いつかどこかの心音

知らない番号からの電話だった。いつもなら出ない。でも、今日は雨で特に予定はなかったから電話をとった。低気圧のせいか少し頭痛がする。雨の音がうるさい。
「もしもし、どちらさまですか」
『ああ、もしもし。恵ちゃん?』
「…………どちらさまですか」
『わかってるくせに〜!わたしです、わたし』
「そういうのは間に合ってるんで。じゃ」
通話を終了する。すぐに同じ番号が表示された。十三桁の数字を眺めても途切れない着信音に観念して応答する。
『うっわ、マジで切るんだね呪術高専のよるです。この前言ってたことお話ししようと思うんだけれど、気の迷いじゃなかったら駅まで来てくれない?』
「雨ですよ」
『だからだよ。よかったらコーヒー飲まない?駅中のコーヒーショップでよかったらだけど』
手元に置いた時計を掴んで時刻を確認する。午前11時23分。
「俺、飯がまだなんですけど」
朝も昼も、と付け足す。電話口で彼女が勿体ぶって笑った。
『いいよ、この当たりでもちゃんと食べれるところあるし』
「……わかりました、駅ですよね?準備してから向かうのでちょっと待っててください」
静かで虚しい休日は終わる。それでもまだ雨脚は変わらない。「わかった」あの人……先輩の返事を聞いてからすぐに切る。
向こうのペースに乗せられてやんの、脳内の五条さんが俺を揶揄う。うるせえ。吐き捨てて、鍵とスマホをポケットに入れた。
想像していたよりもちゃんとした場所で、ひとまず胸を撫で下ろした。ビニール傘についた水滴を振り落とし、まとめる。「恵ちゃん」と厄介な呼び名が耳に入ってきて、普通に顔が歪んだ。不快な原因なんて馬鹿みたいにある。まず、公共の場で恥ずかしい呼び方をされたということがひとつ。どこに行ってもこの人はこうであるという事実がひとつ。最後に、どうせロクでもない用件だろうにこうやって会いに来ている自分がもうひとつ。
「…………どうも」
「こんにちは。時間的にちょうどいいし何か頼む?」
「……変なものがでないなら」
先輩は俺を興味深そうに観察しながら、メニューを手渡した。ラミネート加工されたメニューが、店内の照明を反射する。つるつるとした表面を視線で追いかける俺に、先輩が「知り合いの術師さんが連れてきてくれてさあ」と語り出す。
「すごくグルメな人だし奢ってくれたしマトモだしすごく格好良かったんだよね」
「……七海さんですか?」
「あ、そうそう。そうか、知ってるんだね。あの人すごく人間としてできてるよね〜」
思わず視線が先輩に向かう。目の前に座っている彼女が、へらへら笑う。目があって、彼女の月のような色をしている瞳が俺を正面から映す。障害物はなかった。
「アンタでも人間としての価値とか考えるんですね」
「恵ちゃんはわたしのことなんだと思ってんの?」
「身勝手な呪術師」
あははは、彼女が笑う。愛想笑いを貼りつけて、下手くそなそれらしい声を上げて笑う。恵ちゃんって、と彼女が何かいいかける。それを聞きたくなかったから「ひとついいですか」と声を上げた。先輩は首を傾げる。
「なんでちょっかいかけてくるんですか」
「あは、鬱陶しいって?」
「わかってるなら必要最低限で済ませてください」
俺の言葉には答えず、先輩は雨で濡れる窓から路面を眺めた。雨粒がひっきりなしに窓ガラスを叩きつけるから、見えるものなどあってないようなものだった。
「……わたしは、人の世話焼くのが結構好きだったんだって、思い出したの」
「はあ」
「そんなことよりさあ、君って放っておいたらサラッと死にそうだし、年上の助言は聞いておくものよ」
「高専はアンタみたいな先輩ばっかりなんでしょうね」
自分の言いたいことだけをいう人は面倒だ。いくら五条さんで慣れているとはいえ、ストレスには変わりない。高専に入ったらこんな先輩ばかりかと思うと今から気が重たかった。
「わたしなんて高専で見たらマトモだけどなあ」
「冗談も休み休み言ってください」
「えー。これは本当なんだけど……」
不満そうに口を尖らせるが俺はそれを無視して、呼び鈴を押す。わたしも押したかった、と彼女が呟く。ガキか。
「アンタがいい先輩やってるの想像もつきませんよ」
「わたし達のひとつ上の代だってボンクラだけど。わたし達の代が可愛く見えるくらいに」
「ボンクラなこととアンタが面倒くさいことに大きな差はないですよ」
納得しない顔で「そうかな」と口にする彼女に被せるように「そうですよ」と答えた。
「まあいいじゃん、いいじゃん。つまり、特別だから助言をあげてるわけ。恵ちゃんみたいに面白い子とはなかなか出会えないからさ」
この人は正気か?俺の不審を受け取ったのか、先輩は俺に彼女の飲んでいるグラスを差し出す。赤いストローがくるりと一回転した。
「目的は餌付けってことにする?」
「より悪いです」
手の甲を弾く。
「あっ、今の恵ちゃんネコみたいだったよ」
「……人を揶揄うのも大概にした方がいいですよ。そのうち夜道で背中とか刺されても知りませんからね」
「あはは!呪術師なんてアングラな職種に今更そんなアドバイス〜?」
ようやくやってきた店員に、一番高いものでも頼んでやろうかと思った。が、先輩の表情は薄っぺらい愛想笑いだけで、それで剥がせるとは思えなかった。だから、俺は大人しくプレートを注文した。



