エリーゼは君のために

この人のことを特別だなんて思うわけがない。何度も言い聞かせる。薄く西日が差す埃っぽい図書室で、彼女の横顔を眺めた。のらりくらりとして軽薄な声がないだけで、深窓の令嬢のように見えるのが憎たらしい。高専の黒いジャケットを着ていないと普通の学生にも見える。周りでたむろっている奴を押し退ける。黙っていればいいのに。内心毒付きながら彼女のところまで辿りつく。
「アンタ何やってんですか」
「本読んでる」
「それは見ればわかるんですよ。俺が聞いてるのはどうして部外者のアンタが人の中学校の図書室に入ってるかって意味です。すっとぼけないでくださいよ」
「恵ちゃんに用事があって」
よるさんは目を伏せて下手糞な愛想笑いを浮かべた。いつもの余裕はどこにもない。一瞬の沈黙のうちに西日はもっときつくなった。
特に咎められないが、視線が刺さるのが煩わしくて入口からちょうど死角になる棚まで連れ出す。穏やかには連れて行けなかったせいで「まだ読んでるじゃん」と本を開いたまま文句を言われた。そんなことはどうだってよかったが。
「いや、普通に考えてくれませんか。他校生が図書館いたら目立つでしょ」
「家に行ったらいったで文句言うくせにね」
「学校よりマシです。つーか校門でよかったでしょ……それで、用事ってなんですか。また何か任務ですか」
よるさんが俺を黙って見る。黙っていればただの綺麗な人でしかない。それから一瞬だけ本に視線を落として、また俺を見た。よるさんの口の端が歪む。
「これで、おしまいだよ。また高専で会えたら会いましょう」
よるさんが読み聞かせを終えるように、本を閉じる。宮沢賢治全集第11巻。あまり本棚から持ち出されない本から埃が少量舞う。いつもの完璧な愛想笑いも、妙な口調もない。よるさんらしくなかった。

その日の晩、五条さんはうちに押しかけてきた。それから住所の書いたハガキを押しつけてきた。五条悟様と達筆で記されている。
「恵、僕の代わりにココ行ってきて」
ごく普通の葉書だ。何もおかしいところもないし不審な残穢だって感じない。五条さんの意図が全く掴めなくて、正直に「なんでですか」と尋ねた。
「多分恵には言っておいた方がいいと思ってさ。本当なら知らないままなんだから、僕に感謝してよ?」
裏返す。宛名書きと差出人の文字を探す。同じく達筆で記された名字に息を呑んだ。
「……ここで何をしてくればいんですか?」
五条さんのこの態度は多分周りに想像以上に影響を与えている。よるさんとか、五条さんの態度と通じるところがある。呪術師はエゴイズムの押し付け合いでしかないのか。「さっすが恵、物分かりがいいねえ」五条さんの軽口は無視して説明を待つ。これでも一応最低限の説明は与えらえてきた。最低限つっても基本足りねえけど。
「高紺の家だよ。とりあえず五条悟の名代っていえば入れるしそれで片が付くから安心してネ」
「高紺って」
五条さんの唇が弧を描く。意地が悪い、企んでいる笑み。この表情を見せた五条さんが俺にロクなことをした試しがない。それでも、俺には選択肢がないことはわかっていた。
「そ、よるのところ」

夢を見る。これは、悪夢と呼ぶのにふさわしい。
物言わぬ津美紀を見つめる俺、それを囲うように消毒液の臭いが染み付いた壁。呼吸音は俺だけ。時計も窓もないが呼吸と心拍で時間を感じる。夢らしく脈絡もなく登場した刃物を握りしめた。早く、津美紀の呪いを解かなければ。汗で手が滑るから幾度も握り直す。さっさとしろ、俺にはそれくらいしかできないだろうが。
「恵……?」
津美紀が目を覚ます。どうしたの、恵。微笑みかける。
「津美紀…………悪かった……俺が、俺は」
俺が……俺の父親が、津美紀の家に来なければ、こんな想いをしなくて済んだ。悪。悪とは因果だ。反吐が出る、何が善人が嫌いだ。悪人が甘やかされ飄々と生きるのがガキだ。俺とアイツらの間に境界線なんてもの、初めからなかった。
「いいの、恵。気にしないで」
津美紀の顔を見る。ああ、反吐が出るよ。こんな夢の中ですら、オマエの善性に縋るような自分の惨めさに。津美紀が起き上がる。カーテンのように大きく弧を描いて、ベットリネンが捲れ上がった。花の匂いが立ち込める。日向で干した布団の暖かさが蘇る。津美紀が小さな子供にするように、俺を抱きすくめる。
「よかったね、恵ちゃん」
抱きしめられる俺のそばで、よるさんが愛想笑いを浮かべる。嘲笑の透けた愛想笑い。よかったね、許してもらえて。幸せに暮らせるよ。隣に腰を下ろす。
よるさんが俺の耳元に口を寄せて、囁く。いつかの夜をなぞって。
「ね、おままごとって楽しいでしょう?」

