星が落ちても大丈夫
さっきと同じようにそのまま雨の中を走った。コンビニをひとつ通り過ぎた時に、俺もよるさんも立ち止まらなかった時点で、“そう”なることを望んでいた。斜め後ろにいるよるさんの顔を見なかった。それでも、よかった。
水たまりを勢いよく踏んで、靴の中はぐしゃりと水がひしゃげた音を立てる。頬に肩に鼻に、雨粒がとめどなく降る。耐えきれず笑ったのはやっぱりよるさんで、あはは!なんて愉快そうな声をあげて額に張り付く俺の前髪を払う。お返し。子供のような応酬をして、アパートの玄関先に雪崩れ込む。
「よるさん」
伊地知さんに連絡しよう、とか、濡れてるからそのまま風呂に入った方がいいとか。片付けなければならないことが次から次へとポップアップしていく。それでも全ての言葉が喉の奥に詰まって出てこない。
こんなことしている場合ではない。狭い玄関で、濡れたよるさんの髪を払う。軒先と同じように。
やらなきゃいけないことは沢山ある。
頭ではこれ以上はダメだとわかっている。チカチカチカチカ赤いランプが激しく点滅している。顔を傾けて、よるさんの方に顔を寄せる。薄暗い室内。外は雨が地面に叩きつけられる音が聞こえる。
よるさんがゆっくりと俺から視線を逸らす。それから「恵ちゃんがしたいならどうぞ」と愛想笑いを貼り付けた。
「…………タオル、持ってくるんでまっててください」
うん、という声を背中で受け流した。五条さんがここにいなくてよかった。ヘタレだの、お子ちゃまだの言われるところだった。
脱衣所からタオルを取って、それからふと津美紀の古い部屋着のことを思い出した。捨てようかな。そう言っていた津美紀の背中。自分でやるから平気と笑ったきり、寝たきりになったことを思い出す。あの日も雨だった。
「よるさん、とりあえず拭いて……」
上着を脱いでいるよるさんにバスタオルを頭からかぶせる。シャツまで濡れていることを把握するところで思考を止めた。ボタンを二つくらい外したのはわかったが。
「そういうのはマジで観弁してくれますか」
「純情だなあ。かわいいね〜慣れてないんだ。まあ、中3で慣れててもなんか癪だけど」
バスタオルを肩にかけたよるさんが心底愉快そうに笑う。趣味が悪い。知ってたが、悪趣味だ。
「あ、このタオルいい匂いがするね。北海道みたい」
「なんですかそれ。というか、自分じゃわからないですよそんなの」
よるさんを脱衣所に突っ込んで、ドアを塞ぐようにもたれかかった。
「あのさあそこにいると恵ちゃんは濡れたままじゃない?」
「……別に」
着替えを置いていないことに気がついて、「着替え、あった方がいいですか」と尋ねた。
「まあ……あると助かるけど。なかったらなかったでタオルで隠せば」
「いや津美紀の着てください」
ドアが内側からノックされる。
「恵ちゃんが進行方向にいて扉が開かないっぽい」
「…………風呂場行ったらでいいですか」
「ふーん、恵ちゃんがいいなら」
「さっさと入れ」
衣擦れ。水を含んで少し重そうな生地が擦れて潰れた音がする。生々しくて思わずしゃがみこんだ。カタカタと何かが動く音がする。
「恵ちゃん」
ドアの向こうで声がする。姿勢を変えずに「なんですか」と答えた。
「匂いさ、ラベンダーだって」
「しょうもな……」
長くため息をついた。気の抜けた声をよるさんが笑う。かわいいね、そういってきたからうるさいとだけ返した。
「かわいいっていわれて喜ぶ男は赤ちゃんくらいですよ」
「別に恵ちゃんを喜ばせたいわけじゃないから問題ないかな。でもそっかあラベンダーかあ」
よるさんの面倒くささを限界まで煮詰めたような言葉だった。
「さっさと入ってください。そんな格好だと風邪くでしょ」
