| ■ ・彼女がバーに通う理由 手に汗握る試合だったと興奮を語る人々の波の中、赤い目を隠すように帰ったあの日。 改めて、あの子がいる戦場に恐怖した、あの日。 そんな、白秋戦から数日後のこと。 大学を出たその足で、私は銀座を歩いていた。 迷いなく動く足が向かっている先は、小さなビルの地下一階。 少し暗い階段をドキドキしながら降りた先には、一瞬躊躇してしまうくらいに雰囲気のある重い木の扉が待ち構えている。 けれどそこで挫けることなく、えいやと気合いを入れて一押ししてみれば……その向こうは、浮世から離れた、私の大好きな"隠れ家"だ。 「いらっしゃいませ」 にこやかに声をかけてくれるお兄さんに応えて足を進めながら、店内へと目を向ける。 さすがに、夜とは言えない時間なだけあって誰も居ない。 「ご注文は?」 「そうですねぇ……」 *** カウンターに座って、ゆっくりと一杯を楽しむ。 静かなバーテンダーと、静かな客。 誰の声も聞こえない空間に、居心地の悪さは微塵もない。 家に帰れば好きなだけひとり酒が楽しめる環境で、あえてこのお店を選ぶ理由はそこだった。 友達や知り合いや、誰かと飲みたいわけじゃない。けれど、ひとりで飲みたくない。 そんな気分は当然ながら、バーテンダーである彼にもお見通しなんだろう。優しいまなざしに、ほろりと気持ちがほぐれていく。 「折れない意志で勝利だけ見て突き進むって、どんな気分なのかなぁって」 「スポーツをしておられる恋人さん、ですか?」 返された言葉にはっと視線を向けると、カウンターの向こうでにっこりと笑うバーテンダー・佐々倉さんと目が合う。以前、軽く恋人のことを口にした覚えはあるけど……それにしたってもう、ふた月も前だ。 「わぁ、凄い記憶力ですね」 感嘆の声にも得意になることなく、相変わらずの微笑みが返された。……プロだ。 「夏の初めに、ちょっとアメフトが話題になったの、覚えています? 米国と日本の高校生が試合するっていう。異例のテレビ中継とか派手なバルーンとかでも話題になったんですが……」 「……ああ、覚えていますよ。ここに来られる方でも、話題にされている方は多かったですから。確か、体格も経験も勝っている、普通なら勝てないような米国相手に接戦を続けて。もう少しというところまでやってのけたのですよね。ニュースでも見ましたよ」 「よくそんなにスラスラ……さすがです。で、まあですね、私の相手も言っちゃえばあんな感じなんですよ」 一見手の届かなそうな勝利にも貪欲に食らいついて、傷付いても倒れかけても、いや、いっそ倒れてしまっても。 それでも決して諦めず、始終勝つための手を模索し、決断し、実行する。肉体的にも精神的にもタフな、あの少年の事を思い浮かべる。 「しかも実際、先日なんて、物理的な意味で派手にやっちゃいまして。大事な商売道具の腕が骨折ですよ」 骨折した自分を想像したのだろうか。うわぁ、と朝倉さんの眉が動いた。 聞き上手な反応を受け、ついつい私の口も滑りがよくなる。 「……笑えるのが、ただでさえ限界まで疲れてる身体で、その上骨折までしてお手本みたいな満身創痍なのに……それでも、試合を続けたんですよ。折れた腕を庇わずに、それどころか武器にしちゃって。使える身体全部使って、まだ試合に勝とうと諦めなかったんですよ」 いつしか私は、気を抜けば込み上げてきそうになる涙の代わりにへたくそな笑顔を浮かべていた。 *** 2杯目のグラスを置きながら、佐々倉さんが静かに会話を再開させる。 「……その方は、勝たれたのですか?」 「ええ。チーム自体は勝ちました。チーム以外の誰もが驚いた勝利でした。でもって今は、年末の最終戦……優勝争いに向けて、ぼろぼろになった身体を必死で療養中です」 そう、だからここのところ蛭魔くんとは会っていない。 というか、酸素カプセルやリハビリ機器設置の為にうちの家を改装してでも一緒に居る、なんて無茶を言い出した蛭魔くんを宥めて、頼むからうちに来るよりも万全の環境で養生してと訴えたのは私なんだけれど。 「住んでいた時は全然知らなかったんですけど……アメフトって、もともと東より西が強いそうなんです。優勝は毎年おなじ。年度が変わってもメンバーが変わっても、いつだってその関西のチームだそうで」 まあ、たとえ強豪だと知っていても、中学生の私が高校や大学のアメフトを見に行くことなどまずなかっただろうけど。ぜんぶ、蛭魔くんと出会ったから知ったことだ。 「関東大会でも凄く大変だったのに、もっと強い本場の、しかもその中でずっと勝ち続けて来たチーム相手の戦いですよ。……今度こそ、腕の一本じゃ済まないかもしれません」 「……それでも、勝利を得るため突き進んでおられると。立派な方ですね」 「それも、あの人だけじゃなくてチームの皆が。ええ……凄いことですよね。で、私はそれを、輪の外から見ていることしか出来ないんです」 「でね、そんな風に傷だらけ泥まみれで戦う姿を、見ていてとても辛くなる時があるんです。