「これ何か意味あったんですか」
先輩は「ないよ。趣味かな」と答えた。彼女が紅茶を一口飲む。
「ついでですけど、いつまで付き合えば良いんですか」
彼女の手が止まり、満更でもないんじゃん、と茶化す声が帰ってくる。テーブルの下で足を踏んだってよかったが、そんなことをすればさらにガキだの素行不良少年だの揶揄されるのが見えた。短い舌打ちで感情を発散させる。
「……じゃあ、プラネタリウム」
「プラネタリウム」
なんでよりによってそんな場所なのか。
「そ。ちょっと気になってて。天体観測とか好き?」
否定する理由もないが肯定する理由もない。ふと津美紀のことを思い出して、手のひらを強く握りめる。
「いや俺は別に詳しくはないです」
「へえ」
「天体観測をプラネタリウムにする理由はなんですか」
答えはない。捲し立てるように言葉が溢れる。嫌悪感。プラネタリウムを憎むわけじゃない。この人が憎いわけじゃない。恵。さっきまで忘れていたくせに、今になって津美紀の俺を呼ぶ声が聞こえる。
「普通に天然の星をみればいいじゃないですか。わざわざ金払ってまで作り物を見たいと思う感情が理解できません」
「うわ、偏屈だね。現代生きにくそう」
「……そうですね、現にアンタみたいなのがいるんでストレス溜まりっぱなしですよ」
尖った言葉で彼女の様子を伺うが、眉をピクリとも動かさず、じゃあ、と別な言葉を繰り出す。あ、多分今からクソみたいな話を持ちかけてくるな。
「今から近隣のプラネタリウムまで行くのと、東京の排気ガスに邪魔されない田舎まで行くの、どっちがいい?」
ここまで当たってほしくない予想もなかなかない。先輩の目に映り込んだ俺の表情は、面倒くさい女に厄介な二択を突きつけられた不快さに歪んでいた。
「それ、食べ終わったら行こうか」
「…………借りは借りなんで、アンタが行きたい方に付き合います」
「恵ちゃんってモテるでしょ」
「放っておいてください。心底どうでもいいし今は関係ねえだろんなこと」
「褒めたのに」
最後の一切れを口に入れ、すっかり氷が溶け切ってただの冷水に成り果てた水で流した。


狭い空間、天井に貼り付けられる天体。デタラメに線をひいたものから、具体的な形に変わる。漢字から象形文字へ。漢字ドリルのコラムにあるくだらない進化体系のことを思い出した。解説役の女性がアナウンスを続ける。
プラネタリウムは瞼の裏に似ている。弾けるような光も、中途半端に傾いて重力を測りかねる身体も。ほら。俺の声でも、隣の先輩ではない声が頭の中でささやく。津美紀の声。星座早見盤を握る津美紀の幼い手がフラッシュバックする。オリオン座はわかるよね。確か、あれは姉貴ぶった、少し余裕のある声だった、ような気がする。
天球が明るくなる。砂時計を模るように線で恒星が繋がれる。オリオン座。解説が何かを言っているような気がする。でもそれは俺の中に何一つ積み上がらない。
薬品臭い部屋で、点滴に繋がれ死んだように眠る白んだ津美紀の青い口が、恵、と動く。音はもうわからなかった。瞼を強く瞑る。光が飛び散った。



