■ ・わたしの時間は幾らでしょうか

 カタカタとキーボードを叩きながら、ふと思い立つ。
 ……ああそうだ。蛭魔くんに言っておかないと。

「来週なんだけど、金曜日から日曜までちょっと忙しくなるから……」
「ふーん。覚えとく」

 だから会えないと暗に示すも、背後から返されたのはあんまりにもあっさりとした返事で拍子抜けする。
 過剰に詮索されるのは苦手だけれど、こう食らいついて貰えないのも、それはそれで面白くないのですよ。

「理由とか、気にならない?」
「別に。まあ……おまえが言いてぇなら、聞いてやるが?」

 雑誌から視線を上げてにやりと返す姿に、むっとする私は大人げないだろうか。
 感情通りに顔が歪む前に、さっさと捻っていた身体を戻して、モニターに視線を向かわせる。

「……いいもん、別に。勝手に遊んで楽しんできちゃうもん」

 こうなれば背を向けているため、蛭魔くんから私の表情は見えない。
 なので、せめて多少の意志表示をと、拗ねた声で返してみるのです。ふんだ。意味深な言葉に戸惑えばいいさ。……けど、それっきり反応は無かった。聴こえるのは、ページをめくる音だけだ。

 うーん……なんだろう。初めはちょっと拗ねてみせたつもりだったのに、こうも相手にされていないと、むしろ本気になってしまう。
 怒りだしたら止まれない子供のように、洒落も冗談も無しで無性に腹立たしくなって来てしまう。
 いや、実際、本当に大したことのない遣り取りだと分かっているのだけれど。ささいなことだと分かっているのだけれど。
 放っておくと増す一方の苛立ちを振り切るように、グラフの並ぶ画面を睨んで力いっぱいキーを弾いた。


  ***


「後はここを、こうやって……っと」

 最後の仕上げとして画面全体の微調整を行っていると、机の隅にことりとカップが置かれた。
 そういえば、さっき蛭魔くんが立ち上がったのはいつだっただろう。トイレかなと気にも留めていなかったのだけれど、そうか……これを淹れに行ってくれたのか。

「ほらよ。そろそろ喉が渇く頃だろ」
「……ありがと」

 珈琲の良い香りがふわりと漂い、凝っていた身体をほぐしてくれる。

「あー美味しい。この感じは、右から二番目の赤い缶?」
「残念、ハズレだ。正解は俺が今日持って来た新しい豆、だな」
「あら、また買って来てくれたんだ。いつもありがとう」
「まあ俺が飲みてぇからな。誰かさんはひとり暮らしのくせに、やたらといい道具ばっか揃えてやがるしなぁ」

 使わねぇと勿体無えじゃねーかと言う呆れた口調には、苦笑いしか返せない。
 まあ確かに、学生の一人暮らしで、ミルに数種のドリッパーに、さらにお手軽に楽しむ用のコーヒーメーカーにと(それも多少こだわったものを)揃えているのは珍しい方だと思う。
 しかしそれらは大学入学当初こそ活躍したものの、すっかりそれっきりとなってしまい……こうして蛭魔くんが使うまで、隅で埃を被っていたのだから嘆かわしい。こうしてまた活躍の機会が訪れて、道具達も喜んでいることだろう。
 ……ちなみに、珈琲を飲まなくなった理由は、まあ……他の液体をよく飲むようになったから、だったりするのですよね。黄色かったり茶色かったり透明だったり濁っていたりする、あの、香りのよいほわーんとなる液体がメインになっちゃったからね。

 ミルクも砂糖もないままの珈琲をひと口飲んで、目を見張る。

「あ、これ、ドリッパーで淹れてくれたんだ!」

 美味しいと歓声を上げれば、「当然だろう」と軽く笑って返すのだけれど、その顔が明らかに得意気なのが最高に可愛い。あーもう、こういう所も反則だと思いながらカップに口を付けて、可愛い恋人が美味しい珈琲を淹れてくれる幸せを噛み締める。
 自動で動くコーヒーメーカーは失敗を知らないし、いつだって美味しく淹れてくれる。けれど、これには敵わない。挽きたてということを差し引いても、蛭魔くんの淹れる珈琲はいつもとても美味しい。
 私だって負けない様にと、それなりに気を付けて珈琲を淹れてはみたのだけれど、どうも蛭魔くんのようにはいかないのだ。
 その秘密を探ろうと何度かこっそり観察していたのだけれど、結局わからず仕舞いだからいつしか諦めた。だって、淹れてくれるんだもん。

 美味しい珈琲と目の保養でほぐれたのは、身体だけではない。
 酷使した頭や目や指や肩は言うまでもなく、なによりも心の方もほぐれていく。

 言わなかった言葉が、今ならすんなりと唇をとおる。

「……来週末の用事ってさぁ、オープンキャンパスの手伝いなのよねぇ」

 そう。遊びに行くのでも楽しみに行くのでも無い、たった、それだけのこと。
 意地を張ることすらばかばかしい、ただの用事でありアルバイトだ。

「おう、知ってるぜ」
「そっか……って、へ? 言ったっけ?」

 いや、言ってないよね。確かに教授に声かけられたのは結構前だったけど、あの時は断ったし。
 カードの明細を見て、さすがに不味いわってつい先日慌てて滑り込みで貰った仕事だもん。蛭魔くんが知ってるわけないよね?

