■ ・昨日も、今日も

「ねーねー蛭魔くん、ちょっとパソコン診てくれない?」

 最近何だか調子悪いみたいでね。
 よく止まるし切れるし、そもそも電源が入らないことも多々あるし。あとなんか入ってるはずのソフトを認識しないこともあってさ。あと……ああ、そうだ。何をしててもファンが回りっぱなしなのも気になるのよね。
 そう言って愛用のノートパソコンを指させば、億劫そうに蛭魔くんが腰を上げた。

「……しゃあねぇな。ったく、どうせ変なフリーソフトでも入れたんじゃねぇのか?」
「うわ酷いなぁ。別に、特になんにもしてない筈なんだけどねぇ」

 私の返事など気にしていない様子で、蛭魔くんは手をマウスに置いてせっせと動かし始める。
 次々画面を開いては、何かを確認して閉じ、また次に移って……うわー、そんな画面見たことないわ。何をしているのだろうとちらりと覗き込んだ先には、英文字となんかのコードがぎっしり並ぶさっぱりわからない画面が開いている。
 そしてどこを見ればいいのだろうと視線を動かした途端に、そのページは別の画面に切り替わる。替わった先もやっぱりよくわからない。
 見ているだけで頭が痛くなってきそうだと溜息を吐いた私は、見ても見なくても結局同じだわと諦めて、そっと蛭魔くんから距離をとった。

「おい、オーナー様よ。人にやらせて自分はどこへ行くつもりだ?」
「そんな言い方していいのかしら? 頑張ってくれてる蛭魔くんに、食後の珈琲を用意しようかと思ったのに。ねぇ、豆と淹れ方にリクエストはある?」
「あー……いや、紅茶か緑茶にしねぇか。珈琲は後で俺が淹れてやるから、待ってろ」

 うわ。その提案は嬉しいけど、なんか複雑だなぁ。
 どうせコーヒーメーカーにほり込んで終了とか思ってるでしょう。そりゃあ珈琲は断然、蛭魔くんが淹れる方が美味しいんだけどさぁ。
 いやまあ、逆に、お茶関係は断然私の方が美味しく淹れられるってのも、自意識過剰じゃなく事実なんだけどさぁ。
 ……ちょっと面白くないなぁと思う事は思うけれど、でも、私だって同じ飲むなら確かに美味しい方がいい。モニターを覗き込む背中に向けて、じゃあ紅茶にするねと声をかけた。

「サンキューな」

 うわぁ、蛭魔くんが素直だ!
 返ってきた優しさ溢れる返事にきゅんとするどころか正直驚いた。もっとも、いつでも結構、素直ではあるんだけど。でも、そういえば夕飯の時もいつも以上に褒めてくれたし、さっきの珈琲のことだって、聞き様によっては甘いと取れなくもない。

 あれれ、ひょっとして。私って最近、べたべたに甘やかされている……?
 一旦その気になってしまえば、熱くなる頬をどうにもできない。照れ隠しの鼻歌を口ずさみながら、浮かれる気分のまま台所へと駆け込む。背中越しに飛んできた声ひとつで、こんなに気分が浮上するなんて。
 まったく、恋する乙女というものはなんと単純なものなのだろう……なんて寒いことを考える浮かれた自分が、嫌ではない。

 燃え上がるような、激しく身を焦がす恋ではないけれど。
 でも蛭魔くんといると、ちょっとしたことがこんなにも楽しくて、こんなにも嬉しい。


  ***


「どう?」

 空になった2杯目のコップを下げながら診断結果を聞いてみれば、難しい表情の蛭魔くんと目が合った。

「なまえ、悪いことは言わねぇ。諦めろ」
「……はい?」

 ぱちりと瞬いても、舌打ちでもしそうな顔は変わらない。ていうか、うわぁ。その苦渋って顔、凄く素敵じゃないの。どうしよう見れば見る程に色っぽい……ああ、写真撮ったら怒るかな。怒るだろうな。