……でも同時に、困ったことに、そんな状態でキラキラと楽しそうにしているあの人が、私も結構好きなんですよぇ」 勢いのままふにゃぁとカウンターに突っ伏しそうになり、ごめんなさいと慌てて背筋を伸ばす。 幾ら居心地がいいからって、酔っぱらいみたいな行動はマナー違反だ。しゃきりと背筋を伸ばした耳に、朗らかな笑い声が聞こえてきた。 「あ、ちょっと、笑わないで下さいよ」 くすくすと笑う佐々倉さんを軽く睨めば、失礼しましたとやっぱり笑い声のまま返される。 もう、と膨れるしかない私に、佐々倉さんは楽しそうに、そして優しく続けるのだった。 「ではお詫びに、次は私にお任せいただけますか」 *** 3組目のお客さんが入って来たのを合図に、そろそろおいとましますと腰を上げた。 扉を押した私が今度は笑顔だったのは、言うまでも無くバーテンダーの佐々倉さんのおかげだ。 静かで暖かくて、疲れた身体とこころをそっと休ませてくれる優しい止まり木と……そんな彼が選んでくれた、3杯目と4杯目。 笑ってしまったお詫びにとお茶目な顔で出されたのは、ただの一杯のカクテルでは無く、添えられたエピソードもグラスの味も、優しい気遣いと祝福と応援に彩られたものだった。 2杯目までのオーダー内容を踏まえ、3杯目、4杯目と巧みに展開された物語と込められたエール。 そして、バーテンダーの手腕に身を任せて、普段とは別の意味でお酒を楽しみ吸収する時間。 それはただお酒を飲んだだけなんてとても言えないくらいに、濃くて優しい夢のような現実だった。 「さすが、『神のグラス』……ね」 増えてきた背広姿の間をすり抜けながら、初めて銀座でお酒を飲んだ日のことを思い出す。 バーというものの扉を初めてくぐったあの日は、とても寒くて雪が降っていた。 右も左も分からないまま教授に連れられたラパンで出会ったのは、「神のグラス」と呼ばれる彼だった。 もっとも、その時はバーのお酒にそれ以上特別な何かなど感じることもなく、ただ美味しいお酒だと思っただけなのだけれど。 今日は僕と一緒だったけれど、今度は君ひとりで行ってみればいい。なぁに、あそこなら若い子ひとりでも大丈夫だよ。 え、お酒は家でも飲めるって? ……そうだなぁ、まあ、そうなんだけれど。 うーん。……じゃあ例えば、忙しくてどうしようもないとき、寂しいとき、悲しいとき、そんなときに、試しにあそこへ行ってごらん。なぁに、君ならきっと、上手に魔法にかかれるよ。そう、特に……今はなんてったってあの「神のグラス」も居るんだからね。ふふふ。 こんな言葉があるんだ。「明日を生きる気力が必要なとき、よいバーテンダーを知っていることが、きっと助けになるはずさ」ってね。まあ、僕が好きなのがラパンってことだけど。君は君に合うバーを、ゆっくりと探してみればいいよ。 正直、その時は教授その言葉の意味はよくわからなかった。 確かにそこらの居酒屋で飲むよりはずっと美味しかったけれど、でも別にわざわざ……と思ったのも確かだったし。けれど、その後にぼそりと教授が呟いた言葉に、私の心はもっていかれた。 「ああ、でも。先代が立っていたカウンターに、君を連れて行ってあげたかったねぇ……」 この教授にそこまで言わせるだけのものが、その先代というバーテンダーにはあったのかと、そこにこそ私は驚いた。 そして結局ある日、ふらつく心でラパンの扉を押して……見事に佐々倉さんの魔法にかかってしまったわけだ。 *** 「あの人にもこれを飲ませてあげたいな」 お任せの3杯目、険しい道を望んで進む、不屈の精神を持つ高潔な挑戦者に因んでいるという神話の名を持つカクテルを眺める私に佐々倉さんは穏やかな顔でこう言った。 「ぜひ、お越しください。いつでも今日と同じ一杯をお出ししますから」 「……それは、数年後でも?」 「ええ、もちろんです。……ですので、どうかもう数年はご遠慮くださいね」 悪戯っぽいウインクに、私も思わず噴き出した。 「相手の年齢、言いましたっけ」 「さあ、どうでしたかねぇ」 カウンターの向こうのバーテンダーは、相変わらずにこにこと笑っていた。 (2014.04.30) まさかの「バーテンダー」ネタ。単発の「さようならを、私から」と対にしたつもりです。舞台はイーデンホール。 ↓ご存じない方に向けて補足 佐々倉さんという26歳のバーテンダーは、お客様に寄り添い、魂の癒しを与える究極の一杯を提供することに全身全霊をかける、確かな実力とプロ意識を持つ青年。その一杯は「神のグラス」として疲れた人々の魂を癒し続けます。 海外で実力を認められて帰国したところから始まり、ラパンで少し働き、Ber東山にヘルプで行き、そしてイーデンホールを任され、ホテルのバーに拠点を移し、そして……という全21巻。おすすめ!(イメージは原作版) [ 戻 / 一覧 / 次 ] top / 分岐 / 拍手 |