「なにを間抜け面してんだよ。ったく、『休講でラッキー』って前に言ってただろうが」
「それは確かに言ったけど、でもだったら尚更、お手伝いとは結びつかないんじゃ……」
「つーか、おまえがさっきから作ってるデータって、それ用じゃねぇのか?」

 ……ああ、そうだとも。学校が用意しているものとは別に、うちの研究室で用意することになったやつだよ。専門分野についての簡単な資料を作っていましたよ。観客のハートをキャッチするように、趣向を凝らしたやつを。だけれど、そんなことは一言も言っていない。

「聞いたんじゃねぇって。……別に覗いたわけじゃねぇが、画面が視界に入っちまったんだから仕方ねぇだろうが」

 なんと。そう言えば、蛭魔くんの視力はやたらとよかったっけ。ついでに、一片の情報から全体を推測する能力も大したものだった。
 ……するとあれか、私が言い出した時には既に、大学があるから週末が潰れることも、その資料を作っていることも、気が付いていたということか。
 なんか、私が完璧に道化じゃないですか。これはこれで、面白くないぞ。

「……つーかなぁ、おまえ、そもそもあんだけわかりやすく書いてて何を言うんだ」

 言われて、伸ばされた指の先へ視線を向け……間抜けな声を漏らしてしまった。
 壁にかけられたカレンダーには、堂々とオープンキャンパスの文字と、集合時間が書いてあるじゃないか。しかもご丁寧なことに日給までメモしていた。

「あー……、そう言えば昨日、忘れない様にって書いた気がするわ」
「な? 先にあれ見てりゃ、確かめるまでもねぇことだろう?」

 なのに勝手に臍曲げるから困ったもんだぜ、と呆れた声に続いてぽんと頭に手が乗せられた。
 おやこれは一体と思う程の時間もなく、細くて長くて筋張っている男の子の手が、私の頭を優しく撫でる。おお、これは何だか照れるぞ。顔が赤くなってしまうぞ。でも止めてほしくないぞ。

「だが、そうだなぁ。突然手伝いに至った理由くらいは、聞きてぇかなぁ」

 あんだけ休み休みって喜んでいたくせにと笑われて、別の意味で顔が赤くなる。

「あー……まあ、休みだったら色々したいこともあったし。でも、お手伝いってね、バイト代出るのよ。拘束時間は短期集中、職場は慣れた場所で、仕事はそれなりににこにこしてあとはちょっと雑用するだけ、って内容でよ? 考えてみればなかなか美味しい案件だし、もともと誘われてたしさ。別に断ることもないかなぁってね」
「バイトねぇ……」
「そうそう。ほら、今更本格的にバイトする程気概はないし……っていうか、この状態でバイトすれば確実に本業に手が回らなくなるし。短期のもさ、探して応募して面接受けてって使う時間を考えると気が進まないし。ってな状態なら、こうやって数日とはいえ効率よく稼げたら嬉しいじゃない」

 さすがに、生活費に充てたくて、なんて正直には言わない。だからこそ無駄に饒舌になってしまう。
 切羽詰まってこそいないものの、現状の家計が楽観視出来ないものであることなど、断固知られてなるものか。
 そんな私の苦しい説明を、蛭魔くんは静かに聞いていた。そして、おもむろに口を開いた。



「なぁ。バイトを探してるなら、いいやつを紹介してやろうか。職場は家。就業時間は空き時間でいい。報酬はまあ、時給換算ってやつだが、ひと月も従事すれば結構な額になるぜ」

 黙って何を考えているのかと思えば、突拍子もないことを言い出すからびっくりする。

「……在宅ワークは興味ないわよ。あと、チャットレディとかその手のことも嫌だから」
「誰が、おまえに他の男の相手なんてさせるかよ」

 あ、そのちょっとむっとした感じの顔、可愛い。
 写真撮りたいけど嫌がるだろうし、せめて心のシャッターを切ろう。ハイチーズっと……よし、目に焼き付けた。

「俺が雇ってやろうかって言ってんだよ。こうやって俺という男に飯食わせたり色々しているおまえの時間と手間に、敬意と感謝の気持ちを足して……金額で表してやる。どうだよ。そこらのつまんねぇバイトなんかより、よっぽど結構な時給になるぜ」

 ああ……至って真面目にこんなおかしな思いつきを告げるのは、どの口だろう。
 いっそ、にやにやと笑っていかにも冗談ですという口調で言ってくれたのなら、笑って済ませてあげられるのだけれど……。おいちょっと、君はいつからそんなに心底阿呆になったのだ。

「……蛭魔くん、つまり君は、このなまえさんとの恋人関係を解消したいという事かな?」
「なっ! なんでそういうことになるんだよ」
「そういう意味にしかならないでしょうが。一体どこに、彼氏とご飯食べてデートしてお金貰う関係があるのよ。そりゃ蛭魔くんはそこらの男よりずっと甲斐性もあるでしょうけど、残念ながらこの若さで高校生に囲われてやるほど、妾(めかけ)願望は強く無いのよ」

 それに、仕事となったら徹底的にこなしちゃうわよ。
 無茶な言い方にも異は唱えないし、お給料分はしっかり我慢して耐えて働いちゃうわよ。キスすら、お仕事だからすることになるわよ。

「妖一くんは、そんな私でいいのかしら?」
「……あー悪りぃ。そういうつもりじゃなかったんだが……まあ、そうなっちまうか」

 視線を逸らして気まずく告げられた言葉は、いつになく素直な謝罪である。ああもう可愛いなあ!
 まったく、脅迫手帳だとか賭けだとか、人を使うことに慣れているのは今更だし別に結構だけれど。
 それにしても時々こうやって、関係の使いどころを見誤るのは頂けないなぁ。

 だからこそ、そんな不器用な君をもっと甘やかしてあげたくもなるのだけれど。



(2014.04.26)
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