きつい花の香りがした。

よるさんの最後の言葉から飛び起きる。額に張り付いた前髪をはらって、顔を覆う。おままごと。うわごとのように口の中で唱える。口が乾燥している。
津美紀に許される夢だ。許されたって、意味なんてない。許されたい訳じゃない。違う。俺と津美紀は、俺は、津美紀に幸せになってほしいだけで。津美紀の笑顔を踏みにじる呪いが憎くて。でも、きっと、津美紀を襲う呪いに姿があるとすれば。
思考がまとまらないまま、本棚に差し込んだ辞書を手に取る。おままごと。
「……家族ごっこ」
よるさんが恵ちゃん、そうやって俺を呼ぶ。夢でみた冷たい目線しか思い出せない。不都合なものを塗りつぶすように、善人でも悪人でもないよるさんを歪めていく。月のように黄色くて丸い、あの目が黒く澱んでいく。
机に投げ出した葉書に触れる。高紺という文字を人差し指でなぞって、あの人の体温を思い出そうとした。首まで赤く染める人。愛想笑い。あの人の身勝手さに振り回されている時は、自分を見なくて済んだ。ただ、そこにいることだけを考えていた。
不思議と会いたいとは思わなかった。
花の匂いを追いかけるようにストンと眠気がやってきたが、布団に戻る気にはなれない。もしも、次に見る夢があるとしたら、あの人に振り回される夢がいい。最後に笑い飛ばせるような。疲れて夢も見ないで眠れるような。
恵ちゃん、とあの人が俺を呼ぶ。白い指が俺の輪郭をなぞって、そのまま手を振っていなくなる。花が散るように風があの人の影を奪っていく。消える。
会いたくない。次に会ったら、なにを言うかわからないから。そして次にいう言葉がきっとあのひとの望むものではないことを知っている。愛想笑いを引き剥がす覚悟なんて、あるわけもない。

「え〜、恵、よるんとこ行ってくれないの?」
俺の返事に五条さんがあきれたように、こめかみを掻いた。白髪に包帯、黒ずくめ、という格好と合わさってうさん臭さが跳ね上がっている。高専の古い床を踏みながらさっさと進む。
「もう会いたくないんで」
「なにそれ、喧嘩?んじゃ尚更恵に行ってもらおっと」
「……会いたくないのは向こうもそうだと思いますよ」
「もしかして会いたくないとか言われた?」
違います、と答えたかったのに、声が出なかった。黙った俺に五条さんは、じゃあよろしく、なんて無責任な言葉を吐く。
「まあよるのことはおいておいても、あの近辺に行くのは勉強になる。現代日本においてあそこまで呪いと共存している場所はないからね」



気が進まなくて、なんどもなんども時間を確認した。約束の時間もいわれていないし、場所だって怪しい。ただ気が進まなくて、またスマホをかざして時間を見る。17:01。いくら夏とはいえ、そろそろ日が陰る。大きくため息をついてスマホを制服のスラックスにしまう。
不自然なほどに薄暗い森だ。肌をなめるような呪いの気配からして、この薄草差は呪術の影響だろう。呪術の森で守られた旧家。明らかに余所者を排除しようとする雰囲気に、舌打ちを打つ。めんどくさいこと押し付けやがって。
人の気配もないし、右も左も鏡映しのような景色だ。重苦しい灰色と淀んだ緑。
ポケットに突っ込んだスマホを取り出す。圏外の文字は完全に無視する。ここで電話が通じるなんてことは考えられない。17:23。この森に入ってからまだ20分程度だった。木々の隙間から人影が二つ見えた。女と男。
まさか、と乾いた笑みがせりあがる。背中が汗で冷たくなっている。嫌な予感だけが張りつめている。一歩彼らのいるほうへ近づく。
一定の距離をあけて歩いていた女が振り返った瞬間、男が覆いかぶさった。暗い中で刃物が光る。目元へ振りおろした。知らない男の背中だった。息が上がる。見間違いであればよかった。片目を抑えるよるさんと視線が合う。血に濡れた白い肌と、ゆれる黄色。「恵ちゃん?」間の抜けた声だった。
よるさん、と呼ぼうとするが喉が狭まって空気が入らなかった。背後の気配に気付いた男がそのまま俺を殴り飛ばす。起き上がると同時に顔面にこぶしが入る。
男がよるさんの胸ぐらをつかんで、地面に転がす。傷をかばうようにうずくまる。男が血に濡れた刃物を大きく振り上げた。ゆっくりと顔を上げる。あのひとは抵抗せず、地面に横たわったまま「恵ちゃん」と笑う。左目を押さえていた手が、俺の方へ伸びる。血で赤く染まっている。さよなら、そういわれたような気がした。
「玉犬」
反射的に印を結んだ。

「あーあ、死んじゃった」
「……は?」
頭部から血が流れた。男は倒れ、よるさんの膝の上に着地した。さっき、よるさんに詰め寄ったときと同じぐらいの間隔のまま。よるさんは「死んだねえ」とだけ口にして、眼球に懐中電灯を当てる。瞼から血を流しながら、男の顔に触れる。
「ほら瞳孔開いてる。まあクズだしいいんだけど、今じゃなくても問題なかったかもね」
「なんか、慣れてますね」
「そりゃあ初めてじゃないし。流石にもっとやばいやつ殺してたらこうはいられないって」
「やばいって、」
「そうね、例えば当主様、教祖様……あとは一般人とかさ。あと高専上層部もまずいかもね。あれは恩とか売っておいたほうがいいもの。ああ、そうだ。恵ちゃんも見学する?」
「なにを」
よるさんの指先が濡れている。左手が俺の手をつかんだ。子供みたいにわらった。らしくないぐらい俺の手を強く握りしめる。自分に言い聞かせるように手順を口にする。
「決まってるでしょ? 死体遺棄だよ」

22.12.31