赤く暮れかかった空を眺め、さっきのあれは所詮偽物だ、と感傷を切り捨てることができた。俺がいまどんなに後悔しようが、ここで津美紀を想おうが、ああなってしまったことは夢にならない。世界は俺だけに都合よくできてなどいない。考えていると、自分がいまどこにいるのかがわからなくなる。ベンチに腰掛けている。なにもおかしくはない。
頬に冷たいものがあたる。水滴がついて煩わしい。
「…………なんですか」
「寝てたでしょ。しかもうなされてた。どーせまともに寝れてないんでしょう」
「……ちゃんと、寝てます」
ペットボトルをうけとり姿勢を正した。今すぐ飲もうとは思えなくて、ミネラルウォーターのラベルを親指でなぞる。透明な水を通して見る世界は不格好に湾曲して、地面を歪めるだけだ。全部が目に出たらめに映る。指が痙攣するように震え、ペットボトルのなかに小さな波が立つ。それに合わせて、リノリウムの簡素な床に淡い水の陰が生まれた。浅瀬のようだった。
「ちゃんと、眠ったほうがいいよ」
視線が合う。先輩がしゃがみ込んで俺の方を見つめる。ここまで間近で彼女を見たのは初めてだった。そもそも、異性とここまで顔を近づけることも今までなかった。それでも、心臓は静かだったし、明瞭な思考回路を放棄した頭は、ただ目の前のある月のようで、月ではない紛い物を眺めていた。
黙った先輩の指が俺の目の下をなぞる。自分の顔がどんななのかはわかっている。振り払うこともできたが、しなかった。
「津美紀さんは、君が幸せでも怒らないよ」
デリカシーなんかない癖に、よるさんは黙って俺の眼の下を撫でている。隈が酷い、そういえばいいだろうに。
「アンタが津美紀の何を知っているんですか?」
「……津美紀さんを大事に思っている弟がいるってことは、よく知ってる」
「それは、知らないことと同じだろ」
影が揺れる。誰の影なのかわからないくらいに重なる。彼女はきっと薄い愛想笑いで俺を見下ろすのだろう。ガキだ。俺がガキだったから津美紀はああなったのに、俺は何も変わっていない。
「君も知ってる通り、わたしは自己中だからね。それでも、自己中でテキトーな人間だって、想像くらいはできるみたい」
「無責任だろ」
反射的に口をついて出た。
「アンタも俺も極悪人かもしれないじゃないですか。全員、本当のことなんて言ってないかも知らない」
「疲れるでしょ、それ」
答えずに爪先に視線を落とした。アスファルトを踏むスニーカー。少しだけ泥が跳ねて変色している。
「呪術師って自己中か身勝手な奴じゃないとやってけないよ。悪か善か決めるのは恵ちゃんの勝手だけど、わたしを悪だとか善だとかに当てはめないで。それくらいは自分で決められるからね」
息継ぎを挟んで、彼女は明瞭な言葉を言葉にした。
「それに、君にとって悪でもわたしにとっては正しいことだってあるでしょう」
これが拒絶だとわからないほど子供ではない。一定のラインをひかれた。先端まで真っ直ぐ伸びた枝で、地面を削り線を描くような境界線だった。……拒絶のくせに、酷く甘い処置。たかだか一つ年上で、俺と大して変わらない。差なんてものはない。いまでもそうだった。
「ガキだっていいたいんですか」
「……君がそんなだからわたしがここにいるわけ。……大事な人に笑っていてほしいなら、捧げられるものはなんだって差し出す覚悟ってのは必要だよ」
ねえ、恵ちゃん。その人は小さな子供に語りかけるように、奇妙な呼び名をなぞった。指先、手首、腕、首。順繰りに彼女を追う。「ねえ恵ちゃん、君だって知っているんじゃない?」
彼女の表情をみたとき、笑ってやろうと思った。アンタ、俺に説教するような立場ですかとかなんとか。そんな言葉も、嘲笑もすべて吹っ飛んだ。
アンタは、いつだって自分勝手で、たかだかひとつしか違わないくせに年上ぶって偉そうに言葉をかける。それがアンタだろ。何を受けても問題ないみたいな愛想笑いで、感情を覆い隠す。俺には見せない。
今日は苦しそうに眉を歪めている。厳しい言葉を受けているのは俺で、このひとではない。
この人は自己中で、身勝手だ。呪術師らしい人だと言える。でも、多分とても愚かな人でもある。馬鹿でも愚かでもなんでもいい。触れてくれるな、そう俺に説教を垂れて、その口で俺を排除することはない。
死にきれない良心。
「伏黒恵君。君ならわかっているよ」
冷たくて、無機質で、死んでいると錯覚しそうな人だった。
「……津美紀の呪いを解く、なんていえませんよ」
「そこまで言わなくていいよ、別に」
そこまで求めない。そう続ける彼女は不器用に微笑んだ。愛想笑いはあんなに綺麗だったのに、と思って、俺は何を言いたかったのかを見失う。
「わたしが正しいとか君が間違えているとか善とか悪なんて、言わなくてもいいよ」
赤い夕日がまぶしかった。先輩の手が俺の手にぶつかる。何でもないように離れる先輩の手を掴んだ。
「手」
「掴んでますが、なにか」
「嫌じゃないの?」
答えられなかった。黙りこむ。
「……雨上がりってちょうどいいし、もうしばらくここにいても?」
「俺がひとりになりたいっていったらしてくれるんですか」
「あー、しない」
「じゃあこのままでいいでしょ」
いいきったら、ぐわりと眠気が押し寄せていた。先輩にもたれかかる。あの人は何も言わなかった。こころなしか重なった手が熱くなった。ざまーみろ。
「……おやすみ」
そのあと先輩は……よるさんは黙る。ときどきエンジン音を立てて車が通りすぎ、アスファルトを蹴る誰かの足音、風が枝を揺らす音だけが聞こえる。火照った手と、少しだけ早い脈拍を数える。

22.12.23