どしゃぶりの真ん中で

その日の朝きた連絡に自然と安堵が漏れた。理由は単純で、よるさんにどんな表情を向ければいいのかわからないからだった。
考えてみれば貸しを全部返すために付き合ったのに、これじゃ逆だ。会いたいような会いたくはないような、混沌とした感情。悶々としたまま、指定位置で五条さんを待つ。見慣れたナンバープレートが目に入り、運転席に座る伊地知さんと目が合う。あ、と俺が漏らすより早く、後ろのドアが開き、やっほ〜とかいう場違いな軽い挨拶が聞こえてきた。またかよ。反射的にそう思ってしまった。当然、顔には出さないが。
「あはは、今日も冴えない顔だね」
「……よるさんこそいつも通りの完璧な愛想笑いですね」
「いうようになったじゃん」
ふは、と妙な笑い声をあげるよるさんを無視して目的地へ進む。
「噂に聞くクソ生意気な恵ちゃんになったね」
「……どっかの五条さんの話はいいんですよ。今日は簡単な任務なんでしょ?」
「まあね。今日は墓の見回り、もうお盆だから……普通に変質者も多い場所だから恵ちゃんが来てくれて助かるよ」
電柱に夏祭りのチラシが張られている。今日の日付だった。任務が終わる時間はわからないが、巡回なんてすぐ終わる。
先を歩くよるさんの背中を見て、夏祭り、と言い出しかけて、口をつぐんだ。この人と夏祭りに行ってどうする気なんだ、俺は。ガラにもなく、斜め後ろからよるさんを盗み見た。
正直、五条さんに騙されたと思っている。連絡がよるさんではなかったから安心したが、五条さんは自分が行くなんて一言も言っていなかった。
どんな顔をして先輩に会うのが正解だったのか。もう会ってしまったからには仕方がない。ないが。
「おーい、恵ちゃん。ぼーっとしてるけど平気そ?」
「……別に」
「別にって顔じゃないから言ってんだけど……ま、いっか。そっちも呪いの気配はないね、よかったよかった」
橋と墓地の周辺、夏祭り会場近くの高校。何も呪いの気配はない。
「夏祭りの帰りで殺されるような人は出ないといいですね」
ぽつり、鼻先に水を感じた。仰ぎ見れば透明な雨音が一気に降り注いでくる。洒落にならない振り方に思えて、よるさんの手を掴み、走り出す。何かを相談している場合じゃなかったから、だから手を掴んだ。斜め前を走るとよるさんが何をしているのか何もわからない。
俺は俺のことが何一つわからなくなっている。

庇を叩きつける激しい雨の音。心臓から迫り上がるようにして全ての内臓が暴れている。
「あはは、恵ちゃん、足速いねえ……」
必死に飛び込んだどこかの商店の軒先で、よるさんが制服についた細かい雨粒を払う。
「無理矢理引っ張ってすみません」
「いーよ、そんなの。歩いてたらもっとびしょ濡れだったし」
「…………よるさんはなにがしたいんですか」
頭をよるさんの肩に乗せた。まるで縋りつくように。子供のようでみっともない。顔を見られたくなかった。
「なにがって?」
唇を噛む。ここのところずっと空回っているような気がする。何をしていても罪悪感が、背骨の髄まで染み込んでいる。精巧なカラクリ世界を眺めて、ああでもないこうでもないと言っているような、孤独感。
「顔、伏せてちゃ何もわからないよ。わたしは君のお姉さんじゃないから」
「…………家族だからって分かり合えるわけじゃないでしょ」
「わたしは、わたしのしたいことをやってるよ、だから、ほら、こっちを見て。ね、恵ちゃん」
肩を押されて身体をあげる。俯いていた視線がよるさんの色素の薄い目の中に落ちる。茫然とした俺。ね、よるさんが囁く。数ミリ先。そう、俺の口の、ほんの数ミリ先で器用に笑う。吐息が重なった前髪にかかる。