「あはは恵ちゃん、どんな恰好だって思ってるの?や〜らし」
「…………馬鹿ですか?ああ、馬鹿なのか」
今更〜?という言葉には答えず目を閉じた。
「恵ちゃん」
「着替えたんですね」
津美紀の着古した服があってよかった。馬鹿だから何するかわかったもんじゃない。馬鹿だから。津美紀なら怒ることはないだろうし。
「うん。これ恵ちゃんじゃなくて津美紀さんのじゃない?本人の許可なく借りて平気だった?」
「そういうので怒らないですよ。制服、洗濯機に突っ込んでおいてくれれば後で洗っておきますけど」
「たすかる〜。寮には予備があるからそのうち取りに行くよ」
「……住み着いたりしませんよね?」
「ああ、それもいいね」
「ふざけんな」
「冗談じゃん〜、あはは、かっわいい」
よるさんが俺の髪に触れる。毛先で遊ぶような手つきで、むずがゆい。見上げる俺によるさんがあはは、と笑う。何が面白かったのかはわからない。振り払って姿勢を正した。
「恵ちゃんもはいってきたら?お風呂」
「入るも入らないも俺の自由ですが。ここ、俺の家なんで」
「まあ、そうね」
視線をそらす。いつもは結わえている髪が解かれていて、知らない人のようだった。
「にやにやしないでもらえます?」
「してないって」
「してるからいってるんですけど?」
にやにやしたままよるさんが俺を見ている。してる、してないって、の不毛な応酬を切り上げたのは俺で、着替えをもって立ち上がった。脱衣所の扉を閉める前によるさんに忠告した。
「入ってこないでくださいね。つーか余計なことしないでそこでじっとしててください。絶対ロクでもないことになるんで」
「わたしが?恵ちゃんじゃあるまいし」
「人がさも入ってきたみたいな口調で言いうのやめてもらっていいですか」
キリがないのでそれだけ言い放って扉を閉める。洗濯機の上に置いた洗剤のボトルを手に取った。津美紀が良く買っていたものを買い続けている。いつ目が覚めてもいいように。薄紫色のラベンダーの香り、という丸い文字を撫でた。
見ていなかったものがたくさんある。見えていなかったものだってまだあるだろう。津美紀に対してしなきゃいけないことだって考える必要がある。そのくせに、息が詰まるほどちいさな脱衣所には甘い花の香りがしていて、困る。大きくため息をつく。
何も喜ばしいことではないが、俺は間違いなくよるさんに振り回されるのに慣れ始めている。
手早く済ませて、よるさんのいる居間に急いだ。俺に気が付いてよるさんがこちらを向いた。開けられた窓から生ぬるい風が入ってくる。
「雨、上がったみたい」
「……夏祭り」
よるさんが愛想笑いを浮かべる。いつかにひかれた境界線のことを思い出す。無くなるわけはない。
「夏祭りはできそうですね」
「さっきも言ってたけど、すきなの?夏祭り」
「別に」
よるさんから一番遠いところに腰を下ろす。フェイスタオルでガシガシと髪を拭く。吹いている傍から水滴が落ちて、スウェットや床に丸く水滴が落ちた。沈黙。窓の外には何もない。何もない窓の外を眺める横顔は多分ここを見ていない。
「……花火が、あがるんですよ」
なるべく自然に声をかける。自然に、自然に、自然に。口の中で転がすが『自然』なんてものは意識した瞬間はじけ飛んだようなものだ。
「花火?へえ、夏祭りで……。縁日とかでたりするの?」
よるさんの目が俺に向く。
「まあ、そうですけど、別に珍しくもない、よくある夏祭りですよ」
「いいじゃん、フツーのお祭り。ウチの夏の祭祀なんて退屈なだけだし」
苦々しそうに笑って、垂れた髪を耳にかけた。よるさんに手を伸ばす。驚いたようによるさんが目を見開く。目。至近距離になって初めて既視感に気が付く。満月だ。黄色で丸い、月。
