■ 君の名を呼べば

「いらっしゃい、蛭魔さん」
「はぁ?」

「蛭魔さんてばどうしたの? 早く入らないと。外、寒かったでしょ?」
 なんでもない顔で彼女は言葉を続けるが、こちらとしては、到底すんなりとは流せない。

 蛭魔"さん"だと?

 蛭魔くんといつも読んでいたはずだ。
 もっとも、たまにサービスらしく妖一くんとか妖一とか呼ばれることもあり、まあ彼女が呼び方に固執しない方だともわかっていたつもりだ。
 が、蛭魔"さん"とは。 なんだろう。このタイミングでこのチェンジは。
 距離を詰めるどころか開けにくるなど一体どんな心境の変化だ。もしや、付き合いが順調だと思っていたのは俺だけだったのか? しばらく距離をおこうというアピールなのか!?

 混乱する胸の内をひた隠しにして、「なまえ」と呼びかけてキスを仕掛ける。
 躊躇されたり場合によっては避けられるかもしれない、と密かに身構えつつのそれは、けれどいつもと同じく甘く受け入れられた。

「どうしたの? 突然びっくりするじゃない」

 笑いながら見つめ返してくるなまえには、とりあえず拒絶の色は見えない。
 そんなことに内心ほっとする自分が情けない。泥門の悪魔が、こんな小心者だとはお笑いだ。俺だって、こんな自分がいるとは知らなかった。


 だが結局、彼女はずっとそのままで。「蛭魔さん」と呼ばれる度に心を掻き乱されながらも、なんとなく聞く機会を逸してしまい一日が終わってしまった。


 後日。


「おい、ところでなんで突然『蛭魔さん』なんだぁ?」

 柄にもなくびくつく心臓を隠して、タイミングを見計らっていたことすら気が付かれないように、さりげなく話題を振ってみた。たったこれだけのことが、どれほど難しいものだったのか。

「ん? ああ。あのね、こう、新婚さんがさ、旦那のこと苗字呼びするシチュエーションあるでしょ? 田中さんっていやいや、あんたも結婚してるんだから田中だろう!っていう。あれって萌えるなーって思って」
「……はぁ? ……なんだそれ。ってか、それなら『くん』でもよくねぇか?」
「ん。まあそうなんだけどさ。『さん』の方がなんかうぶな感じできゅんとしない?」

 だから今から慣らしてみようかと思ってと笑顔で続けるなまえに俺は……脱力するしかなかった。
 なんだよそれだけかよ。ああ、そうだよこういう女だったよ。いちいち真面目に受け取って悩んだ俺様が馬鹿だったんだ。

「萌とかきゅんとか言うどの口がウブなんだよ。だいたい、狙ってやってる時点でそういうのはダメだろーが」

 悔しいのでせいぜい馬鹿にした顔を作ってからかう様に言ってやったら、見事にむくれられた。
 ああ、なんつーか、そんな顔も可愛いなとぼんやり思っちまう俺は、もう駄目だ。


 結局それでこの件は終わり、後はいつも通りの他愛のない時間が続く。
 尤も、俺にとっては久しぶりの気を張らない遣り取りではあったが。



 まあ、なんだ。さらりと口にされた結婚という言葉に、心拍数が上がったことなどあいつには秘密だ。YA―HA―!!



(2013)
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