三番隊の守護配置には落ちてこなかった。一先ず安心した真白は屋根の上にトンっと飛び上がり、戦況を確認する。すでに多くのところで怒声が飛び交っていることから、戦闘は行われているのだろう。

「瀞霊廷内でこんなことが起こるなんてねぇ…」

けれど、今なら誰にも気づかれずに行ける場所がある。席官ならまだしも、平隊員の真白だからこそ可能だ。
周囲を見渡し、やはり旅禍が来ていないことを確認してから真白はその場から立ち去った。一人の隊士がいなくなったにも関わらず、それを知る者は一人としていない。特に今日はお目付役の戸隠も非番でおらず、吉良は未だ来ていない。そのせいで今命令を出しているのは四席の堤根だ。五里、片倉はそれをサポートし、かつ己の守護配置につかねばならない。
よって、真白を気にかける者は誰一人としていないのだ。

「…………」

タタタタッと走りながら脳裏に浮かぶのは、市丸の言葉だ。

「たとえ相手が誰やとしても、“そんとき”はちゃんと解放すんねんで」

それはまるで、相手が誰だか分かっているみたいな言い方だった。
それはまるで、相手が真白と親しい間柄のような言い方だった。
考えれば考えるほど深みにはまり、真白はちっと舌打ちした――そのときだった。ガァン!と横の建物が壊れ、土煙が辺りを包む。屋根の上を走っていた真白はバランスを崩し、地面に足をつける。目に入らないように腕で顔を覆って暫くやり過ごしていたが、ふと感じた霊圧に腕の奥にある瞳はゆっくりと開いてゆく。

「――ただの戦い好きの素人の“本能”で片付けるにゃ出来過ぎだってな」
「(斑目三席……? どうして彼がここに…確かに十一番隊の管轄だけど、あの人の配置は別のところじゃ……)」

そこで真白は、無意識のうちに旅禍が落ちて来たところの横を通り過ぎようとしていたことに気づいた。その場所を避けて向かおうと思っていたのに、とんだ誤算だ。
戦っている十一番隊三席副官補佐の斑目一角の邪魔をしないようにこのままトンズラしようとザリ、と踵を翻したが、一角が口にした名前にその足をピタリと止めてしまう。

「師は誰だ、一護」
「(いち、ご…って、)」

聞き覚えのある名前。それはとても鮮明に、真白の記憶を揺さぶった。

「さっきのオレンジ頭クンが“黒崎一護”…あの朽木ルキアチャンが死神の力を譲渡した相手やよ」

ああそうだ。いちご――“黒崎一護”。友人の力を手に入れ、友人が罪人となった原因。譲渡せざるを得ない状況に陥れた人物。
思いもよらなかった再会に真白は拳を強く握った。

「――…十日ほど教わっただけだから…師と呼べるかどうかはわかんねえけど…戦いを教えてくれた人なら居る」
「誰だ」

現世にルキア以外の死神が?
話を聞いて真白は首を傾げたが、一角が促した先の返答に、今度こそ彼女は呼吸を忘れた。

「――浦原喜助」

うらはらきすけ。
ウラハラキスケ。
浦原喜助。

不意打ちの名前に、真白は二人に気づかれないように壁に背をつけて強烈な吐き気を抑える。今すぐにでもこの場から逃げたい気持ちでいっぱいだが、震える手足ではまともに歩くことすら叶わない。
それでも、と。真白はふらりと覚束ない足取りで二人に近づいた。どうしても確かめたいことがあったのだ。始解した一角が真白の姿を見た途端に「は? おま、何でここに?」と戸惑う声をかけるが、生憎真白は一角に用はないのだ。
一角と一護の間に立ち、彼女は少し青い顔色で一護と目を合わせた。

「……黒崎、一護」
「は? ってあんた…市丸? とかいう奴と一緒にいた…」
「ばっお前か! 三番隊長と一緒にいた隊士ってのは!」

一護の台詞で明らかになったそれに、一角は目を釣り上げて怒鳴る。あとでならいくらでも説教を受け入れてやると真白は一角に目を向けずに、ゆっくりと口を開いた。

「ルキアの……」
「ルキア? お前何か――!」
「ルキアの力を奪った君が、どうしてここに来たの…?」

初めて聞かれた問いに、一護はルキアの居場所を聞こうと思っていたことも忘れて固まった。ストレートな質問は一護の心を抉り、答えを言うことを阻む。
しかし、一護は強かった。強くなった。