恵ちゃん。よるさんが俺を呼ぶ。よるさんが俺の頭にひっかけたタオルを掴む。膝がぶつかる。パン、と遠くで音が爆ぜた。
「……何の音?銃?」
「いや花火です」
「え、あんな音なの?花火って」
「まあ、音は聞こえますけど、家からは花火良く見えませんよ」
網戸をずらして、少し外に身体を出して空を見上げた。ちょうど花火が上がった。大きいサルスベリと少し高さのあるマンションのせいで、中心は隠れている。
「あ、ほんとだ。ここなら寝そべれば少しでも見えそうじゃない?」
「…………津美紀も、同じこと言ってました」
「やったことあるの?」
俺が「ない」と答えるのと同時に手を引っ張って床に寝っ転がる。窓枠に軽く頭をぶつけた。ひゅるるると細い音を上げてそのあと赤い花火がぱっと現れた。
「こんなのでいいんですか」
一瞬しか映らないし、満足に見えないものなんて価値があるのだろうか。
「なに、恵ちゃんは花火が好きなの?」
「別に……でも、見たことないならちゃんと見たほうが」
「じゃあ今度連れていってよ」
また無茶苦茶なことをいう。呆れが顔に現れていたのか、よるさんがあはは、と笑う。眉間に指先が伸ばされて、ぐりぐりと揉まれた。
「あ、困った。大丈夫、冗談」
「……冗談じゃなくても別にいいですけどね」
「律儀だなあ、覚えてたら誘って」
よるさんの手を捕まえて、小指を絡めとった。
「約束してくれるんだ?」
「別にそれくらいならしてもいいって言ったでしょ」
「あははは、そっかあ……うん、じゃあ、覚えてたらね」
「さっきと言ってること何も変わってないですよ」
眉尻を下げて、うん、とよるさんが答えた。指と指だけが触れている。何も恥ずかしいことはないはずなのに、じわりと、耳、首、額、熱が向かう。
また花火が上がる音がする。太鼓のように弾ける音、空気を駆け上がる音、開く音が余分に心臓を震わせる。
「ねえ。泊まっていってもいい?恵ちゃんにはなにもしないからさ」
「それはこっちのセリフですけどね、普通」
なにもしない。よるさんの目が俺を映している。月のように綺麗だった。
「恵ちゃんがしたいことあるなら付き合ってあげるけど?」
見たことのない表情だ。俺もこの人も。指先だけが触れ合う。首筋から背中にかけてぞわりと悪寒が走る。悪寒のくせにそこまで不快じゃないもの。手。握ったら答えるように、対抗するように握り返してくる。
「恵ちゃんがしたいならしてもいいけどね、そういうこと」
俺の顔を覗き込むよるさんは、俺で遊ぶのが楽しいという表情だった。この人のこういうところに心底腹が立つ。俺が苛立つのも込みで楽しむからなおさらたちが悪い。本当に。
顔が近づく。鼻先が重なる。キスができそうだった。
「……マジでされたら泣くくせに」
津美紀の古いスウェットをきたよるさんが「どうだろうね」とはぐらかした。恵ちゃん。瞼を閉じてもよるさんの声がする。その感覚が意外と悪くなくて、よるさんを引き寄せた。
いつものような甘い花の匂いはしない。そのかわり、石鹸の香りがした。指を一本一本からめとった。よるさんの視線が少しだけぐらりと揺れたのが分かった。冷静な自分がこんなことしてどうする、と問いかけている。
「恵ちゃん、東京でたら気をつけなよ」
「…………一応聞きますけど、何に?」
「ちょっと容姿の整った女の子に優しくされて、ホイホイついていったらダメってこと。ちょっとキスされたくらいでこんなだもんなあ」
「いま危ないのって俺じゃないと思いますけど」
身体同士の隙間が埋まって、一瞬呼吸が不自然になる。そうかな、よるさんがぼやく。それから俺の耳に唇を寄せた。
「わたし、恵ちゃんがファーストキスだよ」
22.12.23