「中もおかしいが、外もおかしいぞ。ざっと見たが、症状自体は入れ直しで解決するだろうが……外側までこれじゃぁなぁ。画面表示が消えるっていうのは、十中八九、配線がどっか逝ってるからだぜ? まったく、どんな使い方してんだか。元のスペックもそこまで高いってわけじゃねぇんだし、こんな糞PCなんざ、とっとと諦めちまえよ。下手に、OS入れ直してどうこうってしたところで、その手間が勿体無いって有様だ。……しかもお前、キー自体もかなりへたってるじゃねぇか」

 そう言って彼が指さすのは、押し方にコツが必要になったキーである。
 普通に押しただけじゃあ勿論反応しないし、最近はコツ通りにしても反応しないことがある。ちなみに、そのキー以外にも3ヶ所くらいこうなっていたりする。

「あーまあ、結構使ってるから」

 ひぃふぅみぃと指を折る私に、溜息が突き刺さる。

「新しいのを、買え。今ならこれより安くて速い機種なんざぁ、幾らでもある」
「いやぁ、その……いっぱいありすぎて選ぶのが面倒って言うかね」
「ああ? んだよ。精米機選んだりコーヒーメーカー選んだり、家電選びにゃ自信があるんじゃなかったのか?」
「……パソコンとかは苦手なのよ。あと、HDDレコーダーとかもわけわかんないわね」

 ああいう、何が出来て何ができないのか、そういう機能や各機種の差異が外から見てさっぱりわからないものはどうにも苦手だ。スペックだなんだと羅列される数字と略称をどれだけ見ても、全くイメージがわかないんだもん。
 そんな泣き言を聞いた蛭魔くんは、先ほどよりもずっと盛大に、たっぷりと間を持たせた溜息を吐いた。

「まぁ、この中身見りゃ、お前がどう使って来たかも想像がつくがな。どうせあれだろ。こいつの設定も自分じゃしてねぇだろ」

 ご明察。機種選びも設定も、当時付き合っていたIT系の会社員にしてもらったし、後のメンテナンスも適当に誰かにお願いしてきた。その口調では、購入から現在まで、それこそ一から十まで他人任せだったことなど、蛭魔くんには全てお見通しのようだ。

 いつもならこういう時は、やれやれと溜息が返ってくるのに……今夜は何故か違う展開を迎えていた。
 だっていつの間にか、蛭魔くんの顔からは呆れの表情も笑みも消えている。

「で? 今はそういう男がいねぇから、この俺に頼ろうってか?」
「えーと、いや、蛭魔くんこういうの詳しそうだし、ぱっと見てもらって直るようならいいなぁと思ったくらいで……」

 その口調に険があるように感じたのは、気のせいとは言い難い。
 とはいえ、すかさず口を出た言葉は、単純に調子を合わせた適当な返答ではもちろんない。

 言葉通りに、それ以上の下心は本当に無かったのだけれど……でも、あるように感じられたのなら、完璧に私が悪いだろう。うわ、どうしよう怒らせちゃったか。なんて思いながら、突然の冷たい空気に混乱している頭を、精一杯に働かせる。

 ああもう、とりあえず、このパソコンは諦めることにして……そうだ、新しいのは週末にでも電気屋の店員さんに相談しよう。今大事なのは、すでに瀕死のパソコンではなくて、なぜかとっても気分を害しているであろう蛭魔くんで間違いないから。

「ごめんね、診てくれてありがとう。……じゃあまあ、そんなにあれこれ使うもんじゃ無いし、次の土曜にでも買いに行くわ」
「へーえ、誰とかなぁ?」

 ああもう、だからなんでそんなに怖い顔するの。っていうか、なんで誰かと行くのが前提になっているのだ。

「ごめんって。勿論ひとりでだから。ちゃんと行くから。……まーあれだ、レポートとネットくらいしか使わないし、店員さんにそう伝えて、出てきた中からキーが打ちやすいのを選んだらいいんでしょ?」

 上滑りする口は内心の焦りを悲しい程に表している。
 そして、向けられるのは相変わらずの冷たい視線……ああ、痛い。「焼きもち焼かないで」とか「蛭魔くん大好き」等、直接的に蛭魔くんの機嫌を取ることも考えないでもなかったけれど、さすがにやめた。