「借りをまだ、返してねえから」

それだけでは意図がつかめない真白は、クッと眉間に皺を寄せる。

「会ったばかりの俺と、俺の家族を守るために――ルキアは、自分の能力チカラを俺にくれたんだ。確かに側から見れば俺があいつの能力チカラを奪ったって言われても仕方がねえし、実際そうだ」

息が苦しい。

「そのせいであいつは捕まって…今、処刑されようとしてる。俺のせいで殺されようとしているのに、助けに来ないわけねえだろ」

ねえ、ルキア。
やっぱり貴女は、馬鹿だよ。それもとびっきりの。

「……ゼロ点」
「は!?」
「斑目さん、戦いの邪魔してすみませんでした」
「テメェ、俺を無視しやがっただろ…!!」

つるてかの頭に筋が一本二本と増えていくのを知らんぷりし、真白は「それじゃあ」と今度こそ逃げた。再び屋根の上を伝い、浅い呼吸で精一杯息を吸う。向かうは懺罪宮せんざいきゅう 四深牢ししんろう――朽木ルキアがいる場所だ。

「チッ…アイツ後でぜってぇシメる」
「なんなんだあいつ? 誰だ?」

まともに返事をしたにも関わらず『ゼロ点』と言われてしまえば、一護も血管を浮かせてしまう。
誰だと問うた一護に、一角は難しそうな表情で彼の斬魄刀『鬼灯丸』をブンッと振り回した。

「あそこで一護、テメェに師を聞いたのは間違いだった」
「は? いきなり何だよ」
「まさかここであの人の名前が出てくるとは思わなかったからな」
「だから何――」
「縹樹真白。お前が会った市丸隊長の所の平隊士だ」
「縹樹……真白…」

聞いたことのない名前。それなのにどうして、こんなにも記憶に残るのだろうか。

「例の極囚と友人だって話は、真白から聞いたことがある」
「っルキアと!?」
「実際話してんのは見たことないけどな」

話もそこまで。一角は治まっていた闘志をむくむくと再びもたげさせ、斬魄刀を構えた。対する一護も聞きたいことが山ほどあるが、今は目の前の強敵を倒すことに専念しなければならないと構える。
――血飛沫が、青空に舞った。

「(聞かなきゃよかった…! いや、そもそも配置から動かなければ!)」

そうすれば、聞きたくもない名前を聞かずに済んだのに。グッと足に力を入れ、真白は頭の中から彼の者を追い出すように走り続けた。あちこちで霊圧がぶつかり、あちこちで霊圧が一つ二つと消えていく。特別可笑しくなんてないのに、真白は何故か笑っていた。――笑っていなければ、気が狂いそうだった。

「っ、」

タンっと屋根を飛び越えたとき、ちらりと視界の端に映り込んだのはあるはずのない紅い花。ああ嫌になる。唐突に見えたそれのせいで、真白の足は屋根を踏み誤り、そのまま地面に落っこちた。

「いやだ…消えて、きえてよ…っ!」

ごしごしと力いっぱい目をこすり、呪文のように「消えて」と呟く。こんなときになんで、と自分に問いかけたが、その答えは分かりきっていた。
地面にうずくまり、白い髪を散らばらせる。頬は濡れていないのに、真白は確かに泣いていた。

「大丈夫かい?」

降ってきた声は、予想にもしていなかった人だった。
ゆっくりと顔を上げ、顔を見やる。

「あい、ぜん…隊長…」

心配そうに真白を見つめる彼は、とても青空が似合っていた。

「どうしてこんなところに…ここは三番隊の管轄じゃないだろう?」
「あ……その、」
「まったく、こんなときにまで散歩かい?」
「え、」

仕方がないとでも言うように苦笑した藍染は、未だ座ったままの真白と視線を合わせるようにしゃがみ込み、手を彼女の頭に優しく触れさせた。大きくて暖かい手がまるで慰めるようによしよしと頭を撫でる。

「そんなに顔色を悪くさせて…警鐘の音のせいかな?」
「えっと…」
「久しぶりだったからね…。心配していたんだよ」
「心配? どうして…」

心底不思議そうに目を丸くする真白に、藍染はくすりと柔らかく笑った。

「元々五番隊に居た君のことを、心配しないわけないだろう?」

眼鏡の奥にある目が、ゆっくりと細まる。それを最後に、真白の意識はプツリと遮断された。