それから、どちらからともなく唇が触れる。ファーストキスだった。終わってから、気がついた。どうかしている。よるさんが閉じていた目を開ける。
「恵ちゃん」
よるさんが掠れた声で俺を呼ぶ。
さっきまでこれで任務が終わりだね、って話をしたばかりだった。五時四十五分。聞き慣れたチャイムを聴いて、よるさんが懐かしい、と口にしたそれだけだった。
「…………すみません、今のは忘」
最後まで言うつもりだったのに、何も言葉にならなかった。原因は単純で、口が塞がっていたから。俺よりもワントーン白い肌。黒い睫毛。花の匂いと化粧品の匂い。
「……忘れられなくなっちゃったね」
薄く青が伸ばされた空に、雨を含んだ灰色の雲が低く立ち込める。淡い影を背負うよるさんが、微笑む。確かに、忘れろなんて、無理だった。
「よるさん、」
ざあっとバケツをひっくり返したように雨が降ってくる。酷い雨。
雨粒が邪魔だ。よるさんの手をとって近くの軒先に飛び込む。濡れた制服も重たい革靴も、湿った前髪もどうだっていい。津美紀のことを思い出さなくてよかったのを楽だなんて思う俺はどうかしている。
キスをしたのは俺からで、理屈が思いつかない。でも、この人だって俺にキスをしてきた。だから。でも、別に。
こうやって肩を掴んで軒先の下に雪崩れ込めば、想像よりずっとこの人は華奢だった。
お互いの額が触れ合いそうなほど近い。瞬きするだけで緊張した。
「夏祭り、今日だったんですね」
「こんな雨じゃ中止だね、残念」
遠回しに断られた。それはきっと錯覚ではなくて事実だろう。そうですねと相槌を打つ気にもなれなくて、無言で壁に背中を預けた。雨が地面で跳ねる音だけが聞こえる。
「雨宿りしていきますか、ここ喫茶店みたいですけど」
「どうしようか」
沈黙。何か言わないと、終わってしまいそうだった。濡れたよるさんの前髪から水滴が膨らんで落下する。幾度も。それだけのことが耳の裏まで心臓と同じく拍動を繰り返す。
「よるさんて雨女ですか」
直視できなくてそんなことを言った。よるさんが恵ちゃんと俺を呼ぶ。
「もう一回、しない?」
「そうですね」
色気のない返事をしてそのまま唇を重ねた。舌が絡む。渋い紅茶の味。キスをした。キスをされた。たった二回の接触に脳が埋め尽くされる。おかしくなりそうだ。それでもこのまま、よるさんを帰したら二回のキスに意味がなくなる。よく見たら、よるさんの耳から首が赤いこととか、リズムの狂った呼吸音だとかそういうところばかり視界に映り込む。
「雨女ってめでたい時に雨が降るとかそういうことだよね。……どうだろう、気にしたことがないな」
「まあどうせ迷信ですけど」
「呪術師だし迷信だって頭っから否定するのはよろしくないんじゃない?」
よるさんの前髪に手を伸ばす。人の髪に触るのなんて初めてだった。他人。そう、所詮俺とこの人は他人だ。拒否されたら、そうしたら、今日を無かったことにしよう。指先が濡れる。濡れた前髪を横に流す。
「あのさ恵ちゃん、言おうか迷ってたんだけどさ」
よるさんは悪戯が成功した時の子供みたいに笑う。俺の唇に指を押し付ける。それから何かを拭うそぶりをみせた。
「口紅、移ってるよ」
この人のこういうところが気に食わない。余裕ぶっているところ。年上だという理由だけで主導権を握る。けれど、長めの前髪がなくなって額がむき出しになると表情も年相応に見える。呪術師には見えなくて、ただのひとつ年上なだけの食えない女だ。一つ年上なんて津美紀で慣れているはずなのに。
「もうちょっとこっちにきた方が良くないですか?下手なことすると風邪ひきますよ」
「馬鹿だから風邪ひかないとか言わないんだね」
「俺がそこまで無慈悲な人間に見えますか?っていうかそんなこと言うの五条さんだけですよ。好意ぐらいごちゃごちゃ言ってないで受け取っておいてください」
「……ありがと」
目を背ける。笑っているだろう。気がついたらよるさんはいつもの愛想笑いなんてしてくれなくなっていた。肩と肩がふれあっている。そこから体温が流れ込んできて、ただでさえ暑いのにもっと暑くなってどうすんだろう。
目の前を車が通り過ぎる。速度をそのまま水たまりに突っ込んで水飛沫を上げた。容赦なく制服のスラックスを濡らした。
「あはは、恵ちゃんもわたしもずぶ濡れだ」
濡れた服を引っ張って笑う。笑う気になんてならなかった。でもよるさんの手を掴む。多分本当は今すぐでも喫茶店でもなんでも室内に行った方がいい。
「ウチ寄って着替えて行った方がいいですよ」
下心だった。提案じゃなくて、もうそう決めていた。この下心がどういう感情からなのかわからない。
「あは、随分と大胆だねえ……」
「さっきディープキスかましてきたくせになに言ってんですか、ふざけてます?」
「酷いな、さっきまでノリノリだったのに」
わからないことばかりだった。責任転嫁だとわかっていても全部を雨のせいにしたくなるぐらいには、俺には何もわからない。わからないことを盾にするには好きじゃない。握り返された手。津美紀、いいわけのように繰り返す。

やましいことなんてない。ただ、ひとりになりたくなかっただけ。は、乾いた笑いが込み上げる。悪夢の回避のおまじないか、あの人は。

22.12.23