 言ってみて機嫌が直ればいいけれど、そうでなかったら確実に今度はそっちに怒りが向きそうだから。だったら、とりあえずパソコンの話題は終わらせてしまおう。
 結果として、この発言は正解だった。

 挫けそうな気分になりながら、「大丈夫大丈夫、ちゃんと店員さんに話しかけるから」とか言っていたら、いつの間にか風向きが変わっていた。

「はぁ? なんつー買い方だよ……なまえ、一応聞くが予算は幾らで考えているんだ」

 ひとりで買い物くらい出来るもん!という私のアピールを、その道のプロとしては見過ごせなかったらしい。けど突然そんな質問されても困っちゃいますよ。そんな、買い替え自体が今出たばかりの話しだってのに。
 君と違って、日頃から新機種とか最新型とか情報収集してないし。そもそも、最近のパソコンって幾らくらいなの?

「とりあえずこれみたいな大きさのノートでそこそこ快適にネットが出来てオフィスが使えたら別にいいし……うーん」

 まあ、5万以内で収まったらいいなぁとかそんなくらいしか……。
 乏しい知識をフル動員してしどろもどろに話す姿は、きっと蛭魔くんの瞳にはさぞ滑稽に映っているんだろう。それが嫌ほどわかるから、極力目を合わさないようにして話す。いつもだったら蛭魔くんから目を逸らすなんてもったいないことしないのに。

 こんな姿が余計に情けなく映ることも、分かっているけどさ。いっそわかりやすく馬鹿にされたり軽口を投げかけたりされる方が、開き直れる分遥かに楽なのに。蛭魔くんだって知ってるだろうに。なのに、許してくれない。
 今だって私が泣きたい気分でそんなことを考えているのに、蛭魔くんはただ黙って聞いているんだから。

「……ふぅん。まあ、いいんじゃねぇの」

 そう言って立ち上がった蛭魔くんは、私の肩に手を置いて交代だと告げた。身構えていたよりずっと優しい力で、そのまま椅子に座るように促される。

「この話は済んだからな。……今度は、旨い珈琲を淹れてやるよ」

 台所を借りるぞと片手を上げて部屋から出て行く蛭魔くんはもういつもの蛭魔くんで、心底ほっとして胸の中の嫌な感じを全部吐き出す思いで息を吐く。
 そして一人残された私は、無意識に額に手を当てて……ぎょっとした。慌てて背中を触れば、いつのまにか背中の方も、額同様にじっとりと汗ばんでいるではないか。

「……嘘。うわぁ、やだ、私ってここまで蛭魔くんに弱かったっけ?」

 片手の指ほど年下の少年相手に、気まずさを通り越して冷や汗とは……。
 ああ、でも、さっきのは本当に恐かったもんなぁ。一体どこがどうポイントになったのかはさっぱり分からないけど、わりと早く機嫌を直してくれて本当に良かった。あの調子でじわじわ責められたら、いくらおねーさんでも泣いちゃうかもしれない。
 とりあえず、あの子に本気出されたら……情けないことに、口でも頭でも勝てないだろうってのは目に見えてるし。かと言って、ヒステリーを起こしてみてもなぁ。蛭魔くんにもういいって言って帰られたら、惨めな上に泥沼展開になるだけだし。

 あーもう、蛭魔くんが折れてくれてよかった。自制してくれる子でよかった。
 5つも年下の男の子相手にこうやって息を吐く20代ってのは、とても客観視したくない姿だけど。でも、惚れちゃったんなら仕方ない。


  ***


 その後、珈琲を片手に和やかな時間を堪能できたことで、すっかり油断していたのだ。
 じゃあねと蛭魔くんを送り出した私は、翌日のことなど予想もしていなかった。
 本当に、迂闊なことに、全く想像もしていなかった。


 そういえば、私の恋人は「あの」蛭魔妖一だったのだ。



(2014